Hors-d'œuvre ~前菜~
練習用小説
男は絶望と共に猛毒を貪っていた。
剥き出しの岩石で出来た暗い部屋の中で、橙の光がぽかりと空間を切り取っている。
部屋の中を満たすのは、得も言われない芳しい香り。
恐らくは豚肉……その中でもかなり上等な種を焼いた匂いだ。
導かれるように暖色へと目を移すと、そこには2つの人影が確認できる。
……若い男女だった。
男が座り食事を食べ、女が傍で侍りながらニコニコとその様を見ている。
ちょっとした夕餉の1ページの様にも見えただろう。
……その食事の内容さえ確認しなければ。
……炭火で数秒焙られた豚肉のスライスが皿の上で緩やかに2つに折られ、8枚1組となって幾つかの花を咲かせている。
先ほどから鼻腔を擽っていた物の正体だろう。
しかし注意深く見てみれば……いや、注意深く見ていなくてもまともな知識さえあればそんな料理に手を出したりはしない。
この世界で豚の生肉を食べると言う事は、特殊な寄生虫に感染して藻掻き苦しみながら死んでいく事と同義だからだ。
当然数秒焙った程度でその運命から逃れることなど出来ない。
更に、添えられている琥珀色のソース。
蜂蜜をベースに作られているであろうそれは、まるで肉の花を彩る数房の雄蕊の様にも見える。
しかしその色をした蜂蜜を見た者は、同じくそれを口にしようとしないはずだ。
何故ならそれは、蜂蜜を原料にして様式通りに作られた、猛毒の色であるからだ。
目の前にある皿にはそうやって、丁寧に悪意が盛り込まれており。
……男はそれを、貪っていたのだ。
それが自身を滅ぼす兵器であると解っていてなお。
余りの美味しさに、その手を止める事が出来ないのだ。
食べる度に口の中を支配する濃厚な豚本来の味。
レアな中にうっすらと入ったサシは、サッと火を通した事でふわりと口の中を吹き抜けていく。
そして、赤身肉の旨さに寄り添う様に甘苦い蜂蜜ソースが舌を楽しませながら喉の奥へと落ちていく。
「美味しい?」
無言で食べ続ける男に、少女が黒く笑いかけた。
彼女の美しい漆黒の髪は、傷んでいるわけでもないのに艶すら見えない。
大きく真っ暗な瞳は、盲目というわけでもないのに光すら写さない。
「わ、私にこんな事をしてタダで済むと思っているのか……?
今に部下がやってきて、貴様を八つ裂きにするであろう……」
男は口一杯にモノを頬張りながら、脅しにもならない虚勢を呟く。
彼女は満足そうに笑顔を浮かべると、静かに絶望を伝える。
「貴方の部下達は全員、城の前にある溶岩の中に身を投げたよ」
ごくり、と男の喉が鳴ったのは、豚肉を嚥下するためだけではなかっただろう。
「良いんだよ、貴方はもうそんな事を気にしなくても」
少女は優しく語りかける。
全てを赦す聖母の声の様に聞こえながら、実際は振り下ろされる死神の鎌。
男は何一つ拒否することも出来ず、その絶品料理の全てを食べ尽くした。
しかし。
「最上級解毒魔法!」
食事を終えた男が唱えたのは最上級解毒魔法であった。
寄生虫と毒の相乗効果にどれほどの効果が見込まれるかは分からないが、果たしてそれは上手くいった様で男の顔色が少しずつ良くなっていく。
彼の驚いた表情を見る限り、恐らく解毒魔法が成功する確率は5分5分と言ったところだったのだろう。
もう一度先ほどの状態に戻って同じ事をやれと言われたら、出来ないかもしれない。
男が大きく一息吐いて自身の体の動きを確認していると、少女が驚いたように声を上げた。
「あー……凄いね。
まさか最強の毒が魔法程度で解毒されるとは。
流石は最高の魔力を持つ者だよ」
心からの賛辞。
しかし、そんな言葉を吐き出しながらも、眼尻は上がったままだ。
「……何を笑っている。
今や、命の危機に立っているのは貴様の方だ。
絶対に許さぬ……楽には殺さぬぞ……!」
男は怒りを隠す事無く少女に対峙する。
焦りを見せない彼女の笑顔には、正体不明の気持ち悪さがあった。
そしてその後すぐ、男はその『正体不明の気持ち悪さ』を理解することになる。
「ああ、言い忘れていたけど。
お替りもあるから、どんどん食べてね」
「な……!?」
再度部屋の中に充満する濃厚な豚肉の香り。
男はがくがくと膝を震わせ、驚愕と絶望、そして、諦めの表情を目まぐるしく浮かべながら。
静かに再び席に着くと、抗う事も無くそれらをゆっくりと腹の中へ納めていった。
剥き出しの岩石で出来た暗い部屋の中で、橙の光がぽかりと空間を切り取っている。
光の中で確認できる1つの人影。
机の上に突っ伏したきりのそれ以外、もはや何も存在しないのに。
部屋の明かりだけが、何も気付かない様に灯ったままであった。
……これは少女の物語である。
これは少女の夢を叶える物語である。
これは少女の、大量の犠牲と引き換えに自身の夢を叶える物語である。
そして、今日この日、多くの生命が彼女によって失われたこの大事件ですら。
少女にとっては前段階。
……フルコースで言えば一番最初、……単なる前菜に過ぎないのであった。
前菜 豚公爵と猛毒姫のマリアージュ