Missing heart 10
その日の森沢は、前日に約束をしていたので、中村家で夕食をご馳走になることになっていた。
約束の時間よりも少し遅れて森沢が中村家を訪れると、彼よりも先に、なぜか彼の従妹の繭美が、ちゃっかりと上がりこんでいた。
「なんで、お前がいるんだよ?」
森沢は繭美に向かって言ったはずなのだが、なぜか彼女の隣にちんまりと座っていた明子が、「すみません」 と、彼女の代わりに頭を下げた。
「私が連れてきたの」
なにが誇らしいのか繭美が胸を張る。
「明子ちゃんがこの家に来た事がないって言ったから、強引に連れて来ちゃった」
「連れて来ちゃった……って。すみません、この馬鹿が勝手なことを……」
森沢は、繭美の代わりに中村家の人々向けて頭を下げた。だが、誰も彼女の勝手を咎めるつもりはないようで、弘晃とその母親はニコニコしているし、紫乃は、妹の突然の訪問にはしゃいでいた。
「今日は泊まっていってくれるのよね?」
紫乃が明子に微笑みかけると、明子が小さく微笑みながら、うなずいた。
姉妹が和やかに話をしている間に、森沢は、繭美に部屋の隅の隅のほうまで引っぱって行かれた。
「だって、様子がおかしかったのだもの!!」
小声だが、森沢の耳に口をくっつけるようにして、繭美が釈明した。
「おかしい? 明子ちゃんが?」
森沢が確認すると、繭美が深刻な表情を浮かべてうなずいた。
「うまくいえないけど、無理して笑っているというか、辛そうっていうか……」
繭美は、そもそも達也の家に用事があっただけで、紫乃の家に来る予定などなかったそうだ。しかしながら、明子をそのままにして帰るのは良くない気がしたので、半ば強引に姉のところに引っ張ってきたということだった。
「なるほど。良くやった」
森沢は、繭美をねぎらうと、明子のほうに顔を向けた。彼女は、紫乃と話していたが、繭美の言うとおり、どことなく沈んでいるように見えた。もしかしたら、彼女は、昨夜の達也の突然の外出のことを気に病んでいるのかもしれないと、森沢は思った。 達也は彼女にバレていないと信じているようだが、あれだけ嘘が下手な奴の言うことなどアテにはなるまい。
「そういえば、昨日は、すまなかったね」
夕食が始まり、会話が途切れた時を見計らって、森沢は努めて陽気に明子に声を掛けた。
「いきなり達也のことを呼び出しちゃってさ。 紘一伯父さんにも、叱られてしまったよ」
「え? 森沢さん、本当に達也さんとお会いになられたんですか?」
森沢の言葉に、明子は驚いたように目を大きく見開いた。明子の声が僅かに震えているような気がするのは、森沢の気のせいだろうか。
(まずいことでも言っただろうか?)
森沢は、不安になった。だが、達也と約束したことでもあるし、ついてしまった嘘はつき通すしかない。 森沢は、「うん、まあ」と、慎重に言葉を返した。
明子は、それ以上、森沢を困らせるようなことはしなかった。「そうですか」と、森沢の言葉を受け入れると、「気になさらないでください。 達也さんの帰りが遅いのはいつものことですから」 と、笑顔を見せた。笑っているのに彼女の笑顔は弱々しく、ふとした弾みに泣き顔になってしまいそうなほど儚げに見え、森沢をどうしようもなく落ち着かない気分にもさせた。
「あのね。明子ちゃん!」
森沢は、箸を置くと、身を乗り出すようにして明子に顔を近づけた。
「困った事があったら、俺が、いつでも、なんでも相談に乗るからね。だから、決して一人で抱え込むようなことはしないで、その……」
森沢は言葉に詰まった。彼は、自分の周囲の視線が冷たいのを、ひしひしと感じていた。
「俊くん。それは、あなたの役目じゃなくて達也くんの役目だと思うの」
隣に座っていた繭美が小声で彼を戒めながら彼の袖を引き、「すみませんね。 この人、女と見ると見境がなくて……」 と、苦笑いをしながら彼の代わりに謝った。誤解を招くような繭美の言い方にはカチンときたものの、森沢も、照れ笑いを浮かべながら頭を掻いた。その様子を見て、一同がどっと笑う。
「いいじゃない。ナイトがふたりもいたら、頼もしいわよね?」
弘晃の母親が優しい笑顔で明子に話しかけると、彼女は、響きの良い笑い声を上げながらうなずいた。 今度の彼女の笑顔は、心からの笑顔に見えた。すっかり道化になってしまった森沢だが、その笑顔が見られたことで、少しだけ報われたような気がした。
「でも、本当に、相談になら、いくらでも、どんなくだらない事でも乗るからね」
恥かきついでに、森沢は明子に念を押した。ついでに、「俺に話せなかったら、こいつでもいいから」と、繭美も巻き添えにすることにした。繭美が、「うん、何でも言ってね」と、親しみを込めて明子に笑いかけた。
「じゃあ、早速なんですけど、森沢さんって、お仕事柄、ファッションには、お詳しいですよね?」
明子は、なにやら思い出したようで、自分のハンドバックを持ってくると、中からハンカチに包まれた何かを取り出した。
「これなんですけど、扱っているお店とか、お分かりになりますか? 裏にロゴのようなものがあるのですけど」
「これは……」
見せられたものを前に、森沢は当惑した。
それはカフスボタンで、1枚の葉っぱが欠けた4つ葉のクローバーの形をしていた。ロゴなど見なくても、森沢は、それを良く知っていた。毎年クリスマスのシーズンになると、必ず新作が発表される、とある店の定番のシリーズ商品である。デザイン的にかなり甘ったるいので、森沢は苦手だが、恋に恋する乙女の憧れの逸品であるらしく、自身も、クリスマスが近づくたびに、複数の友人からコネを利用して手に入れてくれるようにと頼まれる。つまり、これは、恋人同士が、クリスマスをいつも以上に仲良く過ごすためのアイテムとして、非常に人気が高い商品なのである。
しかしながら、これがどういうものだか知らずに手にしている明子は、 いったい、どこからこれを持ってきたのだろうか?
明子が手にしているカフスボタンは、3、4年前に発売されたものであると森沢は記憶している。若者がカフスボタンをつける機会などめったにないだろうに、こんなものが果たして売れるのだろうかと思った森沢の予想通り、人気シリーズであるにもかかわらずこれだけはやはり売れなかったらしい。 このシリーズのカフスボタンは、後にも先にも、これ一種類のみである。
(まてよ。 3、4年前と、いったら……)
「まあ! 《 Missing Heart 》 ね」
森沢が、答えるのをためらっているうちに、女たちがはしゃいだ声を上げた。
「お姉さまも、ご存じでしたの?」
明子が、驚いたように紫乃に顔を向けた。
「有名よね?」
紫乃が言うと、森沢が止める間もなく繭美が、「《 Missing Heart 》 はね EVER AFTER という、どちらかといえば若者向けの宝石屋さんの人気商品なのよ」 と、応じながら、明子の手の上のカフスボタンを摘み上げて説明を始めた。
「この3つの葉っぱしかないクローバーと、小さなハートの形のトップがついたネックレスとが対になっててね。 この欠けたところに、そのハートが収まって、4つ葉のクローバーになるわけ。ふたつ合わせてひとつの形になるアクセサリーを、彼と彼女が、ひとつずつ持つことで、お互いの愛……」
得意になって語っていた繭美がふいに口を閉じ、紫乃と目を見合わせた。それから、ふたりそろって、明子を凝視した。
「ねえ、これ、誰の?」
「ねえ、明子ちゃん。ハートのネックレス……って、持ってる?」
「えっと、その……」
姉たちからの追求をかわすように、明子が苦笑いを浮かべながら目を伏せた。
(やはり、達也の、だったか)
森沢はこめかみを指で押さえた。
あの馬鹿は、なぜ昔の女との思い出の品などを大事にとっておいたりするのだろう? しかも、明子の目の届く場所に、なぜ不用意に置いておくのだ? 森沢は、心の中で盛大に達也をののしった。こんなことなら、達也をもっと痛い目にあわせておくのだったと、激しく後悔もした。
「で、でも、それ、男女ペアとは限らないし。ねえ?」
「そうそう、いろいろな種類があるのよ。タイピンとか、キーホルダーとか。それから、4枚の葉っぱが全部ハートに分かれていて、4人でひとつずつ持つっていうのもあったわ。男女ペア仕様のでも、仲の良い女の子同士で持つこともあるわね。紫乃なんて、下級生の女の子から、幾つも渡されて……」
沈んだ顔の明子を前に、紫乃と繭美が失言の埋めあわせ始めた。だが、目の前にあるものは、ペア仕様のカフスボタンで、一方の持ち主は達也である。同性間の恋愛にケチをつけるつもりはないが、当時の彼が付き合っていたのは、パリコレ進出を理由に彼をふった女性モデルであった。
「いずれにせよ」
森沢は、繭美の手からカフスボタンを受け取ると、明子に言った。
「これは、達也の過去であって、今じゃない。それは、わかってあげられるよね?」
「わかってます。もう、過去のことですから」
明子が意外にしっかりとした口調で返事をした。
「よし、いい子だ」
森沢は、明子にニヤリと笑いかけると、席を立った。
「じゃあ。 これも、過去に葬ってしまおう」
「え? ちょ、ちょっと、森沢さん? いったい何を……」
困惑している明子を無視して、森沢は窓辺に向かうと、大きく窓を開けた。
外はだいぶ冷え込んでいた。雲の掛かった月が朧に庭を照らし、ススキの影が微かな風に穂を揺らしている。
そのススキの穂をめがけて、森沢は、カフスボタンを投げ捨てた。
「ああっ! なんてことを!」
森沢の背中に手をかけながら、明子が悲鳴を上げた。
「昔の女との思い出の品なんて、捨ててしまったほうがいいんだよ。達也が怒るようなら、俺が代わりに謝ってあげるから」
カラカラと森沢は笑った。
これにて、一件落着!
過去さえ振り向かなければ、達也と明子は、明るく幸せな未来を築いていくことだろう。
この時の森沢は、そのことを全く疑ってはいなかかった。