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偏向機関。船の推進航行に欠かせない力学制御系に用いられる技術の一つだ。
その歴史は古く、二世紀も前の我がエスペランサ号にも搭載されている。もちろん途中で買い足したり買え変えたりしたものではなく、当時のものを当時のままで使っている。
しかし当の設計図も設計思想も廃れ、維持するだけでとんでもない手間がかかってしまう。今ではもうこの旧式の偏向機関を扱えるのは一部のオタクぐらいなものだ。
それでもエスペランサ号、あるいは運送会社バルトロメウ・ディアスがこの機関を更新せずにいるのは何を隠そうお金がないからである。最新型はこのエスペランサ号のものよりもはるかに小型で、物によっては手のひらに収まるサイズのものもあるという。
「嘘ですよぉ、そんなの」
与圧区画、背中合わせのピートが船外活動服に着替えながら言った。
「いや、副長の言っていることは嘘じゃない、本当だ」
制服を脱ぎタンクトップ姿になったジャックは筋骨隆々だ。
私もジャケットに手をかける。目の間にはよく磨かれた何かの金属壁があった。スポーツブラをしているが、起伏に乏しく筋肉の大地だけの連なる肉体が私を見返していた。
「いい筋肉ですね」
ジャックは振り向かずに言った。線のように細い眼はどこを見ているのかわからない。
「世辞には聞こえないな」
苦笑を洩らすジャックはそのままズボンをおろしていった。
「ほんとに、手のひらサイズの偏向機関なんてあるんですかぁ」
講釈を続けようと声の方を伺ったが、背後でピートがすっぽりと全身にタオルを巻いているのが見え、私は別のことを口走った。
「ピート、なんだそれは」
びくっと肩を震わせて「えーと、その、あの」と慌てふためいている。
「ジュリアさんは、その、平気なんですか。着替え、見られるの?」
私は改めてあたりを見回してみた。ここは熱気の籠る機関室の一角、外部隔壁と気密隔壁に隔てられた搬入出口だった。左手に見える隔壁の向こうは、もう真空の宇宙である。
本来与圧区画ではなかったが、若干の改造を施して少なくとも一気圧とゼロ気圧の加減圧が行えるようになっていた。
船外活動用のEVスーツの着脱を行うのに専用のロッカールームをエスペランサ号は持ち得ていない。もともと軍艦のこの船には、二百年以上も昔の技術思想に支えられた無駄のない設計になっているためだ。
「まあ、こんな骨筋張った身体を見て喜ぶ奴なんていないだろう」
私の身長は軽く六フィートは越えている。体重も百五十ポンド強といったところで、体脂肪率も二桁を割っている。決して”グラマラス”と形容できるものではなかった。
「そうじゃなくて、ジュリアさん自身の話ですぅ」
「うむ」私はズボンを脱ぐ。「重要な部分は隠れているからな。別に問題はないだろう」
「そうじゃなくて!」
勢い振り向いたピートが、顔を真っ赤にして元に戻っていった。
「ひ、非常識ですぅ……」
「そうか? ネオヨークじゃトップレスで公園で読書を楽しむ風潮があるとか聞いたことがあるが、それよりましだろう」
「もう、知りません!」
ピートはそれっきり黙々とタオルの下で着替えを進めていった。
不安になり、私はジャックにそっと訊いた。
「ジャック、もしかして私はピートの性別を誤解しているのだろうか」
「いえ、ピーターは歴とした男です」
「ふむ。ではジェンダーというやつか」
「ええ、多分」
それからお互い黙ってEVスーツに着替えていった。タイトな布地がひんやりとしていた。
我が社が買い揃えたEVスーツに特注品はなく、全て企画統一された既製品である。だが、一般市場に六フィート超の女性もののEVスーツは存在せず、必然的に私は男物のEVスーツに袖を通している。
「女性用、か……」
既にメットを被り内環境テストを始めているジャックが、苦笑いを浮かべている気がした。咳払い一つすると私もメットを被り内環境テストと通信テストを行う。
ブリッジとのデータリンクを確認するとジャックとピートの状況を見た。不慣れな船外活動とあってか、テストに戸惑っているピートをジャックが腰を追って説明していた。その背中は、どこか父親と子どものようだと、ふと思った。
子ども――それは親に庇護されて大人へと成長していく一過程に過ぎないのだろう。だが庇護と支配は紙一重であり、知らぬまに大人は子どもをコントロールしようとしている場合が多い。
意識的であるならば、自覚的であるならばまだましな方だろう。親には子どもの支配と庇護を取り違えてそれに気づかぬ者もいるのだ。
例えば、親の望むように生きてきた女の子が、自由を知り独立を願ったときに親自らの利益のために彼女を傷つけ、未来を奪う――そんな親だって存在しているのだ。
ふとEVスーツの白い外皮で覆われた手首に視線を落とす。そこに醜い傷を刻む女の子が私の脳裏に浮かんだ。
「何考えてるんですか?」
のぞき込んできたピートと目が合って、「うわッ」という間抜けな声と共に盛大に仰け反る。
「黄昏ちゃってましたよ。もしかして、彼氏さんのことを思い出してたんですか」
気色を浮かべてピートが言う。「なんだか儚い横顔でしたぁ」
「要救助者がいるかもしれないんだ、準備ができたなら行くぞ」
早口で言うと気を取り直し、減圧操作を開始する。簡易赤色灯が舞う中、ピートの落ち込む顔が目に入った。
ゼロ気圧になり外部隔壁を開く。
船は太陽に対して背を向けており、私たちの目の前にはいきなり小惑星の表面が目に入った。距離五百メートル弱。救命ポッドが犬小屋のように見える。
(EVリーダーよりブリッジ。もう少し近づいてくれ)
(ブリッジ、了解)
ジャンの声が返すと、小惑星表面がゆっくりと近づいてきた。距離が百メートル地点で静止。砂っぽい表面に浮かぶポッドがさっきよりもはっきりと見えた。
(ブリッジより副長、どうですか、こんなもんで?)
(上出来だ)
私は背後の二人に目配らせをすると、二人とも頷きを返してくれた。
(EVリーダーよりブリッジ、EVチームはこれより降下を開始する)
(ブリッジ了解)今度はセシルの声だった。(ご無事で)
それは私たちにかけられた言葉であると同時に、要救助者に向けた言葉でもあったのだろうか。
セシルの気持ちを想像し、私は船外に躍り出た。
瞬かない星の海で、赤く脈動するビーコンはひどく寒々しかった。




