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二話

 図書館を出たみなみは、さっき例の男が座っていたベンチに腰かけた。

 母親が持たせてくれた弁当を開け、膝の上に置いて食べ始める。料理も上手な母親が彩りよく詰めてくれる弁当はさやかからも羨ましがられることが多く、密かな自慢だった。

 大きな木の陰になっているため、そよそよと吹く風が心地よい。お腹が膨れればまた午後からも頑張れそうだ。


「ねぇ、ここ、俺の席なんだけど」

 弁当箱を片付け終えたちょうどそのとき、誰かがみなみに声をかけた。

「え?」

「だから、ここ。いつも俺が座ってる席なんだけど」

 ようやく顔を上げる。するとそこにはさっきまでこの場所に座っていた男が立っていた。

 いつからいたのだろう、ずっと下を向いて食べていたために全く気付かなかった。

(さっきの人だ!)

 慌てて立ち上がるとみなみは鞄を掴み、頭を下げてその場を離れようとした。

「待って!」

 しかし、男はみなみの腕を掴んで強引に立ち止まらせた。年上の男の力からは簡単に逃れられず、みなみはその場に留まらざるを得なくなり、そのとき初めて男の顔を見た。

 茶色い髪と同じ薄い色の瞳、すっと通った鼻、薄い唇は少しかさついている。

父親以外の男性に触れられるのは初めて、しかも所謂イケメン。一生縁のない生き物だと思っていたイケメンの手はみなみの腕を離さなかった。

「別に怒ってるわけじゃない。

ただ…こんな場所、俺以外知らないと思ってたから」

 確かにその場所は図書館のあの窓からしか見えないだろう。建物の裏側の死角になる場所だ。みなみが何も言わずにじっと見ていることに気が付いたのか、男は慌てて手を離した。

「ごめん、痛かった?」

 小さく首を横に振る。まだ何も声を出すことはできない。

「びっくりした?」

 次は首を縦に動かす。

「だよね、俺もびっくりした。

俺の席に知らない女の子が座ってるって思ったから」

 男から続けられる言葉にようやく平常心を取り戻し始める。さっき見ていたときよりも近い。身長は高く、そのとき見ていたよりも分厚い胸板はクラスの男子とは全く違う大人の男性に思えた。

「名前は?

俺は北岡悠里。女みたいな名前でしょ」

「わ、たしは、あの、相島、みなみです」

「みなみちゃん、ね。引き止めちゃってごめん」

「いえ、大丈夫です」

 悠里と名乗った男とようやく言葉を交わしたことでみなみの緊張がほぐれていく。元々同じクラスであっても男子と話すときには緊張するのだから、年上の、しかもこんなイケメンが相手であれば男に免疫も慣れもないみなみがこうなってしまうのも仕方ない。

「何年生?」

「高三です」

「受験生か、大変だ」

「えぇ、まぁ」

「もう夏休みでしょ、偉いね、学校来て勉強なんて」

「明日から、夏休みですけど…家にいると、勉強できないから」

「明日からも学校来る?」

「はい、基本的には」

「じゃあまた話をしよう。俺も毎日来てここで昼飯食ってるから。

大人の話を聞くのもいいでしょ?」

 悠里はにやりと悪い顔でみなみに笑って見せた。その顔を見たみなみは自分の心臓が高く鳴るのを感じつつ、また声に出さずに小さく頷いて見せた。



 その日は結局、ほとんど勉強は手につかなかった。初めて出会った年上の男性、しかも優しくて顔もかっこいい。自分のような地味な女にどうしてこんなことが起こったのだろう。

 いくら考えても答えなんて出るわけがない。今日はもう終わりにしよう。そう考えたみなみはテキストを閉じ、図書館を後にした。


 帰ってからも同じことだった。英単語を覚えようと必死に単語帳とにらめっこしてはみたものの、余計なことを考えすぎるせいで全く集中できない。

 数学の計算問題を解こうと思ってもケアレスミスが多く、嫌になってしまう。

 それもこれも全部あの男、悠里と会ってからだ。あのあと、少しでも悠里のことを思い出すと心臓がバクバクと高鳴り、掴まれていた腕が熱くなる気がする。

 こんなことは今までになかった。

 スマートフォンを手に取り、画面を見つめる。こういうときに限ってさやかからは何の連絡も来ない。机の隅に置いてもう一度単語帳を開き、今度こそとそこに目を落とした。

 しかしそんなことを繰り返しても結果は同じ、やはり何も覚えることなどできない。今度は完全に諦めて、みなみは自分の部屋を出た。何か冷たいものでも飲めば気分も変わるかもしれない。

「ちょうどよかった、みなみ。パウンドケーキ食べない?」

「ありがとう、ちょっとだけ食べようかな」

「珍しいわね、いつもならいらない、ってすぐに部屋に戻っちゃうのに」

「ちょっとね。今日はもう終わりにする」

 冷蔵庫を開け、中をちらっと見てからすぐに閉じた。パウンドケーキに合わせて紅茶を入れようと思ったのだ。冷蔵庫の中には牛乳と麦茶しか冷えていなかった。

「紅茶入れてあげる、座ってて」

 母親に促されるままソファに座る。普段はほとんど見ない夕方のワイドショーが放送されている。テレビの中では芸能人の誰が誰と結婚したとか、そんな話ばかりだ。

「はい」

 母親がマグカップを差し出す。濃く淹れられた紅茶が湯気を立てている。ローテーブルにはパウンドケーキを一切れのせた皿、フォークが並んでいる。

「今日は勉強終わるの早かったね」

「ちょっと、やる気でなくて」

「たまにはいいんじゃない?成績だって前より上がってたし」

 母親は暢気なものだ。元々両親のどちらかに促されて勉強を始めたわけではない。むしろ両親は、おしゃれに興味を持て、可愛い服を着ろ、髪型ももっとこだわりなさい、と、みなみの外見について口出しをしていた。何年もそれを受け流しているうちに母親も何も言わなくなり、父親も母親に倣った。

思うことはあるのだろうが、最近ではしばらく美容室に行かなくても何も言われない。勉強するのに邪魔だからと伸ばしたままにしている前髪も全部まとめて一つに括るスタイルはもう二年は続けている。

「そう、かな」

「そうよ、たまにはリフレッシュも大事だからね」

 パウンドケーキを一口切って口に運ぶ。柔らかい口当たりがほろりと溶ける。

「美味しい?」

「うん、美味しいよ」

 小学生のころからたくさん手作りのおやつを作ってもらったが、みなみはこのパウンドケーキが一番のお気に入りだった。

「よかった。明日も学校には行くんでしょ?お弁当と一緒にケーキも包もうか?」

「うん、ありがとう」



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