Missing heart 7
※(夫婦ですが)同意に至っていない性交渉を匂わせる記述があります。
一方、喜多嶋家では、明子が、どこか噛み合わなかった森沢との会話に首を捻りながら、通話の切れた受話器を見つめていた。
この日。秘書の計らいによって達也が珍しく早い時間に帰宅した。それが、今から4時間ほど前の午後7時半頃であった。結婚式以来、達也の帰宅が遅かったので、明子が彼と夕食を共にしたのは、この日が初めてだった。食後には、彼が土産に買ってきたケーキを食べ、その後は、リビングでしばらく寛いだ。
8時半を回った頃。姑の多恵子が、「今日は、なんだか眠くてしかたがないわ。もう休むわね」と、わざとらしく大あくびをしながら部屋を出て行った。多恵子の退出に合わせて、台所の片づけを終えた通いの家政婦や住み込みの使用人たちが、そそくさと部屋に引き上げていき、リビングには明子と達也の二人だけが残された。義父の紘一は、まだ帰宅していなかった。
家の中は、急に息を潜めるような静けさに包まれた。
「今日は、皆、引き上げるのが早いようだね」
達也が不思議そうに呟いて、家に持ち帰ってきた書類に再び目を落とした。明子は、彼の湯飲みが空になった時にに茶を継ぎ足すぐらいで、特にすることもない。仕事をしている人の横で時間つぶしにテレビを見るのも気が引けた。ならば本でも読もうかと、明子が嫁入り時に持ってきた書物のことを考えながら出口のほうに目を向けると、その仕草に気が付いた達也が、「あ、君も眠たかったら、もう休んでいいよ」と、書類から顔を上げぬまま、彼女に声をかけてきた。
達也の見当違いな気遣いに、明子は苦笑いを浮かべた。気詰まりなので、この部屋から立ち去りたいという思いはあるものの、明子がそれをしたら、多恵子を始めとした皆の心遣いをムダにすることになってしまう。明子は、「いいえ。まだ、眠くはありませんから」と首を振ると、足元にあったマガジンラックから、大きめの雑誌のようなものを引っ張りだして読み始めた。
その本は、喜多嶋グループの歴史を編纂した社内誌のようなものであるらしく、創業者の生い立ちから始まって今のような大企業になるまでのあらましがまとめられていた。文章は堅苦しくて読みづらいものの、ファッションに深く関わりのある企業だけあって、掲載されている写真は、どれも華やかである。特に化粧品部門については、明子も使っている化粧品の歴代のキャンペーン用のポスターなども掲載されており、眺めているだけでも充分に楽しめる内容になっていた。
(へえ。『胡蝶』って、こんなに昔からあったんだ)
読み進めていくうちに、明子は、彼女の母たちの中に愛用者が多い化粧品の古い白黒のポスターを見つけた。それは、化粧品のポスターというよりも、戦中は自粛していた化粧品販売の再開と新製品発売の予告ポスターのようなものであるらしかった。元のポスターの印刷の状態がかなり悪いうえに縮小されているので見づらいが、『新しい時代へ……』というキャッチフレーズと誘うような微笑みを浮かべる女性の姿が明子の目を引いた。
そのページに書かれていた説明によると、戦後の喜多嶋化粧品は『胡蝶』を筆頭に、『女性本来の個性と輝きを手に入れる』ということをコンセプトに、製品を使った本人が、『キレイになれた』と実感できるような化粧品を目指して、天然由来の成分にこだわった肌に優しい製品作りを心がけてきたとのことである。また、これらの研究は、20年ほど前に喜多嶋化粧品直轄の開発部門ができるまで、現在の喜多嶋ケミカルの研究所で全て行われてきたそうだ。基礎的な研究は、今でも、そちらに依存するところが大きいと書かれている。
(喜多嶋ケミカルの研究所って、達也さんたちが話していたところよね?)
明子は今朝の会話を思い出していた。この研究所は森沢の父親の会社の管轄で、これから縮小されるということだった。
明子は、いつの間にか、暇つぶしであることも忘れて、その本に夢中になっていた。キリの良いところまで読んだ明子が本から目を離すと、達也がこちらを見ていた。
「お茶ですか?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃなくて……その……今、気がついたんだけれども、ひょっとして、母さんたちは、僕たちに気を使って早く休んでくれたのかな……と思ってね」
達也がためらいがちに明子に言った。ようやく気がついたらしいと、明子は苦笑いを浮かべた。だが、何事にも控えめを旨とする明子のこと。達也の鈍感さを彼女が責められるはずもない。
「さあ、どうなんでしょう?」
「明子は、お嬢さまだから、こういうことには疎いんだね。でも、きっと、そうだと思うよ」
達也は、笑って惚ける明子に自信たっぷりに請合うと、膝の上に乗せた書類や筆記具をテキパキと片付け始めた。どうやら、彼は、気がつくことに遅い分だけ、思い立ったら決断の早い人であるらしかった。持ち物を全て小脇に抱えて立ち上がると、彼は彼女に手を差し出した。
「え?」
「さあ、行こうか? 明子」
差し出された手から上に明子がぼんやりと視線を移すと、達也が爽やかに微笑んでいた。
「………………。え?」
「嫌なのか?」
戸惑う明子に、不思議そうに達也がたずねる。
「い、嫌という訳でもないんですが……」
明子は口ごもった。一応、ふたりは夫婦である。ここで明子が『否』というわけにはいかないだろう。とはいえ、だが、これまでのペースに比べて、この展開は早急すぎやしないか? それとも、どこの家でも、こんなものなのだろうか? しかしながら、少しぐらいは、しっとりした雰囲気とか、甘い言葉などが事前にあって然るべきなのではないだろうか?
(それに、何か思いつめていたことがあったのではなかったのかしら? そのことは達也さんの中で解決したのかしら?)
困惑したまま固まっている明子の曖昧な返事を、達也は『諾』と受け取ったらしかった。
「じゃあ、おいで」
達也が、微笑みながら明子を急かした。
「は、はい。では」
覚悟を決めた明子が達也の手を取ろうとした。すると、タイミングをはかったかのように廊下で電話が鳴り、達也の手が触れかけていた明子の指から、すり抜けていった。
電話に出るべく大またで部屋を出て行った達也をゆっくりと追いかけて、明子は暗く冷たい廊下に出た。
「もしもし、ああ君か?」
彼の話し方からして、秘書あるいは彼の部下からの電話だろうと、明子は推測した。
「……。そんなことを? で? 場所は? どこだ?」
メモを取ろうとしたのだろう。 顎で受話器を挟み気短にたずねながら、達也が脇に抱えている荷物を探る。そのはずみで、何枚かの書類が、廊下にすべり落ちた。書類を拾おうと、とっさに近づいて行った明子を、達也が目で制した。どうやら自分は邪魔をしてはいけないようだ。そう察した明子は、『先に部屋に行きますね』という素振りをして、彼から離れた。
数分後、明子が寝支度をしていると、達也が部屋に入ってきた。
「なにか、あったんですか?」
難しい顔をしている達也に明子がたずねると、「いや、たいしたことじゃないから」という返事が返ってきた。 だが、答えた彼の顔は、それまで以上に難しいものになった。
「いいんだ。たいしたことじゃない。とにかく、もう寝よう」
明子を誘っていたことも忘れて、達也が布団に潜り込む。だが、思うように眠れなかったらしい。しばらくすると、イライラした様子で達也が起き上がった。
「くそっ!」
達也が、八つ当たりでもするように足を覆っている羽根布団に両手を叩きつけた。
「どうかしたんですか?」
明子は、再び達也に問いかけた。
「いや、何でも……」
達也は口ごもり、しばらく迷う様子をみせたあと、思いつめた顔を明子に向けた。
「悪い。ちょっと出かけてきてもいいだろうか?」
「今からですか?」
「ああ。実は、仕事のことで、今日中にやっておかなければならないことができたんだ。つまり、その、今日予定していた会議のことで、俊鷹が、どうしても話がしたいって言うんだ。ちゃんと話をしておかないと、あいつ、明日の会議で暴れるかもしれないから……」
なんどか口ごもりながら達也が言った。
「じゃあ、今の電話は、森沢さんから?」
「ああ。だから、これから奴のところに行って話してきたほうがいいと思うんだ。いいかな?」
「ええ、それは、もちろん。お仕事ですから」
「恩に着るよ。ごめん。今日こそは君と過ごそうと早く帰ってきたのにね」
達也は、明子の機嫌を取るように彼女の頬に手を添えて詫びると、急いで支度をし、家を飛び出していった。
それが、午後9時ごろのことであった。
その後すぐに、義父が帰ってきた。せっかくの新婚夫婦の甘い時間を森沢が台無しにしたことに憤慨しながら、義父が明子の給仕で夕食を食べ終えて自室に引き上げていったのが10時半。そして、今は11時過ぎである。
達也が出かけてから、もう2時間は経っている。それなのに、森沢が達也に電話をしてきた。森沢の話ぶりから、達也がいまだに彼のところに行き着いていないことは確実である。
森沢家所有のマンションは表参道にあると、明子は聞いている。そして、明子の家は松涛にある。最寄り駅で言えば、原宿と渋谷で隣同士。もっとも、電車に乗るために最寄り駅に向かうよりも目的地を目指して車で行ったほうがずっと近い。つまり、どんな手段を使っても、2時間もあれば充分行って帰ってこられる程度の距離しかない。
「会えなかったのかしら? 入れ違いになっちゃった……とか?」
そんなことを考えながら明子が部屋に戻ろうとした時、玄関で鍵を開ける音がした。
帰ってきたのは、達也だった。
「明子。まだ起きていたのか?」
達也は、廊下に佇んでいる明子を見て、酷く驚いた顔をした。驚いたのは、明子も同じである。
「あの、ついさっき、森……」
「遅くなって、ごめんね。俊鷹が分からず屋で、なかなか納得してくれなくてね」
明子の声に、達也の謝罪が被さった。
「森沢さんとお会いになれたんですか?」
家の中に入っていく達也の背中を追いかけながら、明子は、今しがた切ったばかりの電話を振り返った。
「まさか、だって……」
森沢からの電話を切ってから、5分程度しか経っていない。いくら近いといっても、彼の部屋からここまで、5分で戻ってこられるわけがない。ましてや、話し合いをする時間など、あろうはずがない。そう言いかけた明子の口を、「黙って」と、達也が振り向きざまに彼の唇で塞いだ。初めてキス、しかも突然。 明子の頭の中から聞きたいことが全て吹っ飛んだ。
達也の唇が彼女から頬に移動し、彼の手が、明子の肩から腕に向かって滑るように動いた。それと同時に、彼女の衣服の胸元が大きくはだける。驚いた明子は、大きく身をよじったが、達也にしっかり抱きしめられているために身動きが取れない。
「あ、あの?」
「出かける前の続きをしよう」
困惑している明子の耳に息を吹き込むようにして達也が囁きかけた。
「つ、続きって……」
呆然としている明子をほとんど持ち上げるようにして、達也が彼女をベッドに連れて行く。彼女の寝巻きのボタンに手をかけながら、達也が、横たわった明子の髪や頬に頬を摺り寄せた。
「僕を信じて。大丈夫。僕が幸せにしなければいけないのは君だ。君だけだ。どこにも行かない。青い鳥なんていない。4つ葉のクローバーなんていらない。僕はここで……」
うわごとのように囁き続ける彼の息が、明子の素肌をくすぐる。誰にも触れさせことのないような場所に、彼の手が伸びる。
「4つ……葉、の、クローバー?」
初めての感覚に翻弄され、脅え、抵抗し、息を切らしながら、明子は、達也の言葉を繰り返した。達也は、明子の言葉を聞いているのかいないのかはわからない。彼は彼で、彼女の全身にキスを落としながら、切れ切れに言葉を紡いでいた。
「いらない。もう……遅いんだ。 今さら、過去に戻るなんてこと……できない」
「 か
こ? 」
未知の感覚が、明子の思考を麻痺させていく。達也に聞きたいことが沢山あるのに、彼女の問いは、言葉となる前に吐息となって空気に溶けた。
意のままにならない体と同様、彼女の心の中もまた荒れ狂っていた。達也への疑念と、彼を信頼したい……信頼しなければならないという気持ち。彼を愛したいという気持ちと、その反対の気持ち。あらゆる感情が一斉に彼女の心を支配しようとし、そして、彼女は、それら全ての感情を一度に受け入れようとすると同時に、全てを拒否しようとしていた。
やがて、彼女は考えることを諦め、そして何もわからないまま闇の中に落ちていった。