糀桜子
桜が視界を覆う。
視界が明るくなってくると、風景が変わっていた。
校舎の玄関前。
桜子と公稀はそこにいた。いつの間にか。
「ほら、大丈夫」
桜子は公稀の方に向き直りそう一言だけつぶやいた。とても優しい言葉。さっきまで抱いていた恐怖心を吹き飛ばしてくれる、温かい言葉。だが、どうして先輩がここに来たのか、今までの桜は何だったのか、公稀は理解できなかった。
「さっきのは一体、何なんですか?」
公稀は疑問を桜子に投げた。桜子は表情を何一つ変えず、さっきと同じ感じの声でそっと答えた。
「公稀が知るようなことじゃない」
桜子は踵を返して、また校舎裏の方へ向かおうとした。
「先輩! 校舎裏は危ないです! さっきの化け物が――」
「あいつは弱いから、大丈夫」
「え?」
弱い? どうしてそういう事が言えるんだ。人を焼いて食べたんだぞ? 公稀は動揺を隠せない。先輩を行かせたら、あの化け物の爪でやられて、火で焼かれ、あの女子生徒のように食べられてしまうかもしれない。さっきまであった恐怖心がよみがえってくる。
「先輩!」
公稀は桜子を止めようとして腕をつかんだ。
「なに?」
「なに? じゃないです! 先輩には死んでほしくないんです! さっきの化け物見たでしょ? 人を襲うんですよ? 逃げたほうがいいですよ!」
公稀は必死に説得するが、桜子は表情を全く変えない。行くことを決定して、その思いを貫き通そうとしているようだ。
桜子は公稀の手を払い、校舎裏を目指す。
「行っちゃダメです! 先輩!」
歩みを止めない。
「先輩は死にたいんですか!」
叫んでその言葉を放った時、桜子はピタッと足を止めて、公稀の方へ振りかえる。公稀はびくっとする。桜子の目を見て。
(本気なのか……?)
怖気づく様子など全く見せていない桜子を見て、公稀は後ずさりした。なにか威圧感を感じた気がした。
勘だが、公稀は桜子には何かあるのだろうと思った。さっきの桜も、先輩が来たときに舞い降りて、先輩の声とともに、視界を覆うほどの桜が舞ったのだ。
桜子は一度ため息をついて公稀に歩み寄る。公稀は近づいてくる先輩にさえ恐怖を抱いた。
先輩はもしかしたら、普通の人間じゃない。そう思い始め、近づくと何かされると思って、距離を取ろうとした。
「逃げないで」
桜子から一言、冷たい声が発せられる。
(な、なんなんだよ……)
体が小刻みに震える。桜子が近づいてくるほど、心臓の鼓動が速まる。目の前に立たれただけで死んでしまいそうな気さえした。
「……」
桜子は歩みを止めた。公稀が自分が近づくほど離れていくのだから、当然だろう。
そして、公稀は見た。桜子の表情が初めて変わったところを。とても悲しそうな目をしている。
「わたしが、怖い……?」
桜子は左手を胸にあて、静かに公稀に尋ねた。
「……」
公稀は答えられなかった。複雑な気持ちでだったからだ。最初の友だちがこの目の前にいる先輩の糀桜子だったが、人間とは少し違う、なにか違う存在と思い、今は恐怖心を持ってしまい、自分の答えが分からなくなってしまった。
「……そう」
察したかのように、桜子はそれ以上何も言わずに校舎裏へ向かった。今度は公稀が止めに入ることは無かった。臆病だと、もう分かっていることだ。桜子先輩は友だちだとしても、今日会ったばかりだ。そこまで仲は良くないはずだ。止める義理なんかない、と決めつけてしまっていた。
(もう、先輩の勝手でいいじゃないか……僕は、関わることじゃないんだ)
体がまだ震えている。早く逃げてしまいたい気分になっていた。
「さよなら、先輩……」
曲がり角を曲がって、姿が見えなくなった桜子を見て、公稀はそういうしかなかった。公稀はゆっくりと門へと足を進める。
このセピア色に塗りつぶされた空間。公稀は早く脱したかった。
「……!」
門の前には数人、人がいた。だが、自分と桜子とは違い、セピア色の単色。この空間の一部になっていた。帰る途中なのか、友だちと話しながら歩いている風景。だが、止まっている。
「どうなってるんだ、よ……」
校舎裏に行くんじゃなかったと思いながら、公稀はダッシュで校門を出で、自分の住んでいるアパートへと向かう。あそこに帰る頃にはこの空間から出られると思ったから。
公稀は振りかえらない。化け物が襲ってくる恐怖がいっぱいで、振り向けば食べられるとしか頭に浮かばなかった。
(怖い……)
助けを呼びたかったが、さっきの生徒の姿を見れば、他の人もあの状態になっているだろうと公稀は察した。
無我夢中で走り続ける。道にいる人形のような人を避けながら、自分の住んでいる所まで走り続ける。
「結局、一人……」
花びらがちらちらと舞う。桜子の歩みを優雅に魅せる。
「ぐおおおおおおおおおおおおっ!」
黒い獣の化け物は桜子の存在に気づき、威嚇しているのか、咆哮する。
「すぐに片づけてあげる」
そう言い、桜子は空色のブックカバーの文庫本を開いた。
「六三頁、闇を縛る壮麗たる鞭――」
本のページの文章を読み上げてるのか、瞳を閉じて、一文を右手の人差指でなぞる。すると、桜子のなぞった文字たちがピンク色に輝きだした。そして、桜子は勢いよく指を離すと、ついてくるように、文が、線のように連なり、指がペンになったかのように、桜子が指を動かす方へついてくる。
「ブロッサム・ウィップ」
ピンクの文字たちは、ペンとなっている指から離れ、化け物の方へと飛んで、周囲を回る。化け物は何事かと、線となっているピンク色の文字たちを見回す。
「――収束」
桜子がつぶやいた瞬間。ひも状となった文はどんどん長くなり、化け物を囲み、一気に化け物を縛る。
「ぐおおおっ!」
化け物は驚き、し腕ごと縛られた体のバランスを失いその場で倒れこんだ。結構重かったのかかなり揺れた。地面にも化け物の周りにひびが入っている。
「こんな程度で手こずるはずはないわ」
文庫本を閉じて、桜子はほっと息をついた。だがそれは一瞬だった――。
「ぐぅをおおおおっ!」
さっきまでとは違う雄たけび。周りに響く。倒れた時と同じように地面が揺れる。
「!」
なんと、化け物が、桜子の出した文字を引き千切ろうとしていた。ビシビシと音を立て、千切れていく。
「なんて力……!」
桜子は再び本を開いた。逃げはしない。逃げたら逆に隙を作って、負けてしまう。戦うしかなかった。急いで読み上げようとしたページを広げる。
「ぐおおおおお!」
ひもを引きちぎった化け物は一気に桜子へと迫る。腕を振り上げ、桜子を標的に狙う。
(間に合って!)
すぐにそのページに書いてある内容を読もうとする。
「二〇一頁――」
指で文章をなぞる。読み上げようとしたが、遅かった。
「ぐをぉぉぉおおおおお!」
鋭い爪が桜子の腹部を捉えた。
「……かはっ!」
腹部を抉る。
桜子は化け物に吹き飛ばされてしまった。鮮血がセピア色の世界桜子と共に舞う。そしてそのまま下へと叩きつけられた。
叩きつけられた衝撃と、腹部を切り裂かれた痛みが同時に起こり、体が痺れ、少し痙攣を起こした。体が思うように動かない。
(たった一撃でここまでやられるなんて……)
血反吐を吐きながら、力を振り絞って立ち上がろうとする。しかし、桜子はうまく立ち上がれなかった。痙攣しているためか、感覚があまりない。痛みの方がひどいからかもしれない。口の中が鉄のような味で広がる。
「ぐおおおおおおおおおおおお!」
勝利したと思ったのか、化け物は大きく叫んだ。遠くまで響くような声。
「あ……あぐ……・」
桜子は言葉もうまく出せない。
(まだ、始まったばかりだっていうのに……)
必死に落としてしまった本を手に取ろうとするが、力が入らない。
(もう、だめ、か……)
“諦める”という言葉が浮かんできた。桜子は必死に伸ばそうとしている手を止めた。こんなに血があふれて、弱った体で、どう戦えばいいのか、桜子には頭に浮かばなかった。
(結局『あの人』のようにはなれない……)
小さい頃に会った人。桜子の頭の中に、その人の笑顔が浮かんだ。自分を支えてくれた人。最後まで守ってくれた人。ずっと憧れていた。
(あの人のようになるために『カムイ』になって、ずっと戦って行こうと思えたのに、最後は一人で……死ぬんだ)
温かいものが目から流れてくるのを少しだが感じた。
泣いてしまったのか、と桜子は悔いが残った人生を見つめるのはもう嫌だと思い、目を閉じた。
音は、ずっと、化け物の叫ぶ声だけが辺りに響いている。
(あの子……公稀。わたしの側に……いてくれる人だと思ったのに、結局、離れて行っちゃった)
桜子の心の中に、公稀の姿が浮かんだ。
桜の木の下で出会った少年の顔。会ったときから、桜子には公稀が特別な存在だとなんとなく感じていた。しかし、もうこの場にはいない。
(さよなら)
声に出ない言葉を心の中でそう公稀に言った。
「……死んじゃだめだ!」
突然、聞いたことのある声が桜子の耳に入ってきた。聞き覚えのある声。さっきまで怯えていたような声。なぜかとても懐かしく聴こえた。