カムイ
三階に来ると、桜子は辺りを見回して、近くにあった教室へ入る、二年一組。桜子は何組かは知らないが、公稀はいつもこの廊下を使っているんだなあ、と思いながら、桜子の後に続いて教室に入る。
「ここの机を廊下に運ぶわ」
「これ全部ですか?」
「ええ、あいつが来る前に、この机を二段に重ねて、壁にするの」
「そんなので大丈夫なんですか?」
「ええ」
そう一言だけ言うと、桜子は机を吊って廊下に出て、出入り口のすぐ横に置いた。公稀は桜子が何を考えているのか判らず、ただ机を運ぶことだけに集中することにした。
あの化け物の力からしたら机で作った壁なんて、すぐに突破してしまうだろう。人間だって崩すことくらい可能だ。
「足止めになるんですか?」
はやり疑問として残ってしまうので、公稀は桜子に怪訝そうに訊いた。桜子は一回ため息をつき、そしてまた教室の机を吊る。
「あまりならないわ」
「えぇっ!」
「とりあえず、説明する時間だけの確保はできると思ったから。あと、休憩」
「説明と休憩って……」
拍子抜けしてしまった。なにか他にやることでもあるのかと思った。だが、桜子はまだ、すり傷程度にしか見えないが、前の方が破れた制服から腹部に傷が覗ける。休むのは多分、あの化け物ともう一度対峙するためだろう。
「早く運び終えるわよ」
「は、はい」
少し焦っているのか、早歩きですぐに違う机を運ぶ。公稀も少し急ぎめで机を運ぶ。
二クラス分の机を運び出して、一組の教室の両側に壁として立てる。そこで桜子は文庫本を取り出した。
「どうするんですか?」
「『カムイ』の力を見せてあげるの」
「力?」
桜子は指で文字をなぞり、指を離す。すると文字たちがピンクに輝き、線のように桜子の指先についてきた。
「すごい……」
「これで机を縛れば、多少なにかされても崩れたりしないわ」
桜子は指を机の方に向けて、線となった文字たちを机に絡ませた。反対側にある積んだ机にも、文字たちが絡む。
「教室で休みましょ。そろそろこの校舎の出入り口を突き破って、わたしたちの方に来ると思うわ」
本を閉じて、桜子は教室に入り、窓際のところで体育座りをする。公稀もゆっくりと入って桜子の横 (といっても数十センチは離れているが)に座る。
「本当にカムイについて知らないの?」
最初に口を開いたのは桜子だった。
「カムイってよく漫画とか……北海道での昔の話で聴いたりした気がします」
「そう……」
桜子はなぜか残念そうな顔をしたのが、公稀にはなんだか良くわからなかった。
「カムイって言うのは……昔からいるの。何千年も前から」
「何千年も?」
公稀は作り話でも聞かされ始めた気分であったが、素直に聴いてみる。
「そうよ。神たちが住む世界『カムイモシリ』というところがあるの。その場にいる“神威の創世神”から人でも神の力を扱えるようにしてもらって、魔族たちと戦うことができる人間が『カムイ』」
「魔族と戦う人間……?」
カムイモシリや“神威の創世神”やら、全く良くわからない言葉を言われたが、公稀は頑張って理解しようとする。
「魔族って、さっきの化け物……?」
女子生徒から黒い炎が出て、その炎が宙で化け物の形に変わっていったのにはとても驚かされた。あれが魔族という存在だったのだろうか。いや、桜子の話しているのは事実で、事実と捉えるなら、魔族と言ったら、あの化け物しかいないだろう。
「そう。でも、あいつは生まれたばかりだから、魔族の下級類に入るから、悪魔と言うべきかしら」
「悪魔……。そういや、あいつ、人を焼いて殺した……!」
公稀が見た光景は、あの獣のような悪魔が叫んだ瞬間、女子生徒を黒い炎で包んだのだ。その黒い炎は悪魔の口になかに入って、女子生徒は黒い炎が消えた途端、その場には誰もいなかったかのように姿が無かったのだ。
「あれは焼いて殺したんじゃないわ。食べたの、心の闇ごと、魂を」
「え?」
「悪魔は人の心の中にいるの。ネガティブになって、気持ちが沈んでいる人の心の隙間に入り込んで、人を苦しめ続けるの」
「苦しめ続ける……?」
「ええ。心の闇を増やして、実態を持たない黒い炎となっている悪魔はどんどん人の心を絶望へと追いやり、最後は魂を食べて成長をするの」
「そ、そんな……」
冗談な気がしたが、公稀は実際現場を見てしまっている。あの女子生徒は悪魔に食べられてしまったのだ。
「でも……あの悪魔が食べてたのは炎だったけど……」
「心が悪魔に侵されたら、心だって黒い炎にそまってしまうわ」
「黒い炎……」
不思議だと思っていた黒い炎は、あの人の心だったのか、と納得した。
「だから、カムイはその人自身が食べられないようにその悪魔たちを消すために戦うの」
「怖くないんですか?」
桜子に聞く。桜子は静かに公稀の方を見る。
「カムイっていうのはいつも危険な場所にいるの。普通の人間の日常を送ることなんてできたりしないわ」
「そ、そんな……」
冷や汗がにじみ出てくる。
「そんな危険な戦いしなくても、悪魔たちが出てくる前に、倒してしまえば……!」
次は思ったことを桜子に言った。だが、桜子は首を横に振る。
「カムイでもそれはできないの。心の中に悪魔がいるときは、それは人の問題ね。だからこそ最近はカウンセラーとかに相談しなさいとか言われてるでしょ。悪魔を出したくないのなら、自分の心を強く持たなくちゃならない」
「……無責任な……」
その言葉が漏れた。だが、桜子は動じない。
「確かに、カムイは人が完全に追いやられたときにしか動けない。責任感を持つのは悪魔を倒すという事だけ。それに、無責任なのは人も同じよ。苦しめたり、助けたりしなかったり、まだわたしたちの方が解決してあげてることが多いわよ」
胸になにか突き刺さった感覚が、公稀にはあった。さっき、桜子から逃げてしまったのを思い出した。こんな危険なことをしていたことも知らず、変な存在と見てしまったのだ。そこは反省すべきところだったなと、公稀は思った。
「あなたがカムイでないなら、どうか普通の人間であって。友だちや家族を助けられる、そんな存在でいて」
「先輩……」
悪魔を生み出しているなら、確かに、危険なことも減らすことができるだろう。だが、公稀にはなにか引っかかった。
自分は人を助けることができるような存在なのかどうか。そこに疑念を抱いた。
「僕は……」
「……あなたが人間だとして、この悪魔たちが作り出す『結界』を動けるのだとしたら、今までにカムイと関わったか、カムイの持つ『神具』を手にしているっていう可能性が高いわ」
「僕がカムイの物を……?」
公稀は自分の身なりを見る。だが、そんなもの持ってはいないし、心当たりはない。持っているとしても、ハンカチや母の形見の十字架のペンダントと、まだもらったばかりの生徒手帳ぐらいだ。カバンは桜のこの下に置きっぱなしで来てしまったことに公稀は今思いだした。
「確認しなくていいわよ」
「す、すみません」
そんな会話をしていると、
「ぐおおおおおおおおおっっ!」
あの悪魔の声が校舎に響いた声がした、同時に教室内も揺れた。校舎内に入ってきたのだろう。
「き、きたのかな……?」
「恐れることなんてないわ」
桜子は立ち上がって、文庫本を開いた。
「先輩……」
「この『結界』のなかは、いくら暴れても大丈夫よ。普通の世界を隔離した世界が『結界』。元の世界に戻れば、何もかも元通りよ」
そんなこと言っている場合じゃない、と公稀は叫びたくなった。だが、もう危険は目の前に来ている。そんな余裕はない。
階段の方からすごい音が轟く。
「そこから動かないで」
「は、はい……」
「があああああっ!」
獣の爪が、廊下にあった机の壁を破壊した。
もう側までいるの確かだった。
「ここからが本番ね」
教室の扉、窓、壁を全て吹き飛ばし、悪魔が侵入してきた。だらだらとよだれを垂らしている。
桜子は左手に文庫本のページを開きながら持ち、右手の人差指でページの文章をなぞり始めた。