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悪い女のつくりかた  作者: 風花てい(koharu)
悪い女のつくりかた
15/88

Missing heart 8

 翌朝。


来るのだか来ないのだか、そもそも来るつもりがあるのかどうかもわからない達也を待つつもりなどなかったのに気になって一晩中眠れなくなってしまった森沢は、二日酔いであることも手伝って、かなり機嫌が悪かった。しかしながら、彼の機嫌を悪くしている一番の原因は、彼が眠れない間に思いついてしまった達也に関するある疑惑のせいだった。そのことを考えるだけで、森沢の心は不快感で一杯になる。ならば考えなければいいのだが、疑惑というものは、考えまいと思うほど考えてしまうものらしい。


「全部、達也のバカのせいだ」


 喜多嶋本社の一階でエレベーターを待ちながら、森沢は悪態をついた。自分が寝不足なのも、機嫌が悪いのも、ついでに二日酔いなのも、なにもかも達也の責任であると、彼は決め付けることにした。


 その諸悪の根元であるところの達也は、今日の会議で、森沢の父親が責任者を務める喜多嶋ケミカルの業績不振を理由に、附属の研究所を潰しにかかる予定でいるらしい。本日の森沢の一番の任務は、父親の代理として達也の計画を阻止することにあった。


「あの野郎を返り討ちにしてくれる」

 敵意をむき出しにしてつぶやいたものの、互いの能力と実績、そして周囲の者からの信頼度の差を考えてみると、森沢に勝ち目がないことは明らかで、その事実が彼の気持ちをいっそう荒ませる。今日もまた、彼がどれだけ頑張ったところで、達也に言い負かされるのがオチなのだろう。 結局、自分は達也に負けっぱなし、勝てることなど一生ありはしない。やり場のない怒りと不快感を持て余しながら喜多嶋本社に到着した彼は、乱暴にエレベーターを呼ぶボタンを押した。


 それから待つこと数十秒。森沢は、両側にゆっくりと開いたエレベーターの扉の向こうに、喜多嶋化粧品のキャンペーン用の超特大ポスターを見つけて目を瞠った。 


「なんだこれ?」

 エレベーターに乗り込むことも忘れて、森沢は呟いた。大きさもさることながら、森沢の興味を引いたのは、そのポスターに使われているイラストだった。今どきの化粧品のポスターに、写真ではなくイラストを使用しているのが珍しいということもあるが、森沢は、これとそっくりな構図を持つポスターを、もう1枚知っていた。


 このポスターは、30年ほど前の戦後まもない頃に作られた『胡蝶』のポスターのリメイクに違いない。



「なんで、今さら、こんなもんが?」

「来年が、喜多嶋化粧品の50周年だからだよ」

 物言わぬポスターに向かってうなっている甥の背中を押し込むようにしてエレベーターに乗り込んできたのは、森沢の叔父であり従妹の繭美の父親でもある喜多嶋化粧品社長、喜多嶋伊織だった。

「ついでに言えば、その新生『胡蝶』のポスターを掲げてから、およそ30年になる。だから、ここらで、もう一回生まれ変わるのもいいかと思ってね」

 叔父によれば、来年は50周年記念のための企画が目白押しで、喜多嶋化粧品は、これから忙しくなるとのことである。


「なるほど」

 森沢は納得してものの、何でもいいから誰かに八つ当たりしたい気分だったので、「でもさ、俺、このポスター嫌い」と、叔父を相手にポスターにケチをつけ始めた。

「このポスターって、オペラの『蝶々夫人』をイメージしているんだよね?」

 森沢は、大きく描かれている女の背後にぼんやりと描かれている海と、海を眺めているらしい女の後姿、それから、その海に浮かぶ船のようなものを示して言った。

「俺、あの話は嫌いなんだ。女が待っているばかりで、そのうえ、旦那に妻がいるとわかった途端に文句の一つも言わないうちに自分から死んじまうなんて、奥ゆかしいというよりも可哀想だし惨めだよ。 せめてピンカートンを道連れにすればよかったんだ」


 だが、森沢が失礼なことを言っても、叔父は上機嫌だった。

「そうだな。私も、そう思うよ。実は、このポスターは、始めからアンチ・マダム・バタフライなんだよ」

「そうなの?」

「ああ。自害は、蝶々夫人が自分の誇りを守るため精一杯の抵抗だったと思う。それはそれで潔いかもしれない。でも、戦争中、軍は『辱めを受けるぐらいなら死を』と女たちに教えた。そんなのは、絶対に間違っている。だからといって、戦争に負けた途端に敵国人だった相手に無闇に尻尾を振るのもみっともない」

「そういえば、じいちゃんがそんなことを言っていたような……」

 森沢は思い出した。ついでに、森沢にオペラの『蝶々夫人』の粗筋を聞かせ、『せめてピンカートンを道連れにすればよかったんだ』と、彼に過激な思想を植え込んだのが祖父だったということも思い出した。


「『それよりも、あんな不実な男に振り回されて命を落とすより、さっさと男に見切りをつけて捨てちまえばよかったんだ』って、そうも言ってた」

「そう。『これからは、女はもっと自由になっていい。男にも依存しない。海の向こうにも憧れない。自分の欲しいものは与えられるまで待つのではなく、自分の足で取りに行く。誇りを失わず、流行にも男の好みにも左右されず、自分の心のままに、なりたい自分を目指せばいい。それが女性本来の美しさに繋がる』 ……というのが、当時の社長、すなわちお前の祖父さんが打ち出した、30年前の新生『胡蝶』のコンセプトなんだ」

 だが、浮気者で無責任なアメリカ人のピンカートンを殺しかねない勢いで作った化粧品のポスターに、その制作意図までを盛り込めば、当時の日本を支配していたGHQの怒りを買うことは明らかである。下手をすると、発売中止にされかねないので、このコンセプトは、製作者側だけが知っていればいいこととして、表向きは伏せられた。

「はっきりとは言わなくても、このポスターのオネエさんの生意気そうな眼差しだけでも、自分たちの意図は、正しく伝わるだろうからってね。実際、ここ30年で女は強くなったよな」

「確かに」

 叔父と一緒にポスターを眺めながら、森沢が心から同意したところで、エレベーターが10階に到着した。エレベータを降りたところにも、そして、会議室に至る廊下のあちこちにも、やはり同じポスターが貼ってあった。

「でも、本社の中に、こんなに化粧品のポスターをベタベタ貼ってもいいの? 紘一伯父さんが気を悪くするんじゃないかな?」

 心配する森沢に、叔父は、「構わないさ。 ここは喜多嶋紡績の本社であると同時に、喜多嶋グループの本拠地でもあるんだから」 と涼しい顔でうそぶいた。


「それに、誤解するなよ」 と、叔父は、すれ違う社員に笑顔で挨拶をしながら、厳しい口調で彼に言う。

「私が化粧品部門を主力にしようと言っているのは、自分がトップに立ちたいからじゃない。そうしたほうが安定的な成長が見込めると思うからだ。紘一兄さんにしても、彼なりの主張があるだけだよ。私たち兄弟の争いは、単なる主張の違い。わかるな?」

「うん」

「いいか。同族企業なんてものは、外から新しい風が入ってこない分、中から腐り始めたら終わり。お家騒動なんてしている場合じゃないんだよ。兄さんだって、そのこと充分に承知しているはずだ。私だって、いざとなったら、自分は身を引いて兄さんに全てを譲る覚悟はしている」

「叔父さんが辞めるってこと?」

「ああ。それに、うちは娘2人だそ。仮に私が兄を追い落としたとしても、あの2人が、おとなしく私の跡を継ぐとか、私が跡取りとして選んだ有能な男と結婚してくれると思うか?」

「思わない」

 森沢は、気の強い従妹たちの顔を思い出しながら即答した。

「そらみろ。それに兄さんが気を揉んでいるとしたら、それは、うちじゃなくてむしろ…… あ、兄さん、おはようございます」

 叔父が唐突に話を止めて、向こうから歩いてきた伯父の紘一に、朗らかに笑いかけた。

 

 紘一伯父のほうは、険悪な表情を浮かべながら叔父に向かって突進してきた。

「伊織! あのポスターは、なんなんだ?!」

「おやおや? なぜ怒るんです? 兄さんは、きっと気に入るだろうと思っていたのに」

「誰が喜ぶんだ、誰が! あんなの、嫌がらせでしかないだろう?」

「嫌がらせなんて、とんでもない。私は、兄さんに喜んでいただこうと思ってですね」

 伊織が、喚く紘一を宥めながら会議室に入っていく。

「やれやれ。なにが、『兄さんも、充分に承知しているはずだ』 だよ?」


 白けた気分になりながら、森沢は伯父たちの後に続いた。




 会議室には、既に出席者のほとんどが集まっていた。筋金入りの同族企業だけあって、その顔ぶれは、先日の結婚式や法事の時と、あまり変らない。会議前に交わされる会話の内容は、身内のネタばかりであるし、普通の会社なら厳しいはずの上下関係も、あってなきが如しである。

「俊鷹。昨日の夜は、よくも達也を呼び出して、久しぶりの新婚夫婦の語らいの時間を邪魔してくれたな」

 本日の出席者の中では一番偉い紘一が、一番の下座へと向かう森沢に、恨みのこもった眼差しを向けた。昨日電話で明子から聞かされた通り、昨晩の達也は、帰宅後に森沢から呼び出されたことになっているらしかった。

「すみませんでした」

 濡れ衣を着せられたことに腹は立つものの、森沢は抗弁することなく、おとなしくしく紘一伯父に謝っておいた。


 まもなく、達也が、会議の始まる時間きっかりに、秘書を従えて、颯爽と会議室に入ってきた。彼は、席の全部が埋まっていることを目で確認すると、いきなり本題に入った。


 海外への工場移転と現地での安価な労働力の確保。それに伴う国内の幾つかの工場の閉鎖と大規模な人員削減と給与カット。加えて、下請け企業の工賃の引き下げや、『金食い虫』との評判が高い喜多嶋ケミカル付属研究所の思い切った規模の縮小。


 研究所のことに限らず、達也が提示してきた再建案は、どれもこれも森沢の気に入らなかった。達也の提案は間違ってはいないだろうが、これは最終手段として考えるべきことだと彼は思った。こんなことをする前に、他にもっとできることがあるはずである。早急に大きな成果を上げることを狙って、このような安直な手に走れば、今は良くても、いつかきっと後悔することになるに違いない。


 森沢は、達也の気を変えさせようと思いつく限りの反論をし、代替案も出した。森沢も、喜多嶋グループ全体の経営が思わしくないことはわかっているし、ただ、漫然と現状を維持したいわけでもない。また、弘晃などと関わるうちに、いかにすれば自分たちの会社を良くすることができるのかということを、真剣に考えるようにもなっていたから、自分なりの意見も持っていた。だが、森沢の提案は、彼が口にするそばから、「そんなのは理想論に過ぎない」だとか、「口で言うのは簡単だが、できっこない」「効果が期待できない」という達也の言葉で、ことごとく退けられてしまう。

「できるかできないかなんて、やってもみないうちから、わからないだろう。だいたい、研究費は喜多嶋ケミカルの利益から出させて、成果は他が持っていくんじゃ、うちの採算が合うわけがない」

「それは、そうだ。それでも、直接の利益に結びつかない研究が多すぎる。僕は、それを整理しろと言っているだけだ」

 会議で発言しているのは、もっぱら森沢と達也だった。他の大勢は、若いふたりのやり取りを黙って見守っている。どのみち森沢は、援軍など期待していなかった。どうせ周りの皆は達也のやり方が正しいと思っているに違いなく、口を開けば、『良い子』の達也の味方をするに決まっているからだ。ならば、黙っていてくれるだけでもありがたいと、彼は開き直ることにした。


 午後を少しすぎるまで森沢は粘ったが、結局、達也からは何の譲歩も引き出せなかった。

「くっそ~! 完敗かよ!!」

 紘一が二時間後の再開を決めて一同を散会させ、達也が涼しい顔で出ていった後、森沢は悔し紛れに机を叩いた。そんな彼の肩を、「そんなことないぞ」と、森沢のまた従妹やまたまた従妹の父親にあたる小父たちが、励ますように叩いていく。

「……え?」

 森沢が驚いて振り向くと、数人が彼に笑顔を向けていた。

「なかなか頑張ったじゃないか。まさか、俊鷹がここまでやるとは思わなかったよ」

「お前の言うことにも一理ある。今回の達也は確かに強引過ぎると俺も思う。午後は一緒に頑張ろうな」

「あ……うん。どうぞ、よろしくお願いします」

 思いがけない言葉に、森沢は、ぎこちなく頭を下げた。


「ところで、私らは、これから、うなぎを食いに行くつもりなんだがね。どうだ?」

「あ、いいよ。俺、ちょっとやることがあるから」

 森沢は、笑顔で昼食の誘いを断ると、荷物を手に会議室を出て、2階上まで階段を駆け上がった。目的地は、達也のオフィスである。係長の森沢とは違って、達也には本社内に自分専用の部屋がある。


 秘書の案内で入ってきた森沢を見て、達也が驚いた顔をした。

「昼食でも一緒にどうだ?」

「いいよ。どこに行く?」

「ここ」

 森沢は、もってきた袋を達也の机の上に置いた。

「行きがけに買ってきたんだ。日替わり弁当がお勧めだっていうから、それにした」

「なんで、弁当?」

 達也が不思議そうに眉をひそめる。

「ここなら、人に聞かれる心配がなさそうだから」

 森沢は答えると、お茶を運んできた達也の秘書の久本に、「しばらく誰も入れないように」と頼んだ。胡蝶のポスターの女性と同じで、『美しい』というより『ハンサムな』という形容詞のほうが似合いそうな達也の秘書は、「かしこまりました。それでは、電話も取り次がないようにいたしましょう」と 微笑んで、部屋を出て行った。


「それで、昨日の夜は、どこの女と会ってたんだ?」


 ドアが閉まると、森沢は、単刀直入に要件を切り出した。





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