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夜時間、当直明け。航海日誌を船内領域に保存し終えて日課の人工森林浴室へ向かおうとした時だった。壁面の簡易状況画面に明かりが灯り、我がエスペランサ号が救難信号をキャッチしたことを告げる。
「副長」船長室の古電話形式の端末が航海長チャールズ・リンドバーグの硬質な声があげる。「すみませんがブリッジにご足労願えませんか?」
私は双極子のような受話器を取り上げる。
「いまいく」
受話器を戻し、緩めた襟を戻し操船指揮帽をかぶり直すと、私はため息一つを残してその場を後にした。
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人工重力を切った暗い通路を進むと、ものの数十秒で中央指揮室へたどり着いた。流れを生かし船長席の背もたれを掴むと、慣性そのままに無理やりに席に着く。
ブリッジには相も変わらず外部センサーが捉えた情報をCG処理した空虚な宇宙が映し出されていた。
「状況は?」
ブリッジには当直の航海長と通信長がいた。彼らが振り向くのが見えた。
「救難信号はここから九億キロの地点から発信されています」
通信長のチェ・サンダバは充血した半眼を手元に戻しながら答える。辺りには栄養ドリンクの空チューブが漂っていた。
「ここらへんの星図を出してくれ」
「イエス、マム」通信席から端末を操作する電子音がブリッジを満たし、中央に現れた立体星図が淡い光りを放つ。
「船長は?」
目があった航海長が口を開こうとしたとき、背後の扉が圧搾空気を抜く軽快な音を立てた。彼は肩をすくめると自身の仕事に戻っていった。
「うぅ~、何事?」
宙を漂ってきた小柄なパジャマ姿は、だがしっかりと薄汚れたピンクのぬいぐるみを握り締めていた。彼女は紛うことなき我がエスペランサ号船長――セシル・スールーその人だ。慣性に従い波打つ豪奢なブロンドは金色の麦穂が風に波立つ情景を想起させ、八時間労働を終えたばかりの私のお腹が香り立つレーズンブレットを要求した。
「あら、誰のお腹の虫さん?」とびきりの砂糖(しかも地球産の上白砂糖だ)で煮詰めた梨ジャムの声が訊く。
「私です」
「もう、ジュリア」ドールのような精緻な瞳が、呆れたと言わんばかりだった。「ゴハンぐらい食べてくればよかったじゃない」
私は自分の名前が好きではなかった。ローティーンの頃からメキメキと成長を始めたがっちりとした肉体と『ジュリア』という女性名との間の埋まらない溝が常に私を苛ませた。
小さく肩をすくめると「すみません」というにとどめる。
視覚的にわかりやすいように、サンダバに救難信号の発信地点を立体星図に重ねて表示するように指示を出す。星図に発信源が重ねて表示された。
「SOSは、CC-1星系の小惑星帯から発信されてるみたいね」
セシルはぬいぐるみを抱き締めて言った。
「そうですね」
厄介な出来事だった。
まず、宇宙は何よりも広大である。その巨大なスケールに対し、居住可能場所は極めて少ない。これは人の目の届かない影の部分、無法地帯が宇宙の大部分を占めることを意味する。銀河全地域を隈なく巡視船がパトロールしているわけではないし、あちこちに銀河連合の基地が設けられているわけでもないのだ。
無論銀河星間法は確かに存在し、違反者は銀河連合裁判所の司法制裁を受けるか銀河連合艦隊に宇宙の藻屑にされる。だがしかしこれは、あくまでも当局の預かり知れる場合のみであって、そうでない場合の方が宇宙では圧倒的に多い。つまり「バレなきゃ犯罪にはならない」ということだ。
だからといって、銀河星間法を無視していいことにはならない。私たち一般市民は、これからも一般市民としてこの銀河社会で活動したいのであればこの法令を遵守しなくてはならない。そして銀河星間法には「救難信号を受信した際はその最も近傍の船舶がこれを救助に向かわなくてはならない」とある。いまこの宙域に存在する艦船は我がエスペランサ号と救難船しか存在していないのだった。
もしもこのCC-1星系に海賊が潜伏していて、エスペランサ号の存在を知った彼らが獲物に餌を投げかけているのだとしたらどうだろうか。しかもアステロイドベルトであり、死角はいくらでも存在する。宇宙海賊には銀河星間法のくびきはないが、我々には救難船を保護しなくてはならないという状況がある。
「戦闘部署を発令しますか?」私は船長に訪ねた。
民間商船とはいえ宇宙の危険に対処するため、一通りの武装は許されている。それにエスペランサ号は元軍艦だ。いくら時代に取り残された遺物だとしても、並みの商船よりは堅牢で、そして力強いと私は信じている。
「ううん、マニュアル通り救難部署でお願い」
「了解」私はこちらを伺っている航海長に向かって声を上げる。「救難部署発令ッ」
「イエス、マム」
艦内にけたたましい警報が発せられると館内スピーカーから「達する。救難部署発令。総員持ち場に付け」という航海長のお腹に響く低い声が流れてきた。
しばらくするとアラートも止み、ブリッジには操舵手、センサー長、砲雷長、機関長が次々とあらわれ正規人数が集まる。
「みんな……」セシルが落胆を露にして言う。「着替えぐらいしてこようよ」
センサー長マイケル・レノンは(なぜか)バスローブで痩身を鎧い、ピーター・マクスウェル砲雷長は着ぐるみパジャマ(うさぎみたいなカートゥーンキャラクター)で全身を覆い、ジェームズ・タイラー機関長は煤けたつなぎ姿(油のシミ付き)で各々ブリッジの担当部署に付く。唯一チャールズやサンダバと同様に制服姿のジャン・ソレイユは操舵輪に手を付つくやいなや船を漕ぎ始めた。
「セシルさんに、言われたくないですぅ」あどけなさを残すピートが、その中で一人、うつむき加減でセシルに抗議した。当のセシル自身も改めて自分の姿を見返して、頬を桃色に染めて小さな咳払い一つを返すだけだった。
「まあ、緊急事態だ。仕方ないさ」
マイクは優美に髪をかきあげながら言った。香水をつけているのかバラの匂いが鼻腔をくすぐった。
「マイケルくん、また、その、裸で寝てたの……?」
さらにうつむいてピートが聞いていた。語尾の方は注意深く聞いていないと何を言っているのかわからないぐらいに小さくなっていった。その発言を聞いてセシルの頬が紅色になり、私の座席の後ろに隠れてしまった。
「ノンノン、ぼくはサニャルの百八番を身に纏っているのさ」
「それってただの香水じゃない」背中から声がした。
「む。セシル、その言い方はいただけないな」
「マイケルくんややや、やっぱり、はは、裸だったんだね」
「ぼくはぼくの美学に純粋なのさ。それはつまり美しいということ」
「ジャック」私は軽く側頭葉あたりに痛みを覚えてきた。「戦闘出力まで上げてくれ」
「了解。機関出力上昇」
元軍籍の船であったことをいいことに、エスペランサ号には巡航出力の上位に戦闘出力がある。機関への負荷は最悪なのだが。
「風邪のひいちゃうよ、ちゃんとした格好で寝ないと……」
「大丈夫。絶世なる肉体はそれだけで奇跡をも超越しうるのさ」
「機関戦闘出力」
「ジャン、起きろ!」
私は騒々しくなってきた状況に喝を入れる意味を含めて荒い声を上げた。
「……。寝てないよー」
ジャンはそう言って再び操舵輪にもたれ掛かった。全員の視線がジャンを経由して私に集まる。正確には、私の背後のセシルに。
「九億キロ、フル出力で二時間強ね」
セシルの声に私は「短距離跳躍を行います」と返す。
跳躍航行は宇宙という巨大なスケールを時間的差異を最小にして往来するには必須の方法だったが、しかし純粋な交易目的以外に、つまり襲われるかもしれないという場合多くのデメリットが生ずる。
最たるものは、跳躍に際して超空間へ出入するとき大量のエネルギー波を放出してしまうということだ。超空間に侵入するときは自身の位置や行き先を相手に知らせるようなものであり、また通常空間に復帰した際も自船のセンサーのほとんどが役に立たなくなる。
私は背後のセシルを見やる。不安を顔いっぱいに浮かべながらも、船長としての顔を保とうと精一杯の努力をしているようだった。それは、威厳や尊厳などではない、乗組員に不安を与えまいとする痩せ我慢だった。
「救難部署ですから」セシルは言った。「それに荷物のこともあります。時間厳守です」
私がエスペランサ号の船長席に収まっているのは雇用という一言によるものでしかないと思っている。つまり、セシルの代わりに、私はその痛みのいくらかを引き受けたいのだ。
しかし、いまは感傷に浸る場面ではない。
「救難信号発生源へ向け短距離跳躍用意ッ」
私は声を上げる。凛とした空気に各々の復唱が続く。各員が自分の仕事を開始する小気味のいい音楽でブリッジが満たされる。活気が溢れてきた。
「計算終了。計算結果を操舵手に渡す」
航海長の声に「操舵手いただきました」と操舵手が返す。いつの間にかその目はすっかりと見開かれていた。
「出力安定」ダメ押しで機関長が言う。
「跳躍開始ッ」
号令一下、強烈な光量の中エスペランサ号は超空間へとその身を進めていった。




