Missing heart 3
嫌われている訳ではない
……と、思う。
明子が話しかければ、達也は笑顔を返してくれる。結婚して新しい環境で暮らすことになった明子を気にかけてくれもするし、優しい言葉もかけてくれる。
ただ、それ以上の達也から明子への愛情表現となると、今のところは何もない。それでも、今から2日ほど前の明子は、そのことを特に気に病んではいなかった。達也は、「結婚生活はお互いによく知り合うことから始めよう」と、始めに明子に話していた。だから、今は、話をしたり一緒の時間を過ごしたりして、少しずつお互いの距離を縮めていく過程にあるだけのことだろうと思っていた。明子のみならず、達也もお互いの家から期待されている役割はわかっているはずである。いずれ時期が来たら、明子は、もっと……つまり、子供ができてもおかしくないぐらいに達也との距離をなくすことになるのだろう。 ゆえに、明子が焦る必要など何もない。そのうちになるようになるのだろうと、彼女は漠然と安心していたのであった。
だが、何もないまま半月が過ぎてからようやく、自分が置かれている状況はやはり不自然なのではないだろうかと明子も考えるようになってきた。
結婚してからのことを思い返してみる。披露宴をあげたホテルで初めて達也と一緒に過ごした夜に、彼がキスしようとしたことはあったのだが、達也は、明子の唇にふれる直前にキスをやめた。それ以来、達也は 、明子に対して非常に愛想が良い反面、どこまでも礼儀正しく紳士的に振舞っている。特にふたりきりになった時には、彼は彼女に指一本触れることがないよう、慎重に振舞っているようなところがある。
それだけではない。
達也は、時々、明子と話しながら全く別のことを考えているように見えることがある。夜中に起き出した達也が、何をするでもなしに、ただ暗闇を見つめて、じっと考え込んでいるということもあった。明子は訝しく思いながらも、その晩は寝たふりを通した。眠れないまま長い夜が明け、明子が目を覚ましたことに気が付いた達也が、昨夜と変らぬ思いつめた表情を浮かべながら彼女に何を言い出すかを思えば、 『大丈夫、信じて。僕には、君だけだから』などという、彼女の気持ちをかえって波立たせるような台詞であった。
いちいち思い返してみれば、達也の言動は、結婚式の時からずっと、明子の気のせいでは片付けられないほど不自然だった。
(『大丈夫』って、いったい何が大丈夫なんだろう? でも、大丈夫だって達也さんが言うのだから、きっと大丈夫なのよね?)
ここ2日間の明子は、こみ上げてくる不安な気持ちを、達也からもらった言葉で包み込んでしまおうと何度も試みている。
自分と達也は政略結婚なのだから、他の新婚夫婦のように急に親密に付き合えるはずがないのだ。達也は、だから、そのことを不安に思うことはないと、わざわざ『大丈夫だから』『僕には君しかいない』と、言葉にして明子に言ってくれるのだ。自分と彼が心からの夫婦になるためには、きっと、あと少しの時間が必要なのだ。焦ることはない。
だが、結婚して、もう2週間である。もういい加減に、達也と何かしらの進展があっても良い頃ではないのだろうかと、明子は思わずにはいられない。
もしくは、明子自らが積極的に達也にアプローチするべき……なのだろうか?
それとも、こんなことを悩んでいる明子のほうが変なのだろうか?
政略結婚で嫁いだ女は、毎日上品に、あどけない花のように振舞いながら、おっとりと夫の出方を待っているべきものなのだろうか?
(ひょっとして、 私、エッチなことばっかり考えているイヤらしい変態さんだったりして? やだっ! どうしよう?)
明子は、耳まで顔を赤くしながら両手で顔を覆った。
「明子ちゃん? どうかしたの?」
挙動不審な明子に驚いた多恵子が、心配そうにたずねた。
「いいえっ! なんでもありません!!」
明子は、ブンブンと首を横に振った。いくら姑が気さくな人とはいえ、彼女に相談できるような話ではない。
(とはいえ、他に相談できる人もいないのよね)
明子は、内心で、深くため息をついた。嫁が姑に話せるような問題ではないが、明子の場合は、自分の身内にも相談できる者がいなかった。なにしろ、明子の実母は父の愛人であり、同居していた明子の姉妹の母親たちもまた父の愛人である。まともな夫婦のありかたから逸脱した女たちに助言を乞うたところで参考にはなるまいと、明子は思う。
他の身内の女性といえば明子の姉妹だが、いまだに恋も経験したことがないような妹たちが考えることなど明子とどっこいどっこいだろうから相談相手としては、まず論外である。論外なのは、父も同じ。彼の場合、娘可愛さに明子の相談事を重大に受け止めすぎる可能性がある。怒った父は何をしでかすかわからないから、怖くて相談できない。
(となると、残るのは紫乃お姉さまだけなのよね)
紫乃は、明子にとって一番身近で頼りになる存在ではある。明子が話しさえすれば、紫乃は、必ず力になってくれるだろう。
だけども、紫乃は、彼女の夫となった弘晃から、彼が病弱であることや、そのために結婚しても子供が持てない可能性が高いことなどを理由にフラれたことがある。紫乃は、それでも構わないからと言って、半ば強引に弘晃に嫁いだのだ。明子が迂闊な相談をすることで、姉を傷つけるようなことだけはしたくなかった。
(まあ、達也さんも今は特に忙しいみたいだし、お姉さまに相談するのは、もう少し様子を見てからでもいいわよね)
明子は、もうしばらくの間、心配を先延ばしにすることに決めた。
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明子の悩み事が最も当たり障りのない結論に落ち着いた頃。達也の従弟の森沢俊鷹は、明子の姉の嫁ぎ先である中村家に電話していた。
電話口に出てきた紫乃に、訪問したい旨を告げる。確認するまでもないことだが、弘晃は、いつのもように家にいるとのこと。微熱はあるものの、これも珍しいことではないので、今日もいつものペースで、寝たり起きたりしながら仕事をするつもりでいるという。中村物産の社員が、会議にかこつけて中村家に押しかけてくる予定もなし。先日の明子の結婚式の写真を届けたいと森沢が告げると、紫乃が『待っていたのよ』と声を弾ませた。
3時に来訪する約束をして電話を切った森沢は、腕時計を確認した。午後1時。 まだ時間に余裕がある。
ふと、森沢の頭に明子の顔が浮かんだ。
結婚披露宴の最中、明子は、一生懸命幸せそうに微笑んでいたものの、時々達也のほうを見ては、ひどく心細そうな顔をしていた。達也が結婚の宣誓をためらうという奇妙な行動を取ったせいで、明子の心の中は、きっと不安で一杯だったに違いない。ここ数日間、写真の整理をしていたこともあって、明子のあの顔が森沢の頭から離れない。
明子は達也の家で上手くやっているのだろうか?
まさか、いまだに泣きそうな顔をしているんじゃないだろうな?
「……さて、どうするかな」
森沢は、一文字に口を引き結ぶと、中村家に渡すのとは別に用意した大きな紙袋の中を覗いた。彼は、達也に渡すつもりで、結婚式の写真を一冊のアルバムにして持ってきていた。森沢が達也の家に行ったのは、祖父が入院する前……いや、まだ祖母が生きていた3年前の正月が最後だっただろうか? あそこは、なんとなく敷居が高く感じられるうえ、とらえどころのない感じがする多恵子伯母も、森沢は正直苦手である。だけども、幸い次の予定が入っているから、長居はしなくてすむ。
「会いに行ってみるか」
森沢は用意してきた紙袋を全て車に積み込むと、明子が住む喜多嶋紡績社長宅へと向かった。