Missing heart 9
「なんの話かな」
達也がそう答えるまで、たっぷりの間があった。具体的にいえば、応接セットのソファーに移動した森沢が、弁当のふたを開けて、割り箸を手に「いただきます」と言いながら一礼することができるぐらいの余裕があった。
「とぼけるなよ」
弁当から達也に視線を移した森沢は、更に呆れた。知らぬふりを通そうとしているらしい達也の顔は、能面のように無表情だった。これでは、「隠し事があるので、表情を消してます」 と顔にはっきりと書いてあるようなものである。
「昨日、俺と会っていることになっているんだろう? でも、俺は会っていない」
「僕は、そんなことは……」
「言ったんだろう? 明子ちゃんに」
あくまでシラを切ろうとする達也に、森沢は思い出させた。
「昨日、俺が電話したときに、彼女がそう言っていたぞ。 ついでに、今朝、おじさんにも夫婦の甘い時間を邪魔することはまかりならんと叱られた」
「明子に電話したのか?!」
森沢を勝手に共犯者にしたてあげたのは達也のくせに、彼は、ようやく誤魔化す相手を間違えていることに気がついてくれたようだ。
「正確には、明子ちゃんに電話したんじゃなくて、君に電話したの」
お茶と弁当を手に森沢の向かい側のソファーに移動してきた達也に、彼は律儀に訂正を入れた。だが、達也は、イラついたように、「そんなのは、どっちでもいいよ」と、言い捨てた。男が夜中に自分の妻に電話をかけてきたとしたら、森沢だったら大問題に感じると思うのだが、達也にとっては、どうでもいいことであるらしい。
「そ、それで、君と会っていなかったことは、明子や父さんには……」
達也が、彼にとっての最大の関心事に話を戻した。
「言っていないよ。知らないほうがいいだろう。明子ちゃんが可哀想だ」
森沢は、自分が明子と電話で話した5分後に達也が帰ってきたことまでは知らない。彼が首を横に振ると、達也はあからさまにホッとした顔をした。
「でも、どうして、僕が女性と会ってたって……」
「決め付けるのか? じゃあ、達也くんは、男と会うのに妻に嘘をつく必要を感じるのかい? 女じゃなければ、犯罪がらみ? それとも借金取りにでも追われているのかな?」
だんだん腹が立ってきたので、森沢は、わざと達也を煽った。
「僕に限って、そんなこと、あるわけがないだろう」
達也は、馬鹿にされることには敏感であったらしい。声を大きくした。
「なら、やっぱり女じゃないか」
森沢は笑った。絶対に適わないと思っていた優等生の従兄弟が、こんなにわかりやすい男だったとは。森沢にとっては新しくも意外な発見であった。
「それで、浮気してんの?」
「してないっ!」
噛み付かんばかりの勢いで達也が否定する。
「それは良かった。でも、浮気じゃないなら、なんだよ?」
森沢がたずねると、達也は、うつむいたまま黙りこんでしまった。これ以上、無理に聞き出すのは難しそうだ。
森沢は、達也が自主的に話し始めるまで待つことに決め、弁当を食べ始めた。店長お勧めの弁当というだけあって、なかなかの味とボリュームである。特にとんかつが美味だった。衣がさっくりと揚がっている。
森沢は、取調べ中の刑事よろしく、全く箸をつけていない達也に「美味いよ、食べれば?」と勧めた。達也が下を向いたまま、弁当を手元に引き寄せて、もそもそと食べ始めた。しばらく間、彼は無言で食べ続けていたが、やがて箸を止め、「昔の……」と、ポツリと言った。
「ふむふむ。『昔の』女と、焼けぼっくいに火がついた、というわけか?」
「違うっ! 何もない! 僕は、とっくの昔にフラれたんだっ!」
森沢がすかさず突っ込むと、達也が顔を上げて叫んだ。
「なるほど、フラれちゃったんだ」
森沢は、達也の目を見て、ニッコリと笑った。動揺している達也の様子から、どうやら嘘は言っていないようだと、森沢は判断した。
「それで?」
「……。うん。 付き合ってた。3年ぐらい前だ」
森沢が続きを促すと、達也は、観念したらしく、すらすらと話し始めた。
達也によると、女の名前は香坂唯というそうだ。職業は、モデル。付き合い始めたのは、達也が25歳の時。半年ほどの交際期間の間に、達也の気持ちは大きく結婚へと傾いたようだが、唯のほうはそうではなかったらしい。ある日、いきなり、唯は彼に置手紙だけを残して、去っていった。これを逃したら後はないと思うほど大きなチャンスが巡ってきたので、パリに行くとのことだった。玉の輿よりも、パリコレ。結婚して可愛い奥さんになるよりも、モデルとしてのキャリアを積みたい。彼女が達也をフッた理由は、つまり、そういうことであったらしい。
その後、唯との音信は途絶え、 達也も、あえて彼女の消息をたずねるような事はしなかった。だが、先日の自分の結婚式の日に、達也は、その香坂唯と偶然再会したそうだ。
「偶然?」
「うん、結婚式の会場にいたんだ」
それは偶然じゃないだろうと思いつつ、森沢は、ため息をついた。その唯という娘は、たまたま『いた』のではなく、達也の結婚式があることを知って、わざわざ『来た』に違いない。だが、言ったところで達也が悩むだけだろうから、森沢は黙っていることにした。
それはさておき、3年ぶりに再会した唯は、達也の目には、あまり幸せそうには見えなかった。外国で成功しているとばかり思っていたのに、なぜ彼女が日本にいるのか? 気になった彼は、唯の消息を調べさせた。
「それで、昨日、やっと居場所がわかって……」
「それで、会いに行ったのか?」
「会いに行ったというか、見に行ったというか……。スーパーのチラシのモデルなんてやってた」
達也が、肩を落として、うなだれた。
その時、達也は少しだけ唯と言葉を交わした。やり取りは短かったが、達也は、彼女の言葉に引っかかるものを
「『別れたくて別れたんじゃない。別れさせられたんだ』 みたいなことを言ってた」
「なるほど」
着々と弁当の中身を減らしながら、森沢が納得したようにうなずく。
「驚かないのか?」
「別に」
森沢にしてみれば、驚いている達也のほうが不思議だった。
達也には悪いが、森沢は、その唯という娘に、ファッションの本場で活躍できるほどのモデルの才能があるとは思えなかった。喜多嶋紡績は、仕事柄アパレル関係の会社との繋がりが深い。フットワークが軽い森沢は、達也とは違って、そういった取引先の現場で働く人々と接触する機会が頻繁だし、モデルの友人も多い。ゆえに、パリコレに出られるような才能あるモデルだったら、必ず彼の耳に入ってくるはずである。だが、彼は香坂唯の名前など聞いたことがない。
それに、3年前といえば、達也が元外相の孫娘と婚約した年でもある。この縁組を仕組んだ誰かにとって、唯は邪魔な存在だったに違いない。だから、誰かが、彼女を達也の手の届かないところに追いやることにしたのだろう。
(祖父ちゃんか祖母ちゃん、あるいは達也の両親、それとも、婚約相手だった女の身内か……)
『誰か』の心当たりなら、森沢には幾らでもあった。
「無理矢理遠ざけられたのか、それとも、パリコレに釣られて自分から離れていったのか、それはわからない。でもな。いずれにせよ、彼女はお前と別れることを選択したんだ。お前だって、彼女を追わなかった。そうだろう?」
森沢は箸を置くと、達也に言い聞かせた。
「だから、もう終わったことにしろ。何かの行き違いで別れることになったせよ、これを機会に彼女とヨリを戻そうなんて考えるな。明子ちゃんはいい子じゃないか。政略結婚だってのに、やさぐれもせず、一生懸命に、お前のために良い奥さんになろうと頑張っている。裏切ったら可哀想だよ」
「わかっている」
達也が大真面目な顔でうなずいた。さすが良い子の優等生。昔の恋人が現れたことで、達也が馬鹿な考えにのぼせているようなら厳しく説教してやろうと思っていたが、森沢の考えすぎであったようだ。
ホッとした森沢の頭に、ちょっとした悪戯心が湧いた。
「そういうわけなら、俺は、喜んで、昨日の夜は君と過ごしていたことにしておいてやろう。お前が昔の女と会っていたなんて決して言わないであげるから、だから……」
森沢は、いきなり達也に向かって手を合わせた。
「どうか、お願いします! 研究所の大幅縮小の件は、もう少しだけ待ってやってください!!」
「は?」
達也は面食らった顔をし、それから真っ青になった。
「君は、僕を脅す気なのか?」
「脅されていると思えば、この先、昔の女に会いにいこうなんて気も起こらないだろう?」
森沢は、精一杯に意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
他人の弱味につけこんで自分の望みを叶えようとするのは悪いことだと、森沢にもわかっている。だから、本気で達也を脅迫するつもりはなかった。だが、達也にも、ちょっとしたお仕置きが必要だ。
「頼む。 1年でいいんだ。その間に、自分たちで、できる限りのことはする。研究も全部見直して、必要のないものは、やめていく。だから、お願い! もう少し待ってください」
彼のお願いが聞き遂げられたのか、それとも、森沢の味方についた小父たちの説得に負けたのか、午後の会議では、森沢は達也から、かなりの譲歩を引き出せた。
向こう1年間。森沢が総責任者となって、研究所だけではなく、喜多嶋グループ全体のコスト削減に当たること。 そして、1年後には、達也が設定した達成目標をクリアすること。
それが、研究所の存続のために、達也が出した条件だった。