事の始まりは
見上げた空は雲一つ無い青空。校舎の屋上には昼休みを思い思いに過ごす生徒がちらほらといるが、わざわざ給水塔の上に登っている物好きは俺一人だけ。友人のいない淋しい奴、と思う人がいるかもしれない。でも俺はボッチだからここにいるんじゃない。人目を避けなきゃいけない理由があるからここにいるんだ。
ド真剣に俺は困っているんだ。
話はほんの少し前に遡って、教室。いつもみたいに友人達と弁当を食べていた時に、その中の一人が先日変なものを見たと言いだしたんだ。梅雨も明けてこれから夏真っ盛りになる今ぐらいから確かに目撃率は上がるけどさ…。
「…少しは時と場所を考えてから話せよ、錦戸。せっかくのメシがまずくなる。せめて放課後にしてくれ」
「悪ぃ…。でも俺が木元と一緒に神社で変なものを見たって事は確かなんだからな!黒くってモジャモジャしててさ!西宮、お前は信じてくれるよなッ?!」
「まぁ…一応な。でも異形のモノって、確か普通の人には見えないんじゃなかったか?なぁ涼、どうだっけ」
「見えねぇよ。だから錦戸が見たってのも、何かの見間違いだろ。何かいるかもしれないって思っていたら、思いがけない物を不意に見た時に錯覚しちまった、なんつーのは昔からよくある話だし。幽霊の正体見たり、って言うだろ」
俺を巻き込むんじゃねぇよ、と話題を追い払った。錦戸はまだ何か言い足りなさそうな表情をしていたが、長い付き合いから俺がこういう話題に積極的に首を突っ込む事も興味を示す事も無いのを知っているから渋々諦めてくれた。
…そうさ、わざわざこっちから出向いてやるような酔狂な真似はしたくないんだよ。向こうから頼んでもいないのに話が飛び込んでくるのに、迎えてやる必要がどこにあるってんだ?こういう話題が続くとそういうモノも集まってくるしよ。ったく、自分の話を聞いてもらえると勘違いしたアホに纏わりつかれるこっちの身にもなってみろってんだ。皆揃いも揃って夏になると、本当だろうが嘘だろうが怪談とか怪異とかの話をしたがるし…。一々関わってられるかってんだ。
「それよりも昼イチの授業って何だっけ」
「鳥羽さんの古典だよ。んな事より錦戸、今日は27日だから出席番号が27番のお前は当たる確率高いぞ。ちゃんと予習やってきただろうな」
「やったっつーの。あの先生怒らせたら怖いしな。雷を回避するためなら予習だってやるさ」
その場に居合わせた全員が肩を落として溜息をついた。無言。ノーコメント。何も言う事が見つからない。
俺達2年J組の古典担当の鳥羽先生は、授業でその日の日付と、そこから10違いの番号の出席番号の奴、みたいな方法で指名した生徒に解答させるんだ。そして結構怒りぽいというか鬼というか、予習で分からなかったと誰かが答えようもんなら、連帯責任じゃー!と言ってクラス中を大声で怒る。やってないなんて答えた勇者がいたら、それこそ地獄を見る羽目になる。だから皆授業前の休み時間には、古典が得意な人の周りに集まって何としてでも自分の解答欄を埋めようとするんだ。これでなかなか、大変なんですよ。
そんな話を聞き流しながら、俺は頬杖をついて窓の外へ何気なく目を向けた。特に外の景色を見るつもりも無かったんだが、あるモノが目に留まってしまった。夏の熱気と湿気で大気はムッとしているのに、俺の背中はビッチリと別の種類の汗をかいていた。…多分ヤバいなー、これ。
「喜べ、自習だとよ!鳥羽先生、この暑さでダウンして今日は休んでいるって!」
誰かがどこかから情報を仕入れてきたらしい。…職員室から、かな。教室のドアを、音を立てて開け放ってそう叫んでいた。勿論、それを聞いた教室中が大歓声をあげた。俺も別の意味で万歳だ。
で、飯を食い終わった後、一人で屋上の給水塔の上へ行って冒頭に繋がるんだ。この学校で常に誰からも見られていないのはここぐらいだ。上から見ると、さっき俺が教室から見ていたモノは、学校の裏の林と学校の敷地の境界線の間をウロウロしているのが見えた。肉眼で見ているだけでは距離があるからあまりよくは分からないけど、なかなか怖いのは分かる。
「遠眼鏡で見渡す景色」
…やっぱり怖かった。ドロドロでのっぺらぼうな泥人形のようなんだけど、それの肌は崩れ落ちるみたいにボタボタと落ちている。落ちていった傍から本体の表面は再生していっている。地面に落ちた肌は消えていくが、地面に真っ黒な焼け焦げを残している。この俺が怖い、と思うからあんな見た目でも力はあるんだろう。
「夢見の道行」
こっちで俺が見ているなんて、あいつは露にも思ってないだろう。相手に神経を集中させ、目を閉じて体から力を抜いてこう呟いた。術が発動した途端に、あいつからの情報が津波の様に押し寄せてきた。こんなに情報が多いなんて予想していなかったからフィルター代わりの障壁を張ろうとしたが間に合わなかった。押し寄せてくる情報に俺の意識は呑込まれ、木切れの様に揉まれる。その流れの中で何とか自分を保ちながら。俺は手に入れようとしていた情報を探した。
(こいつ…人間霊か。しかも怨嗟の塊。どんな死に方をしたか分かんねぇけど、とにかく普通の死に方をしてねぇな。おまけに死後も誰かに封じられていて、恨みだけが残った訳か…。で、何らかの原因で封が解け、俺達の学校に満ち溢れている気に吸い寄せられた。でも境界だけは越えられないから、土地を汚して綻びを作ろうって算段だろうな。…そうか、元が人だから日中でも活動できるのか)
さて、と。そろそろ戻るか。
「鬼灯の…行灯の照らす帰路」
情報の渦の中から意識を引きずり出した。
「…頭痛ェ」
相手の強烈な念にあてられたから頭が痛い。でも、俺の調べ物はそう簡単には終わらない。まだ痛い頭を片手で押さえて、俺は一つ溜息をついた。
「くそっ、また睡眠時間と学習時間が削られる」
一応言っておくが、俺はまだ学生だからな。
俺は、なぜか小さい頃から普通の人には見えないモノを見てきた。ぶっちゃけそれが何なのか、何で見えるのかといった本当の事は分からないが、恐らく妖とかの類だろうな。
「西宮、調べて欲しい事があるんだけど構わないか」
「別に大丈夫だけど。…どうした。顔色悪いぞ」
「気にすんな。…学校裏の林な、何かを封じてある場所とか何かそういう曰付きの場所や話があるか、あと最近その辺で何かあったかどうか調べてほしいんだ。…頼む」
教室に戻ってきた時点で気分の悪さは最高になっていた。こう言うだけ言うと、俺は呻いて机に突っ伏した。何とかして、カバンに入れていたこういう時用の薬をとりあえず飲んだ。
「…お前がそんなんになるって、いったい何見ちまったんだ?」
「相手の記憶覗いたんだよ。情報仕入れようって思ってさ。そうしたら奴さん、感情の塊で…。呑まれた。……マジで酷過ぎる」
「ハァッ?!大丈夫なのかよ、そんなんで」
「もし大丈夫じゃなかったら、今ここでこうしていられない」
半ば怒った様な心配顔の西宮にそう言うと、少しだけホッとした様な表情になった。
西宮は、俺の特技(?) を知っている数少ない人間の一人。ここら辺の奴でこいつに情報で勝てる奴はいない。そう言われるぐらい広い情報網を持っている。で、俺はよくその最強の情報網を利用させてもらっている。見た目もよく、モテるが、少しだけ心配症なのが玉に傷。
どうせ次の授業が自習だし次の授業も予習は要らないので、俺は予習を気にする事無くグッスリと熟睡する事にした。
「おい、涼、起きろ。もう六限終わったぞ。それと、少しは情報仕入れてきてやったぞ。要るのか要らねぇのかどっちなんだ」
「…下さい」
結局昼からの授業の殆どを寝て過ごしてしまったが、薬も飲んだからか気分はスッキリした。顔を上げると、西宮がクリップ止めされたルーズリーフを見せた。片手だけ伸ばして、その紙束を受け取った。
「…情報、ありがと。助かるよ」
「ならいいんだが…。追加があったらまた連絡する。そこに書いたのはまあ基本事項ってとこだろ。…無茶すんじゃねぇぞ」
「分かっているって」
紙の上に踊っているのはあいつの几帳面な字だ。あいつはどれだけ急いでいる時でも文字が崩れないからなー。…すごいよな。
西宮が弓道班の活動があるので教室を出て行った。一人俺はガランッとした教室に居残って、紙面の上に集中する事にした。
林の成立は俺達の住む町、清水地区が出来るよりも前。雑木林としてではないが、昔から人々に利用されてきたらしい。何にって…そりゃあ…。
「…やっぱりか」
あの林はこの辺の地域の北限に当たり、山との境に近い。山には昔から神が住むと言われていたが、その山がよく崩れたりするから、そこに住む神様も厄神・悪神・後は…何だっけ。まぁとにかくそんなありがたくない神様とされた訳だ。つまり、菅公みたいに神に据えて皆で拝んで怒らない様に静かにしてもらうって事だな。その為にこの辺の先祖達が使ったのが生贄、しかも大罪の咎人を、同じ殺すならせめて自分達の為に利用しようというので神への捧げ物にしたんだ。おまけに、ただ殺すんじゃなくて、生きたまま何も持たせずに鬱蒼と木々が茂る神域の入り口にあたる林の中へ放り込んだんだ。つまり、神隠しを狙った訳だ。勿論そうそう神隠しなんてなる訳なんてなく、林の中には死体がゴロゴロ転がる事になった。で、皆そいつらが悪霊になって自分達に祟ったら困るからと言って、林の周囲にビッシリと石仏を配置したんだ。林の中を石仏が向く様にして。だから林の中はかなりえげつない事になっている筈だ。…自分勝手なご先祖達だよなー、今思うと。で、そんな所には誰も中に入ろうとはしないが、時々チャランポンの馬鹿やヤンキーとかそういう奴らが林の端の方を溜まり場にしている事がある。そうなると、そいつらに引っ付いて中にいるモノが出てきちまう事もある。ご先祖様達の願いは叶わなかったんだよな。封じられていても結界の中では変化してしまっているんだから。調べによると、この間学校の近く、というか学校裏の石仏が滅茶苦茶に破壊されて引っこ抜かれたという事があったらしい。そっか、こんな事があったんだな。…これは知らなかったな…。俺は元々あの林が曰付きだって事は知っていたけど、あえてわざわざ近付きたくないからそれ以上踏み込んだ事は知らなかった。…盲点だったな。
「…ゲキ面倒じゃねぇかよ。誰だよ、こんな手間のかかるように話をややこしくした奴は」
口を尖らせて文句を言ってもどうしようもない。こうなった以上、サッサと手を打たないともっと面倒な事になるからな。
「…仕方ない、あそこ行くかぁ」
部活も休みなので俺はさっさと下校し、薬局へと向かった。正確に言うと、いわゆるチェーン経営の薬局じゃなく、個人経営の薬局だ。
駅前の裏通りの路地を少し入った先にある薬局。『万薬扱います』と書かれたポスターの貼られた木戸の入り口。コンクリなんだか木なんだか分からない建材。入口の上に掲げてある木の板に達筆で書かれているのは『山海永世堂』というネーミングセンスゼロの店名。
これが、俺の行き先だ。
「こんにちはー」
店内は天井まで届く本棚、もとい物置棚で壁がビッシリ塞がれている。カウンターは入り口から真っ直ぐに見えているが、俺は真っ直ぐに進まずにあえて中に入ってすぐに左へ曲がった。ここは直進しようにも物があって出来ない。むしろこうした方が早く目的地に着いたりする。
「こんにちは。涼君、今日はどうしました」
「こんちは、涼兄」
「こんにちは、楢麓、それと棕沙」
「…一人足りないぞー」
「わざと呼ばなかったんですよ。蒜楷店長」
カウンターで出迎えてくれた二人には笑顔を向けていた俺だったが、奥の梯子を飛び降りてきた人を見て、表情が一気に変わって渋面になる。
「どうしてこいつら二人には普通で、僕には他人行儀なんだよ」
「あんたを頼るのが不本意だからだ。それなのに笑顔で会えってか。んな無茶な」
「はい、二人とも大人気無い事で喧嘩しないで下さいよ」
棕沙のその一言で、俺達は二人とも居住まいを正した。この人を怒らせるのは得策じゃない。というか極力怒らせたくない。
「でも一応言っておくけど、この店の店長は僕なんだからね」
そう。この口調は丸っきり大人じゃない人が、何を隠そうこの薬局の店長なんだ。店名の『山海』はこの人の名前の『蒜楷』からきているが、漢字が難しすぎるので簡単な字に当て直そうという事になってあの字面になっている。『永世』というのにも理由があって、この店の三人の事を指している。早い話、この人達は人間じゃない。この地へ来たのは最近の事なんだけど、三人とも大陸から日本へ渡って来た妖・精霊だ。但し、今店で見えているこの姿は仮の姿。見えない一般人からも見えないと商売出来ないから、誰からも姿が見えて対応出来る様にしているらしい。ちなみに最近こっちに来たと言ってもそれはこの人達にとっての話であって、俺達にしてみればそれはかなり昔の事になる。その当時から殆ど見た目に変化は無いらしい。
俺がこんな人達と知り合いなのは、ここが俺のバイト先で、店長が俺の雇い主だからだ。何で雇われているのかというと、はっきり言って俺の能力のせいだ。ある時に起きた事件のせいで知り合いになった俺達だったが、その後のゴタゴタの中で契約を結んじまった俺は、ここの裏の仕事の出張店員として働いている。仕事は妖退治…いや、悪霊か。妖って言ったらまた怒られる。とりあえず悪いモノを退治するというもの。薬局の裏の顔は、知る人ぞ知る退治屋だからな。仕事を店長から出されて退治しに行ったり、時々自分で自主的に退治したりして、その報告書を提出して報酬を貰っている。勿論、店長達は依頼人からお金を貰っているし、薬局としても結構稼いでいる筈。前に『法律なんて知った事かー』って店長ぬかしていたから、無免許営業の薬局なんじゃないかなぁ、と少し心配だけど。
「で、一体今日は何の用でここへ来たんだよ」
「相談に。…あのさ、一度破れた封の再封印って出来るものなのか?」
「場所、どこの話だ」
「県立湊川高校裏。学校裏の林の石仏だよ」
「あれって封印だったっけ?棕沙、お前知っていたか」
おい、この店長そんな事を知らなかったのかよ。何年ここに住んでいるんだよ。
「はい。ただ店長がこの事を知らないのも仕方ないかもしれませんね。あそこは我々がここへ来るよりも前から封じられた土地として成立していましたから。店長にとって気になる様な事件もありませんでしたし」
「さっすがー、棕兄すごーい。いつの間にそんなに調べていたのー?」
「ちょっとね。楢麓、あんまり言うと店長が怒りますよ」
「おい棕沙、それじゃあ僕が短気みたいに聞こえるじゃないかよ」
「すみません、そんなつもりはなかったのですが」
「ならいい」
楢麓は三人の中じゃ一番年下。人の姿を取っている時も小学生ぐらいに見える。元々は森の木の洞を寝床とする、黒猫みたいな見た目の妖だ。クリッとした目は黒と濃紺のオッドアイ。人形の時は、目は元形の時と同じで、常に逆立った銀灰色の短い髪をもつ少年になる。流石に店の外に出る時はこの上からさらに変化をかけている。
棕沙は中央アジアとかの方の出身らしい。元々はオアシスとかカナートといった綺麗な水のある水辺に住む精霊だ。棕沙は人形の時も元形の時も大して見た目は変わらない…らしい。俺は元形を見た事が無いから分からない。人形の時は、サラッとした黒髪を一つ括りにして後ろに垂らしている。少々女顔なのを気にしていて、伊達眼鏡で誤魔化している。かなりモテる。
店長の蒜楷は、中国の山奥に住んでいた妖、と本人は言っている。元形が何なのかは未だに謎。三人の中じゃ一番年上でリーダーなんだけど、残り二人ともこの人の本当の姿を知らないらしい。見た目年齢なら棕沙が一番歳喰って見えるけど。店長は薬局をやっている―しかも漢方系ときた―なので薬の知識は素晴らしいんだけど、人と上手にやり取りするのが下手だと俺は思っている。実際、客とのやり取りは棕沙に一任している。人形の見た目はパッと見ただけだと、普通に街にいる大学生だ。
「それで、俺の話はどうなんの。こっちとしては極力普通の生活をしたいんですけどね」
「あー、それなんだがな。再封印は難しい。というか、この場合は無理。抑圧されていた、中にいるモノ達が結界の綻びの穴を目掛けて押し寄せてそれどころじゃなくなる。…どういう事か分かるよな?」
「ヒビ割れだったのが、ついには全体が崩れ落ちる原因になるって事だよな。店長の言いたい事って」
「そういう事だ。じゃあどうするかなんだが、中にいる奴を一気に浄化するのが楽だろうけど…。それだけじゃ済まないんだろ、どうせ」
勘だけは鋭いんだから。
「あぁ。一体だけだが学校の敷地に入ろうって頑張っている奴がいるのを今日見つけた。そいつを探って記憶に潜ったら学校裏の林が関わっているって分かってさ。友人に調べてもらったら穴が開いているって事が分かったんだ」
「えー、涼兄またあれ使ったの?いつか神経擦り減っちゃうよ。危ないから止めた方がいいと思うけどなぁ…」
「大丈夫だよ、楢麓。気を付けて使っているしね。で、店長」
「つまり自分じゃどうしようもないから僕に助けて欲しいって事か。確かに一人で抱えるにはデカいヤマだしなぁ」
この店長、口が悪いのが問題だ。
チラッと横目でこっちを見てきた店長に、俺は思いっきり言ってやった。
「別に一人でやりますよ。いつも結局一人ですしね。方法さえ教えてもらえりゃ後はやります。手伝ってもらわなくても結構です」
「ほう…。後からやっぱり一人じゃ無理だとか言って泣きついて来ても僕は何もしないぞ。まぁここまでくれば店長命令ぐらいは出すけどな。いいな?」
「それぐらい分かっているし当たり前だ。やってのけるさ」
棕沙がやれやれ、と諦め顔でこめかみに指をあてていた。
「そういえば涼君、学校に入りそうな奴がいると言っていましたが、それはどうしていましたか」
「ん?学校の敷地の境界スレスレをうろついているよ。泥人形みたいで、溶けていく肌で地面に焼け焦げ作っていたけど
何を想像したのか、楢麓が小さく息を飲んだ。顔色が悪くなっているよ。
棕沙はまだ自分の右のこめかみに指をあてている。さっきまでとは表情が変わり、目を閉じて考え込むような表情だ。
「この場合、結界の中を先に浄化した方がいいでしょうね。結界で抑え込んでいるうちに片付けた方が後々楽ですし、周囲への被害を抑える事も出来ますから。学校の敷地内に入ろうとしているのはその次でもいいでしょう。…境界を越えられるまで、時間はありそうですか?」
「そうだな…。まだ余裕はあるだろうから後回しになっても間に合うとは思うよ。ただ、あいつは多分生徒の気に引かれているから、早けりゃ早いほどいいだろうけどね」
「そうですね。…方法は一つありますが、かなり荒業になりますよ。耐えられますか?」
「やるって言っちまったからにはやるさ。何かあってもなんとかするしな。方法、教えて」
棕沙は俺の目を少し覗き込み、軽く頷いた。
「分かりました。楢麓、三番棚の整理番号13の箱に入れてある物を取ってきてくれますか」
「はい!」
弾かれた様に楢麓が入口とカウンターの間にある、棚の林の間へと姿を消していった。
ふと気付いたら、棕沙の目が冷たい青になっていた。彼の目の色が変わるのは、滅多に無いけど彼が能力を使う時の特徴。彼が能力を使うのは、今みたいな時だったりして、例えば俺の能力発現のルート…回路を新しく作る時。…あーあ、また一個回路が増えんのか。
ここで一つ解説しておく事にする。人にはまー一つぐらいは何らかの能力がある。それは、特技として発現する事もあるけれど、異能力として発現する時もある。で、俺らが開拓して利用するのは異能力として発現する回路。これは、元々そいつとか力があれば、後天的に創る事が出来るんだ。便利っちゃ便利だよ。
「じゃあ、方法を教えます。今回創る回路は一時的なものです。この仕事が終われば消滅します。先に順序を説明します。まず、結界の穴の向こうに集まっているモノを一纏めに括ります。括ったら、それを一息に消します。その時に結界も一緒に壊します。次に、学校の近くにいる奴を誘き出します。誘き出したら、後はいつも通りにして下さい」
「…棕兄、言われた物持ってきたけれどさぁ…。…本当にいいのかなぁ」
「大丈夫ですよ」
その後に多分、と言ったみたいに小さく唇が動いた様に見えたのは、気のせいだったのか。
棕沙が楢麓から受け取ったのは、赤黒く、大きさは小指の爪ぐらいの石の付いた首飾り。俺と棕沙のやり取りを、カウンターにある椅子に座って聞いていた店長が、それを見てガタッと音を立てて立ち上がった。一瞬見開かれた目だったが、すぐに細められて眉間に皺が寄った。
「本気か、棕沙。使う事自体は構わないが、こいつにそれを使わせるのか。人の身には重いぞ、それ」
『人の身には』って、どういう事だよ。見た目からして何かの封印石の様な気もするけど…。何なんだよ、その首飾り。
「本人がやってやると言っていますし、店長が見込んだ人材で大丈夫でしょう」
店長と棕沙の間に見えない火花が散っている様な気がする。さてどうしたものか、と思う俺の横で、楢麓が眉を心配そうに八の字に下げていた。少し困った様に二人を見ていたが、八の字眉のまま俺を見上げてきた。
「どうかしたか」
「うぅん、どうもしない」
力無く首を横に振って、俺の右側に立って引っ付いてきた。頭一つか二つ分低い楢麓は、どことなく彼自身が痛いみたいな、そんな表情だった。
「なんつー表情しているんだよ」
そう言って俺は楢麓のその短い髪の中に指を入れてワシャワシャと掻き回した。
楢麓が引っ付いてきた右の脇腹には、完治しているけれど大きな傷がある。以前に店に来た依頼で出向いた先で受けたものだ。その時は、向こうに行ってから、相手の力がこっちの予想を遥かに上回っている事が分かったんだ。でも既にどうしようもなかったから、俺は何とか一人きりで任務を遂行した。その中でそこをやられていて、終わった頃には自力では帰れなくなっていたから式を店まで飛ばして救助を待つ事にしたんだよ。現場が一人も人が来ない森の中の祠だったから、俺は神域である事を示す注連縄よりも外に出て待っていた。でも、助けに来る気配は全く無かった。いつまでたってもなかなか帰ってこない俺を心配して、『別にいい』とか言っていたらしい店長には黙って棕沙が迎えに来てくれた時には、いつの間にか降り出していた雨に打たれて濡れ鼠みたいになっていた。仮に目を閉じると、そのまま眠って二度と起きられなくなるだろうという危機感が俺の中にあったから、何とか棕沙が来るまで意識は保っていた。武器として持って来ていた小刀で、わざと自分を傷付けその痛みで自分を叩き起こしていたんだ…。我ながらよくやったよな、と今でも思う。
それからの話は伝え聞きでしかないが、普段から滅多に発動しない能力を駆使して帰ってきた棕沙の、凍えそうなぐらい冷たく痛い目と、その腕の中でグッタリと糸の切れた人形みたいになっていた俺を見て、勝手な行動をした棕沙を怒ろうとした店長もその気が一気に失せたらしい。それから暫くの二人ほど怖い二人は見た事が無いって、俺が起きてから楢麓が泣きながら言っていた。その後も妙にピリピリした空気が漂っていたけれど、最近元の調子に戻ったと思っていたんだけどなぁ…。まだ根が残っていたのかな。
「あの時店長はこう言いましたよね。『本人がやると言ったんだ。やり遂げたならそれでいいじゃないか。おまけにあいつは僕が見込んだ人材だ。何とかして帰ってくるだろう』とね。私が記憶している中で涼君が助けを求めてきたのは、まだこの仕事を始めてからの時間が短いのもありますがあれが初めてでした。彼は自分ではどうしようもないからと、我々に助けを求めてきましたが、店長はそれを見放したよね。それなのに、今回は最初の時点で止めるのですか」
棕沙の青いままの目が、冷たい青から凍える青になっていく。しかしそこに熱く揺れる炎を秘めている。これは…キレてるよな。
「そう言うけどな棕沙。あの時も今回も計画を立てたのはお前だ。しかもあの時、お前も最初は僕の言う通りに涼の帰りを待つ事にしていたじゃないか。その時点でお前も涼の事を見放しているんだって分かっているのか。人の事言えた身分じゃないって、分かった上で言っているのか。どうなんだよ。もし分かってないのなら、僕は怒られ損だ!」
店長が部下のその長身に喰ってかかる。その目にもやはり炎が揺れている。
何が起爆剤になったのかは分からないけど、二人とも共に負い目を感じているあの時の事が、今回のでスイッチが入ったみたいだ。…としても、今この場で二人揃ってキレてほしくないなぁ…。
「ちゃんと分かった上で店長の事を責めています。確かに私にも追い目があるのは分かっていますよ。しかし一つ言わせてもらうなら、店長のその態度には腹が立ちます」
「棕沙!」
店長の怒声で俺と楢麓はその場から飛び上がっていた。…本当に怒鳴られてその場で飛び上がる事があるんだな。いや、別に俺らが怒鳴られたんじゃないけどね。この一瞬で鳥肌が立っている。俺はシャツの上から腕を擦り、楢麓にいたっては俺のシャツの裾を掴んだまま離れようとしない。
さて、この状況をどう打破しようかな。とりあえずこの大人二人を現実に戻さないといけないんだよな。手段なんてそういくつもあるもんでもないし…。
やっぱりあぁするしかないかな。有効的だし。
「……いい加減にしやがれェ!」
俺がキレた。
「人が相談して頼んだ事放り出して、何二人してケンカしているんだ。しかも大の大人が、おまけに過去の事でよ。ケンカするなら、俺がこの店出てから表に出てやれ!つーか口で言い合って解決しねーだろこんなもん。互いに互いが己の非を認めていて、それども一方では相手の事を責め続けるなんてよ。こんなの、二人とも擦れ違ったままやり続けていたらただ単に二人が二人とも傷付くだけじゃねぇかよ。…んなケンカなら、今やるな!後でしろ!」
二人とも宙に視線を泳がせて、バツが悪そうに互いに顔を見合わせた。それから、どちらからともなく小さく笑った。
「確かに涼君の言う通りですね。楢麓も怖がらせてしまいましたし」
「…というか、涼に説教される日が来るとはなー。…仕方がないか。棕沙、お前のその計画でいくか」
「次は助けを求められたらすぐに行動して下さいよ」
「分かっているよ。…涼、僕が動かなくても済むようにしてくれよ」
「…何無茶苦茶な事言っているんだよ、あんたは」
元に戻った俺らのやり取りを見て、楢麓がクスクス笑っていた。
「それじゃあ説明を再開しますよ。中にいるモノを一纏めに括って結界ごと消す時に、これを使って下さい」
そう言って俺の掌に乗せたのは、さっきの首飾りだった。
「一時的に涼君の事を人柱とします。それで、この石は封印石なんですけど、中にいるのを召喚して働いてもらいます。…構いませんか」
「んじゃ危険なのって…」
「主に、人柱からの離脱時だな。まさか体を差し出す訳にはいかないから精神回路の一部を出すんだが、ヘマをすりゃ廃人まっしぐらだからなぁ。…やれるか、涼」
「まあね。…確認するけど、一纏めに括って、一回外に出すのか?モノを消して、それから結界でいいんだな?」
「あ、そうですね。それじゃあ、道を開けますよ。これは情報のやり取り用です。俗に言うテレパスですかね。…いきます」
ヒヤリと冷たい棕沙の掌が額に触れる。と同時に、一気に来た。いくら一時的なものとはいえ、回路の開拓ってあんま好きじゃないんだよな。…気分の良いもんじゃない。
掌が離れたら、俺は水を払うみたいに頭をブルブルっと振った。
『大丈夫ですか』
「うわっ!」
いきなり頭の中に直接棕沙の声が響いてきた。少し高めでよく通る澄んだ声が、いきなり聞こえたから妙にビックリする。俺が驚いて急に声を上げたもんだから、楢麓がつられて驚いていた。
「すみません、驚かせる気はなかったんですが。…成功していますね」
「普通いきなり試験運用するか?慌てたぞ、いきなりすぎて」
「そうですね、すみませんね」
そう言って笑う棕沙に、さっきまでの鋭さは無い。目もいつも通りに戻っている。
「よし、全員聞け」
店長のその一言で、俺も含めて全員が居住まいを正した。
「涼、出張命令だ。時刻は…そうだな、明日の早朝。日の出前に片付けてこい。場所は県立湊川高校周辺及び学校裏の林。目的は結界の破壊及び通常業務。以上だ」
「了解!」
家の中が寝静まるのを待って、俺は家を抜けだした。自室の玄関横の六畳の和室の窓から、だ。…当たり前だろ、窓が出入り口になるのはよ。まぁどうでもいいけどさ。現在時刻は草木も眠る丑三つ時。冗談じゃない。しかもこの時間帯は、俺みたいな人間にとっちゃ本当はこの時間帯は避けたい時間帯。でも、家の皆が寝静まってから出ようと思っていたからこんな時間になったんだ。
ペンライトを一番弱い光量にして、靴紐をしっかりと結び直した。さぁ、ここからが仕事です。
いくら田舎の町とはいえども、こんな時間帯に外を出歩いているのを見られたらタダじゃ済まない。だから俺は極力足音をたてない様にして目的地へと走った。後方から何かが追って来る気配があるけれど、無視して走る。気にしたら負けだし、気にし出したらキリが無い。どうせ自縛霊の類だろうし。あいつら、自分の領域から離れられないから。
目的地に着いた時、俺はその場の気の異常さに思わず吐きそうになった。結界にできた穴から中にいるモノ達の念が次々に出てきている。ありがたい事に、今のところ外へ出た奴はあの一体だけみたいだ。
『棕沙、聞こえるか』
校舎の裏にある倉庫に身を隠して様子を窺いながらこう尋ねると、返事はやや遅れてやってきた。
『はい、聞こえていますよ。到着しましたか?』
『今現場だよ。…なぁ、今ふと思ったんだけどさ。どうせ両方消すのなら、穴から直接中へ送って一気に結界ごと破壊してもらった方がいいんじゃないかな。そうすりゃ土地の汚染も防げるし、周囲への被害も少なくなる。何よりも俺の体力が残る』
『確かにそうですね。ちょっと待っていて下さい。店長と相談してみます』
通信が切れた。俺はその間じっと息を潜めて倉庫の間にしゃがみ込んでいた。
暫くして、向こうから連絡がきた。
『もしもし』
『聞いている。どうだった?』
『店長も賛成です。それじゃあ言う通りにして下さい。
そこから穴とその中が見えますか?』
『見えるよ』
『だったらそこで構いません。ライト持っていたら消しておいた方がいいですね。…まず、その首飾りの石に、血を付けて下さい』
『どうしてだ』
『一応生贄を捧げるので。手順は踏まないといけませんし』
まぁ、そりゃそうか。
俺は左の親指を持って来ていた折り畳みナイフで少しだけ突いて、出てきた血を石へ塗り付けた。石はただでさえも夜の闇の中で赤黒く輝いているのに、更に輝きが増した。ライトは言われた通りに電源は落としているから、光源と言えば近くに一本だけある頼り無い街灯と、自分から赤い燐光を出しているこの石ぐらいだ。
『いいですか。次、呪文の詠唱、いきますよ』
『OK』
『…血の生贄を捧ぐ』
その一言だけで空気が変異した。俺の体が緊張して強張ってきている。
『秘石に眠りし闇の住人よ。そなたの住む世を荒らすのは彼ら。贄に捧げられし供物を喰らい、そなたの住む闇を守れ。そなたの住む世を荒らすモノを払え。…万軍の主の誉れにかけ、万軍の主の名において我は命じる。39の軍団を支配する侯爵、フォルネウスよ!』
ソロモンの悪魔を使うのかよ!と思った瞬間、俺の体は石から出た衝撃波の為に後方に吹き飛ばされて倉庫に叩き付けられた。その衝撃で一瞬息が詰まる。痛みを堪えて目を開けると、銀ザメの口が左腕を肩口から喰い千切っているところだった。視覚に遅れて頭の中の神経が痛みの為にパニックを起こしだす。痛みを通り越して何かそこだけ熱い。咥えられた左腕には、あの首飾りが握られたままだったから、俺は右手を伸ばしてそれを自分の手からむしり取った。
『…涼君、聞こえていますか!』
焦っているらしい棕沙の声が大音量で聞こえてきた。無意識のうちに回路を通して叫んでいたらしいな。
『…今聞こえた。銀ザメに…左腕、喰い千切られた。サメは俺の腕を咥えたまま、大人しく空中浮遊中だ』
『現実的な行動に出ましたか。一時的な血の生贄、疑似的な人柱にと考えていたのですが。…計画変更ですね。予定ではこちらから指示を出す予定にしていましたが変えます。今の涼君は捧げられた供物であると同時にその支配者です。命令、出して下さい』
『分かった』
『万軍の主の誉れにかけ、万軍の主の名において命じる。あの穴の中に潜む亡者共と、かの血を囲む結界を消し去れ。フォルネウス!』
叩きつける様にこう言うと、銀ザメは咥えていた音をたてて俺の腕を咀嚼して呑込み、あの穴の中へと飛び込んでいった。…あまり見たくはなかったなー。
右腕に首飾りを巻き付けたまま、上着のTシャツを脱いで左腕に押しつける。Tシャツは元々黒だから大して分からないが、すぐに湿気てきている。石は燐光をまだ放っている。石がシャツに触れるたびにそこに染みてきている俺の血を吸っては輝きが増していく。…マズいなぁ。不法侵入考えている奴相手する前に俺が死ぬぞ。
銀ザメが入っていった穴の中は、大海になっていた。奴はその中を悠々と泳ぎ、次々と亡者のなれの果てを食べていく。
ふと頭上から殺気を感じて、凭れていた倉庫から離れる。倉庫の上には昼間見つけた奴が立っていた。
「…誘き寄せるまでもなく寄ってきたか」
奴の肌に触れ、鉄製の倉庫が腐敗していく。酸…じゃないな。どっちにしろ、あんなもんが俺に触れたらひとたまりもない。奴はユラユラと、だが確実に一歩ずつ間を詰めて来る。俺は左腕の付け根を右手で持ったTシャツで抑えながらじりじりと後ろへ下がっていく。俺の居た場所を示す様に、地面には紅の水溜りが出来ていた。
俺が地面に落ちていた小枝を踏みつけて音をたてた。それが合図になった。
俺目がけて上から飛び降りながら、口から唾を吐いてきた。避けたそれは地面に当たり、大穴を開けた。こりゃまずい。
「錬水・李鵬弾」
あいつの属性が土だったりしたらマズいなぁ。でも一応木気も被せてあるし…。そんな事を考えながら、錬り上げたこの辺の水気を纏めて奴に叩き込んだ。だけど三割近くが跳ね返ってきた。
「錬土・白壁」
俺が棕沙に開けてもらった道のうち、今でも利用しているのがこれ。錬気の法。中国の五行思想を元にしてあるらしい。…というか五行相克か。
地面からせり上がってきた壁に身を隠し、跳ね返ってきた原因を考える。
(土克水だけど木克土なら五分五分。…まさかあいつ、本来は火気なのかよ!)
もしそうなら水克火でこっちが有利かもしれない。でもさっきのだとあいつは水生木・木生火・火生土の三つの連結サポートを受ける事になる。うっわ…面倒。こうなったら力ずくかぁ。時間がある訳でもないし。
俺が最も得意とするのが水気であるなら、奴のそれは火気らしい。なら力押ししたらこっちに有利に事は運ぶ。
隠れていた土壁から離れ、俺は大気中に漂う水気を集めた。幸いにも季節は梅雨と夏の間。水気は事足りる。
「錬水・瀑布」
後ろで渦巻いていた大量の水気が奴に一気に襲いかかった。流石の奴もここまで大量の水気にやられたら塵となって消えていった。
『涼君、大丈夫ですか』
奴が消えた後、棕沙から連絡が入った。
『多分。銀ザメも全部片付けたみたい。結界も破壊完了』
『なら次は御帰りして頂くんですが…。体、大丈夫ですか』
あれだけの気を錬って、水溜り造っていたら本来ならまずヤバい。それなのに今日の俺はボロボロになっている事を除けばいつも通り。痛すぎてパニックになっていた神経回路も通常営業だ。
『…なんか普通。そっちに帰るまでは保つと思う。とっとと帰ってもらってそっちに行く』
『了解しました。…首飾りをサメの目の前に垂らして下さい』
林の中をグルグルと回遊していたサメがこっちを向いた時を狙って石を目の前に突き付けた。
『やったよ。今止まっている』
『じゃあ帰還詠唱、いきます』
『万軍の主の誉れにかけ、万軍の主の名において。再び本来のあるべき地へと戻り、長き眠りにつくがいい』
サメは少し抵抗したがしきれずに消えた。石が出していた燐光も消えた。
途端にドッと汗が噴き出てきた。金縛りの解けた時みたいだけど今回は全然違う。左腕の痛みもぶり返してきてまた頭の中真っ白状態。押し付けっぱなしのシャツからは、さっきまで少し染み出ているぐらいだったのが隙間から好き放題に出てきている。……石の燐光ってそういう事か。一時的な麻酔みたいなもんか。
『棕沙、やっぱムリ!帰れねェ!迎えに来て!』
『分かりました、急いで行きます』
それを聞くと俺の体は糸の切れた人形みたいにその場に倒れた。最後に見た時計の表示は、午前三時を指していた。
―誰かが呼んでいる。つーか午前3時だったら起床まであと三時間しかねーじゃねぇか。予習、学校に行ってからするか。…あー、報告書ー…―
「気分はどうですか?」
薄らと目を開けると、優しい黒の瞳と目が合った。天井は何度か見た事のある格子模様。嗅ぎ慣れた匂い。…あぁ、薬局だ。
「棕沙…、今、何日の何時」
「あれから2日後の正午です。…あぁ、ちゃんと式は出していますので不審がられてはいませんよ」
「なら大丈夫か…」
体を起こそうとするがバランスを崩して横向きに倒れた。…左腕のあるべき場所が妙に空白だ。
答えに至った俺は、反動を付けて上体を起こして自分の左側を見た。
…やっぱり、無い。本来そこにあるべき物が、無い。
「すみません、まだもう少しかかるらしいんですよ」
「…何に」
今のセリフ、何か不自然だ。
「左腕の修復です。店長、ずっと奥の作業場に籠って頑張っていますよ」
やっぱり何かおかしい。
「…俺の腕、喰われたんだけど?」
「取り戻しました」
「…どうやって」
「ソロモンの72の悪魔を封じた秘石は各地に点在しています。今現在フォルネウスの主なのが、何の因果か店長なんです。主は生贄無しで召喚出来ますから、私が帰宅するなり石を掴んで庭に出て怒鳴りつけていましたね。主に言われては仕方が無いので、銀ザメは折角手に入れて生贄を手放さざるを得なかったみたいです」
「…俺の腕、消化されかけていたのか?」
「いいえ。彼らは生贄を消化・吸収する場合もありますが、涼君の場合は片腕だけでも十分力のある物です。霊力源としようとしたのでしょう」
優しく笑いながら解説してくれるのは、それはそれでありがたいが、今みたいな場合だとむしろ不気味だったりもする。
俺は口をへの字に曲げたまま暫くムーッとしていた。別に怒っている訳でもないんだけど。
…よく考えてみれば、俺の上半身、包帯でグルグルだ。掛け布団を引っぺがしてみると、やっぱり足にも巻いてある。…これ、俺のズボンじゃない。
「棕沙、俺の服…」
「今修繕して洗濯中です。少しの間、私の古着で我慢して下さい」
「……」
棕沙のこの店での役割は接客。ついでに言うなら参謀。んでもって能力開拓者。そして、家事一般を取り仕切っている。
にしても結構気付かんうちに怪我していたんだな。…左腕のせいでマヒしてたのか。
「…なぁ、楢麓は?」
「部屋に籠りっ放しです。帰ってきた私を出迎えてくれたのがあの子だったので」
「だよなぁ…」
いくら妖でも、ガキに変わりはないからなぁ。
近くに置いてあった長袖のシャツを肩にかけて羽織った。
「ちょっと見て来るよ」
俺がいたのはカウンターからすぐのバックヤードにある一室。2階へ上がる梯子はすぐ近くだ。片手で登るのはちょっと難しかったが、何とか登り切った。
一階に反してここの2階はいたって普通の家。楢麓の部屋は一番奥の西向きだ。
「入るよ」
軽くドアをノックしてから中に入る。部屋のカーテンは全て閉められ、電気も付いていない。でも部屋の中には誰もいない。いつもなら天井から下がりっ放しのロフトへ通じる梯子も降りていない。…上にいるのか。梯子…というか階段に通じるドアは、引っ掛け棒で開けるようになっているんだけどそれも無い。となると自力で開けるしかない。幸いにも俺は店長よりも長身(店長で170)だ。手を伸ばせば一応天井には届く。棕沙はそれの上をいくがまぁ置いといて。指を引っ掛けて引けば簡単に開いた。梯子を伸ばしてから、肩から落ちたシャツをもう一度羽織り直して上へ上がった。
楢麓はロフトの斜めの天井に一つ付いている窓から外をただ眺めていた。
「楢麓」
声をかけたら、たちまち目を潤ませてこっちに飛びついてきた。
「…涼兄の馬鹿ぁ」
「心配掛けたな。悪かった。俺は大丈夫だから」
そう言って短い銀灰色の髪を掻き回した。楢麓は暫く俺にしがみ付いたまま泣いていた。
「…涼兄、腕」
楢麓が落ち着いてから、二人で屋根の上に出た。なんとなく、日光を浴びたかった。
「店長が治してくれるって」
「痛くなかった?」
「フツーに痛かった。今は大丈夫だけど」
「…俺さ、棕兄が帰ってきた後、その場から逃げだして、店長と手分けして働いているのを隠れて見ていたんだ。あの時も…」
「だとしてもだ。俺の事を心配してくれたんだろ。それだけでも十分ありがたいと思っているよ」
それを聞いて、ようやく楢麓が笑った。
俺の左腕が元に戻ったのは、それから2日後の事だった。