Wheel of Fortune 1
翌朝。
空が白み始めるのを待ちかねて、明子は寝床を抜け出した。
客間に敷かれた明子の布団の隣では、姉の紫乃が眠っている。夕べは深夜までおしゃべりをしていたので、明子が起き出したことに紫乃が気がついた様子はない。明子は静かに着替えを済ませると、すでに起き出している使用人に挨拶がてら断りを入れて庭に出た。
和風に設えられた庭の木々は、一年中で一番暖かそうな色をしていたが、湿り気を帯びた早朝の空気は、敷石のひとつひとつをたどりながら歩く明子の頬にひんやりと凍みた。散り落ちた紅葉が池の深い青緑に鮮やかな色を添えている。しかしながら、明子が庭の美しさに見とれていたのは、ほんのわずかな間だけだった。彼女は庭を見渡すと、その広さと植栽の多さに、ためいきをついた。
「せめてもう少し狭いか、六条のお家の庭みたいに家の周りが芝生だったら良かったのに」
それでも、今の彼女には、そんな泣き言を言っている暇はない。起き出してきた姉から咎められる前に、明子には、どうしても、やり終えなければならないことがあった。
「ええと、どこだったかしら?」
明子は屋敷のほうを振り返ると、まずは、昨夜食事をした部屋を探した。
弘晃の祖父の時代に建て替えられたという中村邸は、美しい純和風の庭には不似合としか思えない鉄筋コンクリート造りの白くて四角張った味気のない建物である。建物は、池のある庭の2辺を囲むようにして、かぎ状に建てられており、明子がいる場所からだと、右手側が2階建て、左手側が1階建てとなっている。その1階と2階の境目に近い場所に、同じような形の腰高の窓が6つ並んでいる部屋があった。明子は背伸びをすると、窓から部屋の中を覗き込んだ。長いテーブルのようなものも見える。
「きっと、あの部屋よね?」
「なにが?」
庭に出ている者など誰もいないとばかり思っていた明子は、背後から聞こえた声に、ひどく驚かされた。小さく短い悲鳴を上げながら慌てて振り返ると、植え込みの陰から、ひどく不機嫌そうな顔をした森沢がのっそりと現れた。
「お、おはようございます。昨日は、結局、お泊まりになったんですね?」
ここで一番会いたくなかった人の登場に動揺しつつも、明子は、当たり障りのない言葉と笑顔で彼に挨拶をした。
「うん。話が弾んじゃってね」
森沢は、自分の話をする気はないようだった。明子の問いにそっけなく答えると、「それで? 君は、ここで何をしようとしているだって?」 と、話を戻した。
「ええと、その……」
「俺が昨日捨てたカフスボタンを探そうとしていた。そうだろう?」
森沢が、口ごもる明子を追い詰めるように、彼女に向かってぐいっと顔を突き出した。明子が何も言わないままに数歩後ろに下がると、彼は、「やっぱりそうなんだ」と決め付けて、鼻の頭にしわを寄せた。
「もしかしたらと思って、早起きしてみて良かったよ。君は、馬鹿がつくほど正直な良い子みたいだし、昨日は俺のことを、ずっと恨みがましい目で見ていたからね」
「すみません」
明子は謝った。
「昔の女との思い出の品なんぞ処分してしまったほうがいいんだ。せっかく捨ててやったというのに、どうして、わざわざ探し出そうとするかなあ?」
「すみません。やっぱり、どうしても気になって……」
「探さずにはいられないと? 本当に、くそ真面目というか、なんというか」
森沢が呆れたように空を仰いだ。
返す言葉をなくした明子は、うつむくしかなかった。明子にできないことを森沢が代わりにしてくれた。それは、ありがたいと思っている。でも、捨てられたボタンをこのままにするのは、明子的には気持ちが悪くて仕方がないのだ。彼女は自分のつま先を見つめながら、小さな声で「すみません」を繰り返した。
「俺に謝ることはないよ。 でもね」
森沢は、頑迷な明子を持て余したのかもしれない。まるで小さな子供に対してするように、うつむいてしまった明子の前にしゃがみこむと、下から彼女を見上げた。
「俺は、いつまでも昔の女との思い出の品を未練がましく取っておく達也が悪いと思うよ。達也にしても、あんなボタンを持っていることすら忘れていると思う」
(そんなことない。 達也さんは、彼女のことを忘れてなんかいない)
心の中で森沢に反論しながら、明子は、「姉にも同じことを言われました。それから、捨てるのは妻の当然の権利だって」と、小さな声で打ち明けた。
「俺も、紫乃さんの言うとおりだと思う」
森沢が微笑んだ。
「あんなもの、捨ててしまったところで君を責める奴なんていない。 でも、君は、そういうのは……なんて言ったらいいんだろう? 達也に悪いと思ってしまう?」
「悪いと言うよりも……」
彼女は、伏せたまぶたを上げると、森沢を見た。彼は、明子の顔をじっと見つめながら、彼女の口が次の言葉を紡ぎだすのを辛抱強く待っていてくれた。いつも笑っている人だというイメージがあるので、真面目な顔をして、こちらを見上げている森沢は、少し怒っているようにも見える。従兄弟だけあって、眉間に微かなシワを寄せている森沢の顔は達也と驚くほど良く似ていたが、森沢と達也とでは、対称的ともいえるほどに違ったところがあることにも、明子は気が付いていた。
結婚してから2週間。
達也は、いつでも忙しくて、明子の些細な話さえ、立ち止まって聞いてくれようとしたことなどなかった。たまに話をするといっても、達也の決定事項を明子が聞かされるだけだった。お互いに時間をかけて知り合おうと自分で言ったくせに、彼は、そんな時間をとってくれたこともない。一昨日が、その最初の機会といえば機会だったのだろうが、それも結局、なし崩しに、しかも最悪の形で終わった。
結婚してたった2週間しか経っていないから、意思の疎通を欠いてしまうのも仕方がないことなのかもしれない。しかしながら、明子が目の前にいる森沢と会うのは3回目でしかない。それでも、森沢は、この前も、そしてこの前の前も、いつでも明子を見て話をしてくれていた。
今日だってそうだ。森沢自身にとっては、ある意味どうでも良いことだろうに、彼は明子を持て余しながらも、彼女の言い分を聞いたうえで話し合おうという意志を態度で示してくれている。
「達也さんに悪いというよりも……ですね」
明子は、なんとか自分がしたいことを森沢にわかってもらいたくて、たどたどしいながらも自分の気持ちを言葉にしようと試みた。
「あれは、私のじゃないから…… 私が達也さんに内緒で勝手に持ち出してしまったものなんです。だから、私が捨てちゃダメだと思うんです。捨てるなら、達也さんが自分で捨てるべきだと思うんです」
森沢は、口をへの字にしたまま、明子の言葉を聞いていた。明子が話し終えた後も、しばらくは黙ったままだったが、やがて、「どうしても?」と、明子に念を押した。
明子は、コクリと首を縦に振った。
「そうか。じゃあ、仕方がないな」
面倒臭そうに言いながら、森沢が立ち上がった。
「あ、あの?」
「君の言い分にも一理ある……と思う」
でも馬鹿だとも思う。森沢は、そう付け足すのも忘れなかった。
「私も、そう思います」
「自覚があるのは、良いことだね」
「そんな言い方しなくても……」
「だって、その通りだろう?」
明子の恨みがましい視線などものともせずに、森沢が笑った。
「明子ちゃんって、聞き分けのいい良い子だとばかり思っていたけれども、けっこう頑固なんだな。本当に馬鹿というか、阿呆というか……」
「馬鹿も阿呆も、同じじゃないですか」
意地悪を言うのをやめてくれない森沢にムッとした明子が、口を尖らせながら文句を言った。
「ああ、本当だ。確かに君の言うとおりだね。明子ちゃんは賢いなあ」
「ひょっとして馬鹿にしてますか?」
「馬鹿になんかしていないよ。ただ、賢い明子ちゃんなら、あのボタンをこのまま過去に葬り去ったほうが後腐れがないってわかりそうなものなのに……って、残念に思っているだけだよ。わかっているなら、なぜ、わざわざ過去をほじくり返すようなことをしたがるかな」
「そういう性分なんです。賢くもないし」
明子は憤然と森沢から顔を背け、自分の周りの地面を見回し始めた。
「私をからかうのが目的ならば、もう充分楽しんだのではないですか? どうぞ、お部屋にお帰りくださいな。私は、頑張って探しますから」
「ところが、君を放っておく訳にはいかなくてね」
森沢が、聞こえよがしに大きなため息をついた。
「そうですね。森沢さんは、どんな女の人にでも優しくせずにはいられない方ですものね」
ここ数日、男性への不信感を募らせていたせいで、自分でも驚くぐらいにスラスラと明子の口から嫌味が飛び出した。
森沢が『女たらし』だという噂は、あちこちから明子の耳にも入ってきている。なにしろ自分の父親がそうだから、『女たらし』が『浮気者』と同じくらい始末が悪いことを、明子はよく知っていた。森沢は、気さくで優しい好い人かもしれないけれども、こういう男には心を許さないほうが自分のため。無視するのが一番だと明子の経験が告げている。
「そうかも。特にここ最近、それが原因で、しなくてもいい苦労を背負いがちなんだよね」
森沢は、明子に八つ当たりされても気を悪くしてはいないようだった。
彼は、彼女の嫌味を受け流すこともせず、かみ締めるようにしながら深くうなずいた。
「でもね。君を放っておけないのには、ちゃんとした訳がある」
「それって、森沢さんが女の人を口説くときの決まり文句ですか?」
「違うけど、機会があったら試してみるよ。ちなみに、君を放っておけないのは本当だ。なぜなら、俺がボタンを捨てたのは裏庭だから」
「は? だって、森沢さんがボタンを投げ捨てたのは、食堂だったでしょう?」
明子はビックリして顔を上げると、絶対に『裏』ではないと思われる手入れの行き届いた庭を見渡し、ついで、彼女が食堂だと思い込んでいた部屋のほうに目を向けた。
「あれも食堂だけどね。 でも、この家には、食堂が2つあるんだ」
森沢が微笑みながら種明かしをする。
森沢によると、明子が昨夜夕食をご馳走になったのは、小さいほうの食堂だという。ここから見える大食堂のほうは、体の弱い弘晃が無理に会社に通わなくてもいいようにと、普段から会議室代わりに使われているそうだ。夕べ食堂に移動したのは暗くなってからであったし、中村家の屋敷の内部の作りは入り組んでいるので混乱したのだろうと、森沢は明子に説明した。
「だから、俺たちが探すべき場所は、ここじゃなくて、あの建物の向こうだ。行くよ」
森沢は1階建てのほうを指差すと、彼女に背を向けて歩き始めた。
「え? あの? 俺たち? 行くって?」
ひょっとして、森沢は、明子と一緒にボタンを探してくれるつもりなのだろうか? 後ろから追いかけてくる明子の声にならない問いかけを察したかのように、森沢が、「ふたりで探したほうが早いだろう」と言った。
「……というよりも、捨てたのは俺なんだから、俺が探すべきだと思う。明子ちゃんは、部屋に戻っていていいよ」
「そういう訳には、いきません」
明子が首を振ると、「なに? そこも譲れないの?」と、振り返った森沢が眉をひそめた。
「ええ。森沢さんが言う通り、ボタンを探したいというのは、私の我がままでしかありませんから」
小走りで森沢を追いかけていた明子は、彼の隣に並ぶと笑みを向けた。
「それに、ふたりで探したほうが早いのでしょう? 私、姉に叱られる前に見つけ出したいんです」
「確かに、ボタンを探しているところを紫乃さんに見つかったら叱られそうだ。弘晃さんに昔の女がいなくて良かったと思うよ。紫乃さんの場合、万が一にでも、弘晃さんが昔の交際相手の思い出の品なんて持っていようものなら、思い出の品ばかりか昔の女もまとめて、庭に深い穴を掘って埋めてしまいそうだからね」
「そんなこと……」
明子は、森沢の軽口を咎めようとした。だが口を開こうとした途端に、うっかりと、姉が大きなシャベルを使って庭を掘り返している姿を想像してしまった。
「ほ~ら、紫乃さんならやりそうだと、君も思っただろう?」
笑い出した明子を見て、森沢が勝ち誇ったような顔をした。
「思いましたけど…… そんなこと言ったらいけないんですよ。それに、弘晃義兄さまは姉一筋ですもの。そんなことを言ったら失礼です」
明子は、頭をツンとそびやかすと、森沢を追い抜いて先に歩き始めた。
「確かに、その通りだね」
明子に叱られた森沢が大真面目な顔でうなずいた。
「今のは俺が言い過ぎました。ごめんなさい」
「本当に、反省してらっしゃるのかしら?」
「反省しているよ。もう馬鹿なことは言いません」
明子が疑うと、森沢が宣誓するように片手を上げた。
「口先だけの誓いなんて、信じられません」
「いやだなあ、本気で言っているんだよ。なにせ、これ以上明子ちゃんを怒らせると、俺が君に埋められてしまいそうだからね」
「まあ。 なんで、私が、そんなことをしなくちゃいけないんです?」
「そうだよねえ。俺を埋める前に、まずは達也を埋めないと……」
「また、そんなことを言う。いい加減にしてくださらないと、本当に穴を掘って埋めてしまいますよ!!」
森沢に軽口に釣られるように、彼を諌める明子の口調が、本人でさえ驚くほど辛らつになっていく。
言い争いなど、明子が一番好まないことのはずなのに、彼女の口元には、なぜか笑みが浮かんでいた。