Missing heart +1(side YUI)
(side 唯)
達也さんの結婚式から半月ほどが経った。
彼に会いに行ってしまったことを、私は、あの日からずっと後悔している。
あの人の顔。
あの人の声。
あの人の温もり。
あの人の匂い。
あの人と交わした幾つもの言葉、笑顔。そして、約束。
3年かけて、やっと忘れかけていたというのに、あの人と会った途端に、何もかも鮮明に思い出してしまった。
思い出したって辛いだけだってわかっているのに、なにを考えていても、いつの間にか、あの人のことを考えている自分がいる。幸いなことに、思い出に浸りきる余裕などないほど、私の今月のスケジュールは仕事でいっぱいだった。ただし、忙しいのは、レストランでの仕事ばかり。本業のモデルの仕事は、ここのところ、さっぱりだった。
今月の予定は1件だけ、そして、来月の予定はゼロ。この先このまま仕事がこなかったら、私はモデルをやめるしかない。
(廃業したら、いよいよ水商売かな)
赤いギンガムチェックのクロスが掛かったテーブルの上に残された皿を片付けながら、私は、そんなことをぼんやりと思った。
私たちの写真を求めるクライアントは、なによりもイメージを大切にする。出来上がった広告写真の出来がどれほど良くても、モデルに悪い評判があれば、そのモデルが広告に一役買った商品の評判までもが落ちるからだ。
まともなモデル事務所ならば、抱えているモデルの素行には常に厳しく目を光らせている。モデルが水商売を兼業していることがバレたら、即クビ。でもモデルを辞めてしまえば、そんな制約もなくなる。
(昔は、良かったな……)
私は、パリに行く以前のことを懐かしく思い出していた。あの頃の私は、今よりもずっと輝いていた。モデルとして充実した日々を送っていた。
あの人も……達也さんも、私の傍にいてくれた。
(だめだめ。達也さんのことは、もう忘れるんだから!)
過去を振り払うように、私は激しく頭を振った。その勢いで、片手に重ねていた皿の1枚がすべって床の上に落ちた。
「また、お前か!!」
私を罵る店主兼コック長の怒声が響く。
「最近たるんでるぞ。いい加減にしないと、クビにするからな」
割れた破片を拾い集める私の頭上から、海賊のように頭に青いバンダナを巻いた店主の嫌味な声が聞こえた。
「すみませ~ん。ごめんなさ~い」
メソメソしながら私が店長に謝ると、「泣き真似してんじゃねえよ」と、彼に冷たく突き放された。
(せっかく人が反省してやっているというのに……)
人の心をとろかすような美味しいものを作るくせに、この性格の悪さが、店長の致命的な欠点だ。
「だから、いい歳なのに、いまだに彼女のひとりもできないのよ」
……と、私がブチブチを文句を言いながら皿の片付けを終えた頃、いったん厨房に戻った店長が再び戻ってきた。また嫌味を言われるのかと思って、私は、とっさに身構えたが、彼は、「電話だ」と、私に告げただけで、さっさと厨房に戻っていった。
電話は、モデル事務所からだった。スーパーの衣料品のチラシが急遽差し替えになったので、今すぐにスタジオに入れるモデルが必要だということだった。
「今日はもう、もう上がっていいぞ。今のおまえなら、いなくても同じだからな」
事情を察してくれたらしい店主が、フライパンを振る手を休めずに無愛想に厨房から叫んだ。心遣いはありがたいのだが、この男は、いちいち私に嫌味を言わずにはいられないらしい。
「役立たずで悪かったわね! お皿代は、私のお給料から引いといてっ!」
私は、店主に捨て台詞を吐くと、お仕着せの制服の上から薄手のコートを羽織って、店を飛び出していった。
私が勤めている店は、(特に店長が)最悪だが、ひとつだけいいところがある。それは、この手の撮影が頻繁に行われるスタジオが集まっている場所に近いということだ。
精一杯急いで来たにもかかわらず、到着した途端に、「時間押しているから、さっさと用意してきて」と、髭面のカメラマンにぶっきら棒に指図された。いきなり人を呼びつけておいて失礼な奴だと思うけれども、泣いている暇も喧嘩をしている暇もないようだ。私は、彼に逆らうことなく、彼が顎で示したフィッティングルームへと飛び込んだ。
それから30分ばかりの間、私は、次々に飛んでくるカメラマンの指示に従い続けた。
「……はい。次、視線向こう。もう1枚。馬鹿、余計なシナ作ってんじゃねえよ。足、軽く引いて。そう。オーケー」
(言われるがままにポーズをとるだけのモデルとショーウィンドウのマネキンって、いったい何処が違うんだろう?)
私は、シャッター音を聞きながら、そんなことを考えていた。だけど、そんな疑問をカメラマンにぶつけるわけにはいかない。私は、ひたすら自分を殺して、カメラマンの言う通りにポーズを作り、笑顔を浮かべた。なにが気に入らないのか、カメラマンは、あれこれ指示を変えては同じようなポーズの写真を何度も取り続けた後、ようやく10分の休憩を入れることに決めた。
「休憩が終わったら、すぐに続きやるから。唯は、次の服に着替えてきな」
「は~い」
私は、ニッコリと微笑むと、フィッティングルームに戻るために、ライトがふんだんに当たっているカメラの前から小走りで抜け出した。急に訪れた暗闇に慣れずに、一瞬、目の前が暗くなる。そんなことには構わずに、走り続けようとしたら、コードのようなものが足に引っかかるのを感じた。
「きゃあっ!!」
「おっと」
倒れそうになった私を、誰かの腕が受け止めた。
「結婚式の時といい。相変わらず、そそっかしいようだな」
「え?」
私は、瞬きをしながら顔を上げた。
「久しぶりだね。パリコレ・モデルさん」
達也さんが、憎々しげな笑みを浮かべながら、私を見つめていた。
「達也さん? なっ、なんで、ここに?!」
「聞きたいのは、こっちのほうだ。どうして、君がこんなところにいる?」
「ど、どこにいようと、私の勝手でしょう?」
ぶっきらぼうに答えると、私は、達也さんの射るような眼差しから顔を背けた。
「仕事の邪魔だから、出て行ってくれないかしら?」
「仕事ねえ?」
達也さんが馬鹿にしたように笑った。
「仕事は仕事よ!!」
精一杯の虚勢を張って、私は彼を睨んだ。
「もちろん。スーパーのチラシというのは立派な広告媒体だし、そのモデルをすることだって、立派な仕事だと思っているよ」
達也さんが重々しくうなずいた。
「でも、パリコレに出るっていって僕をフッた大モデルさんがやる仕事にしては、やけにチンケな仕事だと思うんだけど。違う?」
「……」
私は、言葉に詰まった。違わない。そんなこと、私だってわかってる。でも、チンケだろうがなんだろうが、やっと回ってきた仕事なのだ。
「ふん。誰のせいで、こんなことになっていると思ってんのよ」
私は、彼の横をすり抜けるとフィッティングルームに滑り込んだ。達也さんは、ここのスタッフでもないし、紳士だ。だから、女が着替えている場所には入ってこられない。
「待てよ。僕のせいって、どういう意味だ?」
閉じたドアの向こうから、達也さんの声だけが私を追いかけて来た。
「言葉通りの意味よ! 喜多嶋グループの御曹司さまには、私みたいなモデルは相応しくないの!」
ドアに向かって、私は叫んだ。
「なんだって?」
達也さんの声が強張るのが、私にもわかった。
「なんで、そんなことを?」
「誰が言ったかなんて、今さら関係ないでしょう!!」
私は、フィッティングルームのドア越しに、達也さんに向かって叫んだ。
「唯?」
「帰ってよ!」
ドアノブを押さえ崩れるように膝をつく。
「もう2度と、私の前に現れないで!!」