謎の空間
糀桜子と名乗った先輩。公稀は忘れられなかった。
放課後、公稀の足が桜並木の方へと進む。
(放課後も本を読みに来ていたりするのかも知れない)
ドキドキしながら、校舎裏へと向かう。地面に散った桜の花びらが落ちている道を通りながら、角を曲がり、校舎裏へ行く。
夕日に照らされて桜が舞う姿も特別でとても綺麗だった。
「学校でこんな景色見れるんだな……」
どうして人がいないんだろう、と思いながら辺りを見回しながら桜の木の付近に近づく。
そして、今日座っていた桜の木の下に来た。
いない。
公稀はがっかりした。そう何度も来るわけないか、と考えを改めて踵を返すと、この静かな世界で、女の人の声が聞こえた。
(先輩!?)
期待しながら声の方へと歩む。
だが――。
「どうして! どうしてなの!」
違った。学校を仕切っているフェンスのところで、女子生徒が大きな声で携帯電話に向かい感情をぶつけている。彼氏に振られたりしたのだろうか。
見ちゃいけないと思い、公稀はすぐに元来た道へと引き返そうとした。
「私を捨てるんだ。私を……」
何かが落ちた音がして、公稀はつい振り返ってしまった。
女子生徒は携帯電話を落としたようだ。でも、それには気が付いていない様子だ。放心状態になっているような顔で、ゆっくりと足が前の方へと進み、膝をつき、オレンジ色の空を見上げる。
(だ、大丈夫かな)
慰めたい気分だったがここはそっとしておく方がいいだろうと思った時、異変に気付いた。
突然、彼女の胸のところから黒い火が見えたのだ。
「……まさか!」
公稀は辺りを見回す。残念ながら周りに水が無い。このままだとあの女子生徒は自害してしまう。
(ど、どうしよう)
黒い炎が彼女を包み、全身に広がる。
奇声が響く。
(もう間に合わないのか!?)
頭が真っ白になって、その場でうろたえている。
女子生徒はうつ伏せに倒れ、黒い炎に焼かれている。
黒い炎。
公稀は少し疑問を抱いたが、そんな場合じゃない。動揺していて、何をすればいいか全く分からないのだ。
(どうしようどうしよう)
声もちゃんと出ない。自分が何もできないことに罪悪感を抱く。もっと早く何かしてれば助け出せるかもと思って、地面に手をつく。気分が悪くなり、胃から物がこみ上げてくる感覚があった。
自分は無力だと悟った。
桜子を探しに来ただけなのに、こんな光景を見るなら、さっさと帰れば良かったと思いもした。
黒い炎を公稀はもう一度視界に入れてしまった。
普通の炎とは違う状態だった。女子生徒を包んでいた黒い炎は火柱となり、空へと昇っていたのだ。まるで黒い炎の方が煙だったかのように。
(どういうことだ?)
炎がこのような形状をとるところなんか見たことがない。公稀は静かに、昇っていく黒い炎を見上げた。
黒い炎は空の上でぐるぐると円を描くように動き、何かの形を取ろうとしていた。
「な、な……」
驚くことが連続で続く。
不可解な光景。
炎というのはたいてい、上に向かって火が燃えていると思っていたが、黒い炎は違った。
いろんな方向へ伸びていく。空中には何も燃えるものなどない。理科の実験のように、酸素が燃えてるなどと言えるようなことなのだろうか。
だが、そういう普通の炎ではないと、すぐに分かる。黒い炎は何かに近い姿を保って、地面に足のような形を下部分で降り立った。
「……」
夢としか思えなかった。こんなこと絶対にありえないだろう。ありえるのなら、昔からニュースなどで話題になっていて、中学校や高等学校の教科書にだって記載されるはずだ。
黒い炎の上部分が獣のような口の形状をしていて、
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
と、炎ではありえない音――のような声が聞こえた。その叫びが周りに響いた途端、獣の姿をし始めていた黒い炎は消え始め、最初はなかった、中身が見える。
黒い毛が生えた謎の化け物。両足で立っている。耳もあり、赤い目鋭い牙や爪。大きな手足。ウサギやオオカミなど、そういう動物のパーツが一緒になったような怪物だ。とてもデカイ。
「ぐおおおおおおっ!」
怪物はまだ叫び声をあげて、右腕を振り上げ、地面を思い切り叩きつける。そこから、ぐにゃぐにゃした半球の形をしたものが膨らむ。
公稀はそれに飲み込まれた。怖くて目をつぶった。
(ここで、死ぬんだ……)
探しに来るんじゃなかった、と公稀は思い、自分が地面に仰向けに倒れる感覚を感じた。
この倒れた痛みで最後か。
そう諦めを心の中でつけて、死の世界を見ることしかできないのか、と思ってそっと目を開けた。
「!」
死の世界、では無かった。
同じ場所にいた。
今さっきまで見ていた校舎裏の桜並木の風景。だが、少し違う。散っている桜が止まっている。
(時間が止まってるのか……?)
痛い部分を擦りながら、辺りを見回す。止まっている桜の花びらは触ることができる。
「……!」
そして、決定的に違う部分もあった。
周りの色。公稀の目に映っていた世界の色だ。
周りの色がセピア色に染められて、校舎も空もフェンスも桜の木も、桜の花びらも、全部同じ色に変わっている。
まるで、アニメなどの世界で、違う世界に連れてこられたような風景だった。
違う世界?
(そういえば!)
あの化け物が出した半球の色もこの色だった。化け物が作った球の中の世界なのか、と公稀は信じがたいと思いながらもそう考えた。
「ぐおお!」
まだ変わってないところがあった。
まだ化け物がいたのだ。
だが化け物がしていた行動は――。
「もしかして、あの人を食べる気か!」
公稀は化け物の下に倒れてる女子生徒を見つけた。さっき焼かれていたはずの女子生徒は火傷一つない。
化け物は大きな口を開ける。
「……」
見ることしかできなかった。怖くなったのか、足がガクガク震えて、動かせないのだ。
女子生徒はまた黒い炎に包まれた。
そしてさっきと同じように火柱が立ち上り、化け物の口の中に入っていく。同時に女子生徒の姿が消えていき、最後は何もなくなった。
全部の黒い炎を飲み込んだ化け物は上を向き、また叫びだす。
「ぐおおおおおおおおおおっ!」
「……!」
その一声で恐怖心が一気に高まった。
(逃げなきゃ!)
そう思ったが、足が動かない。動くことができず、そのまま腰をついてしまった。
小さな音でも気付くのか化け物はすぐ公稀の方を向いた。
口から唾液が垂れている。その唾液は地面を溶かしている。
「い、いや……だ……」
一言だけその言葉がでた。
化け物にはそんな言葉は聞こえないのだろう。様子をうかがっているみたいだ。
「……ぐおおおおおおおおおおお!!」
「!」
突然叫びだした化け物は、両手両足で、元気な犬のようにこちらに向かって走ってきた。
「いや、だ……いやだ……」
化け物は速度を緩めない。唾液を垂らしながら、公稀へと迫る。
「……嫌だ! ま、まだ、死にたくない! 嫌だあああっ!」
最後に先輩に会いたかった、あの綺麗な姿。桜が似合う先輩。
会いたい!
そんな気持ちが高まった時、桜の花びら一枚が目の前を通った。
さっきまでの時が止まっていた桜の花びらとは違う。ピンクでとても綺麗な花びら。公稀はその花びらをみて、頬に温かいものが流れた感じに気付いた。
「桜子先輩……」
この高校の制服。セミロングの黒髪。空色のブックカバーを付けた文庫本サイズの本を持っている。
桜の花びらが散り始めた時、一緒に舞い降りてきた、この高校で一番最初に話すことができた友だち――糀桜子。
(やっと、会えた)
涙があふれる。
だが、桜子の立った目の前には、怪物が立ちはだかっていた。
「ぐおいおおおおおおっ!」
怪物は大きな腕を振り下ろす。
「せ、先輩!」
悲鳴に近い声で桜子を呼ぶ。
会えてもここで二人で死ぬのか。さっきから何もできない自分を、公稀はすごく恨んだ。
「……大丈夫」
死ぬ所を見たくないと思って目を伏せた寸前。公稀は桜子の優しい声を聴いた。