第四話
直治が奮発して,増田家を大山へ連れて行く話。
増田家にも夏休みがやってきた。7月31日のこと、父ちゃんがいつまでたっても帰ってこないので,きっと飲み屋で寝てしまったのだろうと,私達は思っていた。
夜11時を回って,いきなりがらりと玄関の戸が開いて,「帰ったゾウ!」と、がなりたてて父ちゃんが帰ってきた。廊下を歩く足音がいつもと違っていた。伯父さんがすぐそれに気付いて,
「直治のやつ,どうも歩くテンポがおかしいぞ。これはまさか、酒を飲めないほど,悪いことをしたということか?」と、首をかしげた。
「おう、かえったぞ!」と、父ちゃんは居間の襖をがらりと開けた。
「なんだよお前,今日は酒飲んでないじゃないか,」と、伯父さんが言った。
「おう、みんなよく聞けよ,良い知らせをもってきたぞ!」
「ああ、お前の,良い知らせなんて,そんな対した事じゃないだろ,聞くだけ無駄だよ。」
「何ですか,直治さん」と、平助が言った。
「おう、良い知らせよ。だから、酒なんて飲めなかったのよ。」
「さっさと言っちまいなよ。」
「兄貴,いよいよ夏休みが到来だなあ!」
「そうだねえ、夏休みは一番の稼ぎ時だねえ、観光客がたくさん来るんだから。」
「がく、、、。兄貴,またそんな事言いやがる。せっかく夏休みが来たんだからよ,明日くらい一日休んで、皆で出かけよう!」
「「何馬鹿なこと言ってるんだよ!そんなね、お前みたいに遊びほうけてるやつとは全然話が違うの!そんなことしてる余裕なんかないんだよ!」
「兄貴,大山だよ、大山。皆で大山に一泊しよう。8人分予約とって来た。」
「嘘だろ!」と、全員岩石ハンマ−でぶたれたように黙ってしまった。
「お前が,予約なんてできたのか?」と、辛うじて伯父さんが言った。
「大山ねえ,」と正太が言った。「昔から雨降り山と言うからねえ,年か゛ら年中雨が降っているところだろ,嫌な予感がするなあ。」
「その、大山へ行く経路はちゃんと知ってるんだろうね。」
「おう、調べたとも,まず、東名高速道路で厚木まで行って,伊勢原へ行く。そして大山駐車場に車を止め,大山ケーブルカー乗り場行きのバスを捕まえる。バスは一時間に三本ある。のったら、大山ケーブルカー下社駅で降りる。そこから登山道を登る。頂上には大山阿附利神社奥の院があって,そこで家内安全商売繁盛を願うことができる。これでどうよ。」
「もういっぱつぶたれたよ。」と正太が行った。
「よく調べたなあ,」と、伯父さんが言った。「いつもそう言う風にてきぱきとしてくれると良いんだけどな。」
「まだあるぞ、ケーブルカーの運賃は往復840円。安いだろ,それからバスは,」
「ああいいよ、そんなものは各自で出すから。で、とまるとしたら,どこに泊まるんだい?」
「大山には温泉があるから,ケーブルカー駅の側にある,旅館OXに泊まることになる。今日OO旅行会社に頼んできた。だから酒を飲む余裕もなかったのよ。」
「おいおい、こりゃ、ひょっとすると本物だぞ。」と、じいちゃんが言った。「直治の言う通りにした方が良いかもな。」
「そうさ、兄ちゃんも父ちゃんも、平助正太朝子手伝い部隊もよくやった。ここで皆誉めあっていいんじゃないか。な、大山。皆で行こう。」
「何も起こらなきゃいいけど。」と、八重さんが心配そうに言った。
「あたしは神社に行ったらこう絵馬に書いてくるわ。『三K男に逢えますように』って!」と、朝子はもう行く気でいた。
と、いうわけで、次の日から二日間、店は臨時休業にして、皆で大山に行くことになった。
さて、次の日、起きてみると,雨だった。「雨だから無理だね。」と、八重さんが言っていたが,父ちゃんは一人はりきって、「さあ行くぞ!」と、わめいていた。「こんな雨だからやめようよ。」と、私は言ったが、「うるせえ!一度決めたことはやり通す!」と言って怒り出すので,私達はすごすご出かけていった。東名から、伊勢原辺りまではよかったが,大山に入ると,視界が濃い霧で覆われ,ほとんど見えなくなってしまった。
「ほらみろ、やっぱり雨降り山だ。いつもこんな感じなんだよ。これじゃ駄目だよ。弾き返しましょうや。」と、正太が言ったのだが、父ちゃんはどんどん進んで行ってしまうので,仕方なく後を付いて行った。
坂を上ると,両側に店がずらりと並んでいた。店員達が威勢良く宣伝をしていたが,私達は父ちゃんを追いかけるのに一生懸命で,ろくに聞こえなかった。
父ちゃん一人ピンピンしていて、私達はへとへとに疲れ果てて,大山ケーブルカー始発駅についた。ケーブルカーはごった返していて,私達は、大勢の客と、押し競饅頭をしなければならなかった。
そうこうしているうちに、ケーブルカーは下社駅で停車した。私達を含めて,乗客が車内から降りる様は,鯨が嘔吐するように見えた。外は霧が立ち込めていて,一丈先でさえも見えなかった。相変わらず雨がザーザー降っていた。私達は登山道入り口まで行ってみたが、雨降り山らしく、雨がひどいのと,霧が濃くて登山道がほとんど見えなくて危険と言う訳で、登山を諦めた。良治伯父さんが大山阿附利神社で絵馬を買い、「家内安全商売繁盛」と書いて、朝子が宣言通りに書いて、平助が「早く一人前になれますように!」と書いて奉納した。正太と、じいちゃんが「大山阿附利神社神泉拝観所」という所へ行って、「神泉」を一瓶もらってきた。私も飲ませていただいたが,あまりにも冷たくて,頭がツーンとなるほどだった。
父ちゃんは、まだ未練があるらしく,登山道入り口の周りをうろうろしていたが,「ほら直治、これから下るよ!」と良治伯父さんが連れ戻してきた。まるで、しなびた大根のようになっていた。
そして、私達は再びすし詰めのケーブルカーに乗って店の並ぶ坂へ戻ってきた。正太と八重さんは文句ばかり言っていたが,伯父さんがある工芸展に行って「お、独楽。懐かしいな。」と、回し独楽を一つ買った。朝子が同じ店で,竹製の籠を買った。平助は、「実家に送ろう。」と言って,漬物の詰め合わせを一つ買った。じいちゃんが、お守りと御札を買った。これをみて,父ちゃんは再び元気を取り戻し,
「さあ行くぞ,次の目標は旅館OX。全速全身!」と声をあげ、先頭をきって歩き始めた。
時々良治伯父さんの助けも借りながら,父ちゃんは無事に皆を旅館に連れていった。ところが、それはとても古い建物で,廊下を歩くと床がギイギイ鳴り,廊下と部屋を隔てるものは襖一枚しかなく,さらに窓はガタガタ、という有様。八人いたので、四人四人づつ部屋を割られたから、面積はまだ良いものの,私達は、昼寝をしようと思っても,廊下を通るほかの客の足音が煩くて眠れない,窓からの隙間風がひどい,冷房がうまく効かない、といったことに悩まされた。私は疲れきっていて、一日不運続きだったから、
「まったくもう、父ちゃんの言うことを信用するんじゃなかった。」と思わず言った。正太も、「こんな風になるのなら、うちにいたほうがよかった。」と言った。共感してくれる人がいたので、私は父ちゃんの悪口を言い合った。すると、
「この馬鹿者が、お前のお父さんだろ、そんなに悪く言うやつがあるかい!」と、良治伯父さんが仰った。私はその意味がわからなくて、ムカッとしてしまった。でも、それを口に出して言うと、伯父さんに怒られるから、しなかった。なので、吐き気がしそうだった。
すると、父ちゃんががっくりと落ち込んでどこかへ行ってしまった。「ちょっと、どこ行くんだよ!」と、伯父さんはすぐに追いかけた。それがとても意外に見えたので、私はこっそり後を付けていった。
すぐ近くの酒屋に父ちゃんはいた。既に酒を飲んで酔っ払っていた。
「なにやってるの、こんなところで、戻ろうよ。」と、伯父さんは言った。
「皆俺のせいだ。」と、父ちゃんはふて腐っていた。「皆のこと、楽にしてやろうと思ったのに、かえって駄目にしちまった。合わせる顔がないよ。一生懸命交渉したのにさ、旅行会社と。」
「お前な、一から十まで無理しなくたっていいんだよ。交渉って値切りだろ。銭、そんなに無かったんだろ、なら、もっと早いうちから言ってくれれば良いのに。そうしてくれれば、私も都合の言い日をつけるのに。」
「兄貴、ほっといてくれよ。あわせる顔なんか無いんだから。」
良治伯父さんは、鞄の中から独楽を出して回した。
「それはないよ。存分、楽しませてもらったから。」
やはりさすが兄弟であった。いつもお互い憎まれ口を叩いているが、やはりどこかで繋がっている。子供ながら、微かにそう思った。




