Missing heart 5
(あの間が、気になるんだよなあ)
喜多嶋家から逃げ出したその足で中村家を訪れた森沢は、考え込んでいた。
2週間ぶりに会った明子は、幸せそうに見えた。森沢が大の苦手としている多恵子伯母との関係も良好であるようだった。ところが、これなら大丈夫そうだと森沢が安心したのもつかの間、彼が紫乃への言づてはないかとたずねた途端に明子がみせた、あのためらい。明子が当たり障りのない伝言を笑顔で森沢に託すまでに生じた間と、その僅かな間に彼女の顔に浮かんだ憂いに満ちたあの表情は、いったい何を意味するのだろうか?
明子は、本当は、紫乃に伝えたい事があったのではないか? それも、深刻な…… たとえば、たかだか2週間前に近しくなった程度の男には託せないほど深刻な、姉にしか相談できないような悩み事を現在の彼女は抱えているのではないだろうか?
森沢は、安心するために明子を訪ねたはずだった。それなのに、なぜか新たな心配事を抱え込むことになってしまったようだ。
「……ったく、まいったな」
森沢は声に出してぼやいた。しかしながら、森沢の呟きを聞きつけた紫乃は、別の意味に受け取ったようだった。
「お客さまなのに、放ったらかしにして、ごめんなさいね」
森沢が持ってきたアルバムを手にソファーの向かい側に座っていた紫乃と、アルバムの周りに群がっている彼女の姑と弟嫁、その他数名がバツの悪そうな顔をした。喜多嶋家に渡したアルバムとは違い、彼女たちが見ているアルバムは、新郎新婦の写真と紫乃の実家である六条家の家族の写真をメインにまとめてあった。とはいえ、花嫁の写真以上に好評を博しているのは、喜多嶋の伯父が中村一族からの祝電に感涙している写真であるようだった。(もちろん、この写真は、喜多嶋家に渡したアルバムには収められてはいない)
「弘晃さんは、すぐに来ると思うけれど……」
紫乃が、リビングの入り口の方に顔を向ける。彼女の夫は、自宅内の仕事部屋にて本社の社長から(つまり彼の父親である)の電話に応対中とのことだった。
「気にしないでいいよ。 客だってことを忘れて、別の考え事をしていただけだから」
森沢は、ひとりで気を揉んでいる紫乃を安心させるように、笑顔を見せた。外からの侵入を拒むような高い塀に囲まれた閉鎖的な外観とは裏腹に、中村家の屋敷の中は、来る者を包み込むような暖かさがある。殊に、リビングの居心地の良さは格別で、綿100パーセントのベロア地のモカブラウンのクッションを抱え込みながら風通しが良く柔らかな陽が差し込むソファーで寛いでいると、森沢は、ここが自分の家でないことを、ついつい忘れてしまいそうになる。
「そういえば。いただいたクッキーって、この間、持ってきてくださったのと同じでしょう? あれ、また食べたかったの。嬉しいわ」
気にしないでいいと言われても、律儀な紫乃にそれができるはずもない。彼女はアルバムを他の者に預けると、森沢の近くの床に正座をして彼の相手を始めた。
「気に入った?」
「ええ、とても。長野のお店なのね。あちらには、よく行かれるの?」
菓子箱の中に入っていた説明書きでも読んだのだろう。紫乃がたずねた。
「行くんじゃなくて、来てるんだけれど」
紫乃の勘違いに気が付いた森沢は、クスクスと笑いだした。
「『来る』って?」
紫乃は、まだ気が付いていないらしい。きょとんとした顔をしている。
「俺、長野在住なんだ」
「え? 嘘っ!」
「本当だよ。今日も夜明け前に向こうを出て、車で来たんだ。でも、予定していた会議が流れてね」
それをいいことに、彼は、こうして知り合いの家々を回って羽を伸ばしているわけである。
「全然知らなかった」
「田舎者で、びっくりした?」
「違うわ。これまで森沢さんが住んでいる所も知らなかった自分に驚いているだけよ」
森沢がからかうと、紫乃がムッとした顔をした。過去に惨いイジメを経験した紫乃は(ちなみに、このイジメの首謀者は、恥ずかしいことに、森沢の従妹の繭美であったそうだ)、生まれや素性で人を差別する発言に対して過敏になることがある。
「でも、どうして長野なんですの?」
「勤めている会社が、そこにあるから」
「そうなんでしょうけど。私が聞きたいのは、そういうことではなくて……」
「喜多嶋グループの発祥の地だからですよ」
ちょうど部屋に入ってきた紫乃の夫が、柔和な笑みを浮かべながら、混乱気味の妻に教えた。
単なる比ゆ的な表現とはいえ、中村物産グループなどという重たそうなものを背負わせたら、真ん中からポッキリと折れてしまうんじゃないか? そんな恐れを見る者に抱かさずにはいられないほど、か弱そうなこの男が、明子の結婚式の時に伯父がしきりに会いたがっていた中村物産グループの事実上の最高責任者である中村弘晃、本人である。
「喜多嶋グループは麻糸と綿糸の生産から興った企業なんです。あの辺りは古くからの和綿と麻の産地ですから」
「でも、化繊や外国から入ってくる原料に押されて産地は衰退する一方。喜多嶋の本体も全国展開してしまって、現在は、喜多嶋の子会社の本社と研究所だけが残っているというわけ」
弘晃の後を引き受けて、森沢が説明した。
森沢の父親が代表を勤め、彼自身の勤め先でもある喜多嶋ケミカルは、化学繊維を生産販売するための会社である。他が全部出て行ってしまったのに、自然素材からなる糸に取って代わろうという化繊を生産する会社の拠点だけが、元々あった場所に残っているというのも皮肉な話である。
「景色と空気だけは間違いなくいいところだから、夏になったら避暑を兼ねて遊びにおいで。うちだったら、弘晃さんが体調を崩して滞在が長引いたとしても気兼ねはいらないし、なんだったら、うちの会社の事務所を使って仕事をしてくれてもいいから」
森沢が誘うと、ふたりは嬉しそうに顔を見合わせた。
「ありがとう。じゃあ、今日は、東京に泊まられるの?」
森沢が答える前に、「それなら、お夕食はうちでしてらっしゃいな」と、アルバムを眺めていた弘晃の母が彼を誘った。誘いは嬉しかったが、森沢には、次の予定があった。
「あいにく、今夜は、友達と飲む約束をしていまして」
「お友達?」
すかさず紫乃のチェックが入る。ここでも、森沢の評判は、あまり芳しくないらしい。
「友達だよ。男がひとりと、女のほうは……モデルとデザイナーだけど」
多恵子からも追求された彼女たちである。
「おや、そうなの?」
「紫乃さん。森沢さんを苛めるのは、そこらへんで、やめてあげましょうね」
弘晃が、やんわりと紫乃に注意しながら、話を別の方向に持って行くべく、手の伸ばして母親からアルバムを受け取った。
「わあ、綺麗な花嫁さんだね。ねえ、この青いドレスの人は、繭美さんだよね?」
「ええ、そうよ。それから、この方が喜多嶋のお義母さまで、この方が……」
歓声を上げる弘晃に、紫乃が寄り添って解説を入れ始めた。さすが夫。妻の操縦はお手のもの。森沢は心の中で、弘晃に拍手を送った。
紫乃と弘晃は、しばらく肩を寄せ合うようにして、和気あいあいとアルバムを覗き込んでいた。森沢をして、うっかり『結婚もいいかもしれない』と錯覚してしまえるような、心の温まる光景である。だが、あるページをめくった時、紫乃の顔が急に暗くなった。
「弘晃さん、これ」
紫乃が、アルバムの中の写真の1点を、弘晃に指し示しす。
「なるほど。紫乃さんが心配するわけだ」
弘晃の顔からも、笑みが消えた。気になった森沢は、ふたりの背後に回ると、写真を確認した。紫乃が示しているのは、彼女の下の妹4人が写っている写真だった。だが、紫乃の指の先……妹たちの背後には、小さく達也が写り込んでいた。写真の中の達也は、目の前にいる男性が彼に話しかけているようであるにもかかわらず、全く別の方向を向いていた。達也の顔には、明子を不安にさせた、あの空ろな表情が浮かんでいた。
森沢は、心の中で舌打ちした。おかしな表情をしている達也の写真は、彼が全て取り除いたはずだった。それが、まだ残っていたばかりか、それを紫乃に見つかってしまうとは迂闊だった。いや、森沢が迂闊だったというよりも、おそらく紫乃も、結婚式での達也の態度がおかしかったことを、ずっと気にしていたに違いない。だから、彼女は、写真の隅っこに小さく写っている達也にも気が付くことができたのだろう。しかも、普段から出歩けないながらも大きな組織を動かしているだけあって、弘晃の洞察力は人並み以上のものがある。
「僕たちが気に病むと思って、達也さんや明子ちゃんの、その……問題がありそうな写真を全て、森沢さんがアルバムに収める前に取り除いてくれたんですね?」
弘晃が、森沢が思ったことと、彼がしたことを言い当てた。弘晃の言うとおり、森沢の自宅には、彼が取り分けた新郎新婦らしからぬ顔をした達也と明子の写真が山積みになって残っている。
「ごめん」
「森沢さんが謝ることはないですよ」
多くの者を不安にさせている達也の代わりに、そして写真を隠した自分の姑息さを申し訳なく思いながら頭を下げた森沢に、弘晃が笑いかけた。
「それにね。紫乃さんから事前に話を聞かされていなくても、森沢さんが写真を隠さなくても、このアルバムの中には、不安を感じさせるような写真が、他にも幾つもありますから」
「え? どれ?」
驚いた森沢は、弘晃の肩越しに、アルバムに首を突っ込んだ。
「たとえば、これです。それから、これと、これ。ああ、これもそうですね」
弘晃が、アルバムのページをめくりながら、次々に写真を指差した。それらの写真に共通して写っていたのは、明子と紫乃の父親の六条源一郎だった。
隣にいる男性と歓談している写真。
誰かのスピーチに拍手している写真。
娘たちと、笑っている写真。
どの写真についても、森沢の目には、六条氏が普通に楽しそうにしているようにしか見えない。
「どこも、おかしくないように見えるけど」
「そう見えますか?」
不思議そうな顔をしている森沢や紫乃に、弘晃が問いかけた。
「では、僕たちの結婚式の時のことを思い出してみてください。六条さんは、どんなふうだったか覚えていますか?」
「どんなふうって?」
森沢は、記憶を手繰るように、きつく眉を寄せた。彼は彼らの披露宴の招待客ではなかったが、紫乃のウェディングドレスのプロデュースを任されていたので、あの日は裏方として式場にいた。六条氏のことは、もちろん覚えている。忘れられるわけがない。なぜなら、あの日の六条氏は、結婚式の始めから披露宴がお開きになるまで、誰に憚ることもなく、花嫁の父として客をもてなす義務も忘れて、ただただ感極まって泣き続けていたのだから。
「紫乃さん。明子ちゃんよりも紫乃さんのほうが、六条さんに可愛がられているってことは……」
「ないわね。父は、むしろ、扱いづらいわたくしよりも、聞き分けが良くて素直な明子のほうを可愛がっていたぐらいだもの」
紫乃が、そっけなく否定した。つまり、明子の結婚式の日の六条氏は、安心して泣く余裕もないほど、達也の不審な行動を気にしていたということなのだろう。
森沢は、弘晃からの示唆を踏まえた上で、最初のページからアルバムを見直してみた。
すると、今まで全く気にならなかった六条氏の笑顔が、ひどく不自然なものに思えた。