Missing heart 6
その夜、森沢は、友人たちと飲みに出かけた。場所は、青山。現地が仕事場でもある友人に連れられていったのは、ジャスピアノの生演奏を聞かせる無国籍風の料理屋だった。
友達と語らいながらも、森沢は、中村家でのことが頭に引っかかっていた。
ふとした弾みに、『このまま、明子ちゃん夫婦が幸せになってくれれば、僕たちの心配は、数年後には笑い話になってしまうのでしょうけどね。でも、六条さんは、娘のこととなると何をしでかすかわからないところがあるから……』と言った時の弘晃の憂いに満ちた表情や、『わたくしも気をつけるし、繭美にもお願いしているけれども、森沢さんも明子のこと気にしてやってくださいますか? 森沢さんは男の方だから、達也さんとも、何かとお話する機会もあると思うから』と言ったときの紫乃のすがるような眼差しが森沢の脳裏に鮮明に蘇ってくる。出された料理も料理に合わせた酒も、どれも美味しいのだが、森沢は、どうにも心が弾まなかった。会話にも身が入らないし、酔いも回った気がしない。
「あんな写真が、なんだってんだよ」
酒の勢いを借りて、彼は、独りで毒づいた。明子の父親が怒っていようがいまいが、要は明子が幸せであればいいのだ。そうすれば、全ての心配は杞憂に終わる。
だけども、そうならなかったら、どうなる?
「……っていうか、俺、関係ないじゃん」
明子を幸せにすべきは達也である。明子によれば、達也は、結婚式での反省を踏まえて、善き夫となるべく頑張っているとのことである。だったら、森沢が心配することなど、もう何もないはずである。それなのに、なにゆえ、森沢が、こんなに悩んでいるのか? なんだか、背負わなくてもいい厄介ごとを自ら背負ってしまったような気がしてしかたがない。
「まいったな」
森沢は、今日何度目かの『まいったな』を呟いた。
「でも、まあ。 頼まれてしまったからには、たまには様子を見に行ってあげますかね」
「あら、誰の?」
彼の隣に座る腰まである長い髪の美女が嫣然と微笑みながら、小首をかしげる。
「今日の俊さんは変ね。独りでブツブツ言うばかり」
「悪い。ちょっと気になることがあってね」
グラスの中の氷をカラカラと鳴らしながら、森沢が思い出し笑いをする。
「その笑いは、女の人ね?」
ビロードのような柔らかな声で彼女が決めつけた。
「まあね。 どんくさい優等生女だけど」
「美人?」
「君には劣る」
「けど、良い子なのね」
「おやおや。とうとう俊くんも、年貢の納め時なの?」
向かいに座る小柄な女が、好奇心一杯の目で、ふたりの会話に割り込んだ。
「年貢?」
「運命の人に出会ったってことよ」
「そんなんじゃないよ」
森沢は笑った。
「ただ、放っておけなくなっただけ。しっかりしていそうなのに、なんか抜けてそうで、見ていて危なっかしいんだよ」
どちらかといえば、紫乃と同じ。明子の保護者みたいな心境にある彼である。
「馬鹿だね。そういう抜き差しならない状態を運命っていうんだよ」
森沢の、はす向かいにいる男が笑った。ちなみに、隣にいる美女がモデルで、目の前にいるのがデザイナー、そして、デザイナーの隣にいる男が森沢の幼なじみである。
「違うよ。本当に、そんなんじゃないんだ」
森沢は、友人たちの言葉を否定するように、ゆるゆると首を振った。運命である訳がない。達也は従兄だし、明子の姉夫妻とは友人だ。森沢は、一種の身内として、明子に幸せになってほしいだけである。
だが、運命の神さまは、時に、特定の人物を狙って集中的に嫌がらせをすることにしているらしい。
上京してきた家族が気兼ねなく使えるようにと、森沢家が家族名義で借りているマンションの一室に深夜に帰宅した彼を出迎えたのは、けたたましい電話の音だった。
『お前はっ! こんな遅くまで、どこをほっつき歩いてたんだっ!』
受話器を取るなり、父親の怒号が二日酔いに移行しつつある森沢の脳みそを掻き回した。
「父さん。お願いだから、もそっと小さな声で……」
『会議はどうなった? 本当に大幅縮小になってしまうのか?』
森沢の言葉を無視して、父が喚いた。
「会議は延期だよ。ところで、何が縮小だって?」
『だから、うちの研究所だ!』
呑み込みの悪い森沢に、父は苛立っているようだった。
『明日の会議で、達也が、うちの研究所でやっている研究のほとんどを凍結することを提案するらしいって噂だ! 本当なのか?』
「なんだって?」
森沢の酔いが一気に醒めた。
「とにかく、これから確認する」
森沢は電話を切ると、受話器を置かぬまま、喜多嶋家に電話をした。呼び出し音を聞きながら時計を見る。午後11時。この時間ならば、電話を掛けてもギリギリで許されるだろう。
森沢からの電話に出たのは、使用人ではなく明子だった。
「夜分遅くにごめん。達也はいるかな? 話がしたいんだけど?」
森沢がたずねると、『あら? まだ、そちらに着いていませんか?』と、妙な返事が帰ってきた。彼女によれば、達也は森沢に呼び出されて、2時間ほど前に家を出たとのことだった。
「俺に呼び出された?」
『ええ、達也さんは、そう言っていたのですけど、違うんですか?』
「ち、違うような、違わないような?」
これから彼が実行しようとしていたことだが、まだ実行はしていない。森沢は、返答に困った。何かおかしい。達也は明子に嘘をついているのか?
『は?』
「いや、何でもない。そうか、こっちに向かっているのならば、いいんだ。もう少し待ってみるよ」
森沢は、適当に誤魔化すと電話を切った。
「俺が達也を呼び出したって? どういうことだよ??」
電話を睨みながら、森沢は呟いた。
明子によれば、自分が達也を呼び出したのは2時間も前だという。 達也の家から、この部屋までは、車を使えば15分も掛からない。歩いたとしても、一時間もあれば着くはずである。
「じゃあ、あいつはどこにいるんだよ? まさか、長野に行った……ってことはないよな」
森沢が東京にいることは、達也も知っているはずだ。
「いったい、今度は、なんなんだよ? あ~っ! もう、訳わかんねえっ!」
森沢は、乱暴に首を振ると、ベッドに突っ伏した。
強かに酔っ払っていたはずなのに、その晩、森沢のもとに眠りは訪れてはくれなかった。
そして、明け方まで待っても、達也が、森沢の東京の部屋や彼の長野の家を訪れることもなかった。