第64話 噂の広がり――王都の民心離反
第64話 噂の広がり――王都の民心離反
ローレンツ王都――その中心部にある第三市場は、かつて王権の繁栄を象徴する場所だった。
高級食材、魔導具、貴族御用達の織物まで揃い、通りは常に活気に満ちていた。
だが今、店主たちの表情は浮かない。
客足は減り、在庫は滞り、仕入れの帳簿には「グレンヴィル」の名がぽっかりと消えていた。
「……あそこの金属が来ないと、刃物が足りなくなるんだよ」
「織物もそうだ。グレンヴィルの雪繭は、今や北の目玉だったのに」
「それだけじゃないさ。
“税制改革”ってやつで、あっちは物の流れがスムーズになったらしい」
商人たちの会話は、まるで噂話のようでいて、
そこに漂う空気は――確かな焦りだった。
そして、やがて言葉が変わる。
「……あの“軍師”がやったんだろう?」
「なんでも、王都から追放された令嬢だってな」
「名前……なんて言ったっけ」
「エレノア・フォン・アウグスト」
名前を口にした男の声には、畏れよりも敬意が滲んでいた。
⸻
別の日、街外れの書記官組合の若手が小さな溜まり場で交わしていたのは――
「なあ、知ってるか?
王都の命令が通らなかったって話、あれ……“命令がなかった”らしいぜ」
「は? 命令がなかったって……じゃあ何で動いたんだよ?」
「自分たちで決めて、動いたんだとさ。税も軍も全部」
「マジか……逆らったんじゃなくて、見捨てられてたんじゃん……」
「逆らった、じゃなくて、見限った。
……たぶん、正しい言葉はそっちだ」
若い声は、現実を静かに突き刺していく。
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さらに別の通りでは、下町の老婦人たちが噂していた。
「前はね、あのエレノア様のこと、悪い子だって思ってたのよ。
ほら、王子さまを困らせた“悪役令嬢”だって……」
「でも違ったのね。
聞いたわよ、兵を追い詰めなかったって。
逃げ道まで残して、追撃もせず……」
「“本当に国を思う人”は、権力にしがみつかないって。
そういうことかしらねぇ」
柔らかな声が、遠くで鐘の音と混じる。
そして、最後の一言が静かに落ちる。
「……殿下より、あの子の方がずっと“王族らしい”じゃないの」
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その夜。
王都のとある貴族邸では、書簡が破り捨てられていた。
「……くだらん。
辺境の噂など、いずれ消える!」
だがその言葉に、もはや説得力はなかった。
噂は風。
風は壁を越える。
そして王都の“壁”は、すでに綻び始めていた。
⸻
王宮の書斎。
フレデリック王太子は、報告書を読みながら椅子にもたれていた。
兵の再編は進まない。
議会は分裂し、魔術師団は沈黙し、
そして――民の声は、すでに別の場所へと向いている。
窓を開ければ、夜風が流れ込む。
その中に微かに聞こえたのは、街の子供たちの遊び歌だった。
「グレンヴィルの銀の塔 令嬢さまの知恵と剣♪
王都の兵は逃げてった 魔法も剣も効かなかった♪」
フレデリックは目を閉じた。
(……なぜ、あのとき、彼女の言葉を聞かなかった)
それは今さらの問いだった。
だが、その答えを見つけぬ限り、
彼の王としての歩みは、もう始まらない。
⸻
王都の灯が、少しずつ揺らぎ始める。
信頼の火は、風に吹かれて消えていく。
その風の名は――
“噂”。
その噂の先にあるのは、辺境ではない。
“新たな秩序”のはじまりだった。




