ひまわり
痛いほどの青空から降り注いだ光が、世界を照らしている。夏休み中の校舎は閑散としていて、時折半開きの窓から吹奏楽部のトランペットの音が聞こえてくる。校庭ではサッカー部がおはじきのようにボールを飛ばしている。
教室には、私しかいない。午前中に自習をしようと思って来たものの、エアコンの風と、薄緑のカーテンを揺らす温かな光に眠気ばかりが募ってゆく。
やっぱり、もう帰ろうと思って椅子を引いた。普段からは想像できないほど静かな廊下にはガラス窓が反射して、サッシの影がまるで水中のワカメのように揺蕩っている。
踊り場を過ぎて階段を下ると、美術室の扉が開いていた。通り際に覗くと、石像やらキャンバスやらの合間に、見覚えのある崩れた一つくくりの頭が見えた。
「美佐子。」
声をかけるとそれは驚いて振り返り、
「凜ちゃん。」
と私の名前を呼ぶ。散らばった画材やごみくずを避けて美佐子の斜め後ろまで行き、キャンバスを覗き込む。そこには、燦燦と眩しいヒマワリが咲いていた。ぱっと花弁を開いたそれを見た時、胸がざわついた。
美佐子の後ろからどんどん華やかになっていくひまわりを見ていると、口が滑った。
「間違えてるよ。」
美佐子の手が、キャンバス上で一瞬止まる。
ジーワジーワジーワジーワ
さっきまで聞こえなかったはずの蝉の声が、やけにうるさく響きだす。気に留めていなかっただけだろうか。エアコンがじじじと鳴いた。空調が壊れているせいでぬるく蒸し暑い美術室で、私たちは意志を持って沈黙した。ワイシャツが、汗でじっとりとぬれた背中に張り付いて気持ち悪い。美佐子の額を、汗が滑り落ちていった。その汗が顎を伝ってぽたりと、パレットを持つ美佐子の右手に垂れた。「えっと。」かすれた声が宙を彷徨う。眼鏡の奥の瞳が、困惑してこちらを伺っているのが分かる。
「あの、どこが。」
細長い指の綺麗な手に握られたパレットには呆れるほど朗らかな黄色と、冬の焼き芋の中身のように幸福そうな山吹色、そして、泣きたくなるほど明るい水色が作られている。その色の曇りのなさに、なぜか悔しくなった。手入れされていない八の字の眉毛が、こちらを見上げたために眉尻がさらに下がっている様子に、不意に激しい苛立ちを覚える。一切攻撃性のなさそうな顔。
「ひまわりは、こんなに綺麗じゃないよ。」
煮えるような気持ちを悟られまいと、わざと静かな声を出す。
「通学路のひまわり、見たことあるでしょ?」
にっこり微笑んで尋ねると、美佐子は小さくうなずいた。
「暑い中必死に上を向いて笑っている様子が、健気で素敵だと思って。」
自分の絵を満足そうに見つめて、そう美佐子が言う。短いまつげの下の瞳は彼女の作り出す色のように朗らかで、自分の描いたひまわりだけをただじっと見つめていた。自分の知っているひまわりと、彼女の目に映るひまわりの違いに困惑し、苦しくなる。内臓を圧迫するような息苦しさはまるで体内で風船が膨らんでいくようで、私は眉間にしわを寄せた。心臓が激しく跳ねて、掌がかっと熱くなる。ぼうっとしてよろめきそうになる身体を、つま先に力を込めて必死で抑えた。
「へえ。」
かろうじてそう言った。美佐子はまだひまわりを見ている。
少しすると美佐子は首を傾げ、絵筆に黄色の絵の具を付け始めた。私はその様子をただぼうっと見つめ、それから視線が流れるままに床のタイルの、ニスのはがれてかさついた所にじいっと焦点を合わせた。
美佐子がその綺麗なひまわりにさらに明るい色を重ねだした時、唐突にはっとして、違う、こんなのはやっぱりひまわりじゃない、と思った。ひまわりがこんなに綺麗に見えてたまるか。美佐子のくせに、友達だって全然いないくせに。やっぱり、正さなきゃ。黒の絵の具を手に取ると、暑さで随分柔らかくなっていた。気にせずふたを外すと、美佐子があっという間もなく、ひまわりの中心に向かってそれをぶちまけた。
「あ、え、?」
美佐子が困惑してこちらを見上げる。逃がすまいと目を合わせる。
「ひまわりは、夏の光にあらがって陰惨とした影を降らせているものでしょう。上なんか、向いてないよ。こんなのひまわりじゃないよ。ひまわりは笑顔じゃない、ずっと何かに怒ってるでしょ。ほら、こっちのほうがずっと、本物みたい。」
いいながらキャンバスを見て、ぎょっとした。どろりととけた闇のような絵の具のかかったひまわりは、鬱々として怯え憤怒するひまわりではなく、ただ黒に汚された、綺麗なひまわりだった。急に、怖くなった。
「私、帰るね。」
足元の鞄をひっつかんで美術室を出る。美佐子は口を開きかけたけれど、何も言わなかった。階段を駆け下り、薄いピンク色のドアを押し倒すようにして女子トイレに逃げ込む。鏡を見ると、鬼がいた。肩で息をしながら洗面台に手をつき、鏡にぐっと顔を近づける。微笑んでみた。般若だと思った。
苦しさに口で息をしながら、とうとう涙がこぼれた。




