Missing heart 4
「あらまあ。珍しいこと」
達也の母の多恵子は、森沢の突然の訪問に驚いたようではあったが、彼が結婚式の写真を持ってきたと言うと、快く迎え入れてくれた。
「おかまいなく」 と言いながら喜多嶋家に上がりこんだ森沢は、多恵子が彼をもてなそうと使用人に指図している間に、この家に来たときにいつもそうしてきたように、線香を上げさせてもらうために独りで仏間に向かった。
手を合わせた後、壁の上方に額に入れて並べられている先祖の写真数枚に目をやる。彼が以前に来たときに比べて、祖母と祖父の写真が増えていた。祖父が亡くなったのは、明子と達也の婚約が整う直前だった。自分の長男がグループ内での覇権争いに勝利するために、六条家の娘を慌ただしく嫁として迎え入れたことを、祖父は、あの世で、どう思っていることだろう?
「でも、六条家は嫌いじゃなかったんだよね?」
森沢は、写真の中ですました顔をしている祖父に話しかけた。
成り上がりだのハイエナ企業だのと、悪い評判が多い六条家だが、森沢の祖父は、明子の父親である六条源一郎のことを「おもしろい奴だ」と言っていた。森沢に命じて明子の姉と見合いさせたこともあったから、六条家と縁続きになれたことについては、祖父も嬉しく思っているに違いない。
「でも、あのときは、俺が当て馬にされるってわかってて、見合いさせたんだよな?」
森沢は写真の祖父を睨みつけた。そのことを後から聞かされて、森沢は大いに憤慨したものである。
祖父は、愛娘の息子である森沢を、喜多嶋の摘流から外れているのをいいことに、玩具がわりにしていたフシがある。同じ孫である達也には、決して道を踏み外すことがないようにと、厳しい教育を施したくせに、森沢には横道にそれるような遊びばかりを教えこんだ。
特に女遊び。
衣装は女を飾る花。だが、どんなに美しい衣装も、糸がなければ作られぬ。
糸屋はいわば花の芯を作るが商売。
しかも、我が社は女を飾るもう一つの花である化粧品にまで商売の手を染めている。花の美しさと罪深さを知らずして、なんで喜多嶋紡績の長が務まろうか。
……と、祖父は、妙に説得力のある言い訳を口にしつつ、ちょくちょく花街へと足を運んだ。
祖父と馴染みの女は多かった。だが、深い関係の女がいたわけではない。ただ一時、女たちと陽気に騒いで、後腐れなく帰っていく。祖父は、もてなす側にとっても、楽しく粋な客であったようだ。その際、彼は、孫息子の森沢を、しばしばお供に連れていった。理由は、おそらく、祖父の遊びを快く思わない祖母への目くらましのためだと思われた。だが、訳もわからぬ子供のうちから祖父の遊びに付き合わされたせいで、その方面に関する森沢の評判は、現在、奈落の底に近いところまで落ちている。
『小学生の時に、祇園で野球拳に負けて裸踊りをさせられた(まだ小学2年生だったので、羞恥心というものに欠けていた)』とか、『ファーストキスは、銀座のナンバーワンホステスと、中学生の時に(無理矢理奪われた)』とか、『最初の相手は、元深川の伝説の売れっ子芸者と(やはり無理矢理である。なにせ、彼女は、その当時に既に伝説になっているぐらいの大年増だった)』とかいう汚名を今更どうやって雪いだらよいのか、森沢には見当もつかない。
「ま、達也みたいな、お利口に育てられるよりも、俺としては良かったけれどね」
森沢は、写真の祖父にニヤリと笑いかけた。そのとき、祖父が、『なあ? ところで、お前は、どちらにつくつもりだ?』と、彼に、たずねたような気がした。
「俺? 俺は、どっちでもいいよ」
森沢は肩をすくめた。派閥争いなど、興味はない。
「それに、じいちゃんが俺たちに押し付けていったものは、そういうことじゃないだろう?」
祖父が森沢たちの家族に後を託していったものはもっと別のこと。なんの見返りもなく、先の展望もない。そういう厄介なものだ。
「そっちのほうは、約束だから、俺たちで引き受けてやるけどね」
森沢は、出口に向かって後ろ向きに歩き始めた。
「それ以上の厄介事は御免だよ。引き受けたことについては、なんとか頑張ってみる。まだまだ力不足だって言いたいんだろう? そんなことは、言われなくても身にしみてわかっているから……」
写真と話しながら戸口の近くでクルリとターンする。
振り返った森沢のまん前には、明子がいた。
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「うわっ! びっくりした!」
「ご、ごめんなさいっ!!」
振り返った途端に森沢が上げた声に驚いた明子は、反射的に頭を下げた。
森沢の話を立ち聞きするつもりなど、明子にはなかった。姑に言われて森沢を呼びにきたら、彼が達也の祖父の写真と会話している所に出くわしてしまっただけである。
すぐに彼に声をかければ良かったのかもしれない。だけども、明子は、そうはしないほうがよいような気がした。祖父の写真に語りかける森沢の声からは、亡き人に対する親しみが感じられた。邪魔するのは悪い。そう思った。
「聞いてたなら聞いていたでも構わないよ。ちょっと驚いただけ。こちらこそ、驚かせてごめんね」
ひどくうろたえている明子を安心させるように、森沢が彼女に笑いかける。
「いいえ、そんな」
明子は顔を上げた。森沢は、食堂のほうに向かって歩き始めていた。明子は、慌てて彼の後を追った。
「それより、元気にしてた?」
「はい。おかげさまで」
「この家には、もう慣れた?」
「ええ」
「みんなは、優しくしてくれる?」
「はい、とても」
女ばかりの環境で育った明子は、家族以外の男性と話すことからして苦手である。だが、畳み掛けるような森沢からの問いかけは、どれも答えやすく、明子に余計な緊張を強いるものではなかった。大またで歩く森沢を早足で追いかけながら彼の質問にリズミカルに答えているうちに、明子の警戒心がするすると解けていく。
「実は、多恵子叔母さんに苛められていたりして?」
「そんなこと、ありません」
「そうかなあ? 毎日、ネチネチと意地悪されていたり……」
「そんなこと、されていません」
「他の人には内緒にしておいてあげるから、本当のことを言ってもいいんだよ?」
「だから、ありませんって!」
いつのまにか、明子は、本気になって森沢に言い返していた。怒っている明子の何が面白いのかはわからないが、森沢がおかしそうに笑った。
(私、からかわれているんだわ)
だとすれば、失礼な男である。良い人だと思っていた自分が馬鹿だったと明子は後悔した。明子がムッとするのを見て、森沢は、ますます嬉しそうな顔をした。
「ごめん、からかったりして悪かったよ」
笑いながら、森沢が謝った。
「でも、幸せそうで、本当に良かった」
「……え?」
「ちょっとね。心配していたんだ」
振り返った森沢が、明子に微笑みかける。その笑顔と眼差しの温かみは本物で、明子をからかう気持ちなど微塵もないように見えた。
(この人、私のこと心配していてくれたんだ……)
森沢からの意外な一言に、明子は口元を押さえて赤くなった。
「上手くやっていけているようで、良かったね」
「はい、ありがとうございます」
明子は、素直に森沢に礼を言った。
ちょっと意地悪だけれど、やっぱり良い人かもしれないと彼女は思い直した。
森沢が持ってきたアルバムは、明子だけでなく多恵子も喜ばせた。
結婚式の時の写真を、明子は他の人からも大量にもらっていた。だが、それらの写真は、どれも明子と達也が写されているものばかり。森沢が持ってきてくれたアルバムのように、結婚式と披露宴に出席してくれた人々が満べんなく写されているものは、これまでにはなかった。
「これは、良い思い出になるわねえ」
多恵子が嬉しそうに明子に話しかける。
「本当に、そうですね」
多恵子と肩を並べてアルバムを覗いていた明子も、心から彼女の言葉に同意した。嫁と姑が仲良くしている様子を、森沢が嬉しそうに眺めている。
「ところで、俊鷹くん。 あなた、お仕事は? 今日はお休みなの?」
アルバムに目を落としたまま、多恵子がたずねた。
「予定していた紡績本社での午後の会議が急に流れたんですよ。それで、暇ができました。なんでも、達也がどうしても出席できなくなったとかで……」
「あ、ごめんなさい。それ、おそらく私のせいです」
明子が小さくなりながら、達也の秘書が、彼の今日の午後の予定を、明子のために無理矢理に空けてくれたことを打ち明けた。明子のせいで自分の予定が狂っても、森沢は怒ったりはしなかった。
「なんだ、そういう訳だったんだ。そうだよね。達也も仕事ばっかりしてないで、たまには嫁さん孝行をしなくちゃね」
よかったね。明子ちゃん……と、森沢は、まるで自分のことのように、明子のために喜んでくれた。
(おかしな人……)
森沢は、姉と義兄の友人ではある。たまたま、縁があって親戚にもなった。でも、それだけ。明子との繋がりは、これまで、ほとんどなかった。その彼が、明子のことを、そこまで心配してくれていたのかと思うと、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「さて、うちの達也も素敵なお嫁さんをもらったことだし、次は、俊鷹くんの番ね」
アルバムを閉じた多恵子が、唐突に話題を変えた。
「俺? 俺は、まだまだ先でいいですよ」
森沢が、『まだまだ』に力を入れながら、多恵子に向かって首を振った。
「まだまだじゃないでしょう? あなただって達也と同い年なんだから、遅いぐらいですよ」
多恵子が、厳しい顔で森沢を諭し始めた。
「そろそろ本気でお嫁さんを探して、ご両親を安心させてあげなさい。その前に、不特定多数の女の人と遊ぶのは、いいかげんに止めなさいね。ちゃんと身辺整理をしておかないと、せっかく良い縁談があっても、あちらから断られてしまいますよ」
いかにも良家の奥様らしい猫を被った多恵子が、品の良い笑顔で森沢を追い詰めにかかった。
「それは、大きな誤解ですよ。俺は、身辺整理をしなければいけないほど、やましいことはしていません」
「どうだか」
多恵子は、甥っ子の言うことなど頭から信じていないようである。
「聞いているわよ。今は、どこかのモデルさんと付き合っているんですって? その前は、デザイナーさんですってね」
「そうなんですか。森沢さんって、おモテになるんですね」
森沢のルックスの良さと人当たりの良さをもってすれば、女の人など選り取りみどりかもしれない。素直に感心する明子に向かって、森沢が 『だから、違うって!』と喚いた。
「そのモデルとも、デザイナーとも、ただの友達付き合いしかしていません」
「あら、そうなの? じゃあ、その前の『ファーストレディ』とかいうモデルハウスのモデルさんも、ただの友達?」
「……」
森沢が言葉に詰まった。どうやら、そのモデルとは、本当に付き合いがあったようだ。
「でも、それは、3年も前の話です」
「でも、他にも、いろいろとあるじゃない?」
「あるんですか? 『いろいろ』と」
興味を覚えた明子がたずねると、多恵子が、「あるのよお。『いろいろ』と」と、嬉しそうにうなずいた。森沢は、どうやら居た堪れなくなったようだ。
「だから、それは大昔の話ですから」
森沢は疲れたように反論すると、「次に行くところがあるので」と、腕時計を見ながら、いそいそと立ち上がった。
「あら、逃げちゃうの?」
「そう思ってくださっても結構です。お邪魔しました」
森沢は、多恵子に一礼すると、本当に逃げ出すように玄関に向かって歩きだした。森沢を見送ろうと、明子は、慌てて彼の後を追った。
「あ、そうだった」
ようやく門扉の前で立ち止まった森沢が、明子を振り返った。
「これから、紫乃さんの家に行くんだ。彼女に何か伝言はある?」
「姉に伝えること、ですか?」
とっさに、明子の頭の中に浮かんだのは、森沢がやってくる直前まで、姉に相談するかどうかで悩んでいた問題だった。
「その……姉に、……」
「うん? 何でも言ってくれていいよ?」
ためらう明子を促すように、森沢が優しく微笑んだ。
「やっぱり、いいです」
明子は森沢を見上げると、首を横に振った。
「本当に?」
疑わしげに森沢がたずねる。
(まだ、いい)
(もう少し、もうしばらく様子をみてから)
「ええ。 『元気でやっているから』。 姉には、そう伝えていただけますか?」