[玖] 九鼎大呂 の 9。
しん、と静まる校舎の奥から、細波のような音が響いてきた。
アキラがやってきた方向からだ。
「来るぞ」
秦山が大きな体をぶるりと振るわせ、ため息をつく。そして前方を睨む、が、はっと我に帰って、後ろの夏生を振り返る。
「今のは武者震いだからな!」
「いちいち云い訳がましい奴だな」
音は上から下から、様々な方向から合流しながら、近づいてきている。
近づくにつれて、その音は「かさこそ」という音が何十にも重なっているものだとわかる。
「かさこそ」――そう、先程のゴキブリ女の足音だ。
「すげえ数だ」
舌なめずりする秦山。
「こらこら、」
声とともに、しゅたっ、と秦山の前に人影が降り立った。
ふわり、と長い黒髪が白シャツにかかる。
それは、長身でほっそりとした、狐目の男だった。
「お前たちで相手できる数じゃないだろう」
男は左手で眼鏡をくいっと直した。
その顔の横には白い炎が浮いていた。
「佐原先輩っ」
夏生の目が煌めく。
「夏生、結界を張れ。
ここは一旦やりすごして、他の奴らも呼ぼう」
「はい」
佐原には素直な夏生を見て、秦山が舌打ちする。
「…ま、それが賢明だな。
さすがは文部の参謀を自称するだけはある」
「秦山くん、君はもっと冷静になりたまえ。
うちの新人にもしものことがあったらどうしてくれるのだ」
「はんっ、そっちに預けたうちの新人はどうしたんだよ。
自分ちの坊やがピンチで、よその子はほっぽらかしか?」
「秦山先輩、僕は後ろにいます」
「わっ」
秦山が飛び上がって見返ると、背の小さい、色黒な男子生徒が口を尖らせていた。
「わるいっ!
片口、そこにいたのか!!」
「いました。
気配を消すのが基本中の基本ですよね、先輩」
ぷっと夏生が吹き出す。
ぎろりと秦山が睨む。
「片口、蛍火で大瀬たちにも連絡してくれ」
「はい」
片口は、傍らに浮かぶ緑色の炎に向かって息を吹く。
すると、夏生、秦山、佐原の炎が、燃え上がり、片口の炎の方に吸い寄せられた。
「?」
炎を見て首を傾げるアキラに、喃が解説する。
「あの炎は、明かりになると同時に、炎を持つもの同士の通信機の役割を果たすことができるんだ」
「懐中電灯つきトランシーバーみたいなもの?」
「う〜ん、外れてはいないけど、不正解。
この炎は人間以外のものが見ることができない明かりなんだ。だから、この明かりで妖魔に気づかれることはまずない。
そして、通信機能についてなんだけど、炎の発する気炎を介して、仲間の状況が視覚的・聴覚的・嗅覚的に把握することができるんだ。
だから、トランシーバー以上の優れもの☆」
そんなやり取りの間にも、音は近づいてくる。
ざざざざざざ・・・
振動が、廊下の床を伝う。
音は廊下の角まで迫っていた。
夏生が指を組んで、一言発した。
「ちェン」
キン、と鼓膜に膜が張ったような感覚がして、アキラが頭を振る。
「今、夏生が結界を張った。
俺らから離れるンじゃねえぞ」
先方を見据えたまま、秦山が忠告する。
「秦山、灯りを消せ」
「灯りはあっても関係ないだろう」
振り向いた秦山に、震えるアキラにしがみつかれた夏生が、ぶっきらぼうにもう一度云う。
「灯りを消せ」
秦山が口の端を上げる。
「へぇ、意外にいいとこあんじゃん」
「いいから」
夏生は怒った声を出す。
「見えざる気配を感じるのも、基本中の基本だったか」
秦山が炎に向かって呪を唱える。
しかし、炎が消える前に、アキラは見てしまった。
おびただしい数のゴキブリ少女が、廊下いっぱいに這い出してくるところを。