1/64(=1.5625%)=1
お金には困っていない。いくら新しい趣味を見つけたところで、私ひとりが使う分に関してなら200万円は十分に余るお金だ。でも、お母さんとお父さんに恩返しし続けるには足らないだろう。
それに、お金なんて多くて困ることはない。
私は『明日空いてませんか』と返信した。
するとすぐに『17時以降ならいつでも空いています。小畑様が利用していらっしゃる○○支店の隣に喫茶店がありますよね。場所はそこでよろしいでしょうか?』
『はい。分かりました。待ち合わせは19時でいいですか?』
『19時ですね。では、縦に白いストライプが薄く入ったグレーのスーツを着て待っています』
正直なところ、まだ完全には信じていない。でも、半分は信じている。安藤の言う通り為替を操作でもできない限り、今起きている1/32という確率が説明できないからだ。
「安藤さんですか?」
私は銀行の隣の喫茶店に入り、一人で座っているスーツの男に話しかけた。
「はい。小畑さんですね?」
「はい」
「どうぞ、座ってください」
安藤は実に人の良さそうな顔立ちをしていた。髪はさっぱりと短く、体は細い。縦のストライプのスーツがより細さを強調し、誠実な感じがする。
「初めまして。○○銀行の安藤と申します」安藤は椅子に座った私に両手で名刺を渡してきた。
「あ、初めまして。小畑です」私はそれを両手で受け取る。
私は今、完全に私服で、名刺などは持っていない。「すみません。今、名刺持ってないんです」
「大丈夫ですよ。このFXの話は小畑さんにとってはビジネスではないので。何か頼みますか?」
そうだなあ、とメニュー表を見る。さっき玲菜とご飯を食べたからあまりおなかは減ってない。「じゃあ、コーヒーを」
「では、私もコーヒーを頼みますね。すみませーん」
安藤はウェイトレスを呼び、「コーヒーを二つ」と指を二本立てて注文した。
ウェイトレスが注文を確認して裏に帰るのを見届けてから、安藤は私に向かって微笑んだ。「私の話、信じてくれましたか?」
「ええ。半分だけ」
「ハハハ、そうですか」
安藤はくしゃっと笑う。「それが賢明ですよ。世の中何でもかんでも簡単に信じちゃいけませんからね。半分だけでも信じていただけたのなら十分にありがたいです」
彼の優しい笑顔に私もつられて微笑んだ。「ですよね。私、結構疑ってかかるタイプなので。でもあと一回当たってしまったら完全に信じちゃうかもしれません。確率は1/64ですから」
「パーセント表記すると1.5625%、切り捨てると1%。自然界ではほとんどあり得ない数字ですからね。私が小畑様の立場だったとしても、1%になったら間違いなく信じてしまいます」
お待たせしました、とウェイトレスがコーヒーをふたつテーブルに置いて帰っていった。私は砂糖とガムシロップを入れ、舌を濡らす。
コーヒーカップをソーサーに置き、私は口を開ける。
「今日はちょっとだけ賭けてみようかなと思いまして」
私はバッグから財布を取り出し、千円札を一枚テーブルに置いた。
それを見て安藤はニコッと笑う。
「賢明な判断です。では、私が責任を持って預からせていただきます。明日のこの時間、またここで落ち合えますか?」
翌日、本当にドルは上がり、私が渡した1000円は1006円になって返ってきた。
これで、1/64。安藤さんのことを信じないはずがない。
「これで、信じてくれましたか?」
安藤さんはコーヒーカップを片手に言った。
銭単位は安藤さん(銀行)が貰ったようだ。このFXの話は完全に慈善事業だというわけではないらしい。
私は1006円を財布に入れて答える。「はい、疑ってすみませんでした。今度はたくさん持ってくるのでよろしくお願いします」
「今度、ですか……」安藤さんは声のトーンを落とし、コーヒーカップをゆっくりとソーサーに置く。
「どうしたんですか?」
「実は、明日は下がります。つまり、掛けたら負けるということです」
「今日はお金を持ってきていないので良かったです」
「しかし、ポンドの価値は大幅に上がります」
「ポンド? イギリスですか?」
「はい。今までは安全さと分かりやすさを重視してたので言わなかったのですが、ポンドはアメリカドルよりもずっと一日での変動が大きいんですよ。ドルは一日で1円動くこともほとんどないというくらい動きが少ないのですが、ポンドは一日に3円動くことだって珍しくありません。そしてポンドはこれから一週間かけて大きく上がります。なので、今多めに投資してもらえればかなりの儲けが出るはずです。少なくとも5円、多くて10円ほどでしょうか。世界情勢もちょっとばかし動く予定になっていますから」
安藤さんは凄いことをさらっと言った。あまりにさらりとしていたのでうまく反応できなかった。
まるで神であるかのようなことを発した安藤さんは、少し申し訳なさそうにうつむいて言った。「本当なら昨日掛けるのがベストだったんですが」
「今日からなら遅いということですか?」
「いいえ。昨日のポンドの上がり方はあまり大きなものではなかったので、決して遅いということはないと思います。早ければ早いほどベストということですね。それに、数時間後からかなり大きく上がる予定なので、間違いなく今日がベストだと思います」
ドクッ、と心臓が高鳴った。それが試合開始のゴングになったのか、ドクドクと血液が全身を巡り出しているように体がほてってきた。
「今が……」
妙な興奮で声が震えていた。性行為前のような、あるいはかけっこで誰かを追いかけているような、不思議な感覚だった。「今が、いいんですよね……」
私は安藤さんから目を逸らしていたが、力強い目線がこちらに向いているのを感じる。
「はい」
「……じゃあ、今から取ってきますね。200万円」
「200万円? 銀行では一日50万円しか引き出せませんが」
「いえ、家にあるんですよ、200万円。銀行には20万くらいしか預けてないんで」
玲菜にも話していないことを私は口にした。彼なら大丈夫だと思ったのだ。「足して220です」
それを聞いて安藤さんは驚いた顔を見せた。「そうなんですか……。まあ、どうせ銀行に預けても大した利子は得られませんからね」
銀行員がそんなことを言っていいのか、と少し思ったけど、私はある種のジョークとして捉えた。
「じゃあ、今からお金取ってきますね」
私は半分腰を上げる。「二十分くらいで戻ると思うので、待っていてくれますか?」
「もちろんです」安藤さんは神々しく微笑んだ。