【第9話 氷結の痕跡――辺境を脅かす者の正体】
氷狼王との決戦を乗り越えたエレノアたち。
だが、その背後にはより深い“意図”が潜んでいた。
魔物の動きは自然ではなく、
まるで誰かが舞台を整えたかのような計画的な流れ。
沈黙の令嬢は、
氷の谷に残された微細な痕跡から、
その“見えざる者”の存在を見抜いていく。
【第9話 氷結の痕跡――辺境を脅かす者の正体】
氷狼王が谷へ落ち、周囲に再び静寂が訪れた。
だが、その空気は決して安堵とは呼べなかった。
むしろ、張り詰めた緊張だけが残っている。
ゼノは剣を収めると、深呼吸し、すぐに声を張り上げた。
「――油断するな。
氷狼王が単独で現れるなど、本来あり得ない」
兵士たちが頷きながら周囲を調べ始める。
エレノアも、その視線を谷の奥へ向けた。
(……この寒気。氷狼王一体で説明できるものではありませんわ)
まるで森全体が“誰かの魔力”で冷やされているかのようだった。
エレノアは、足元の雪をしゃがんで調べた。
「ゼノ様。ここ、雪の層が不自然です」
「不自然?」
「本来なら、魔物の体温で溶けた雪が再凍結して筋状になるはずなのですが……」
エレノアは雪を一つ掬い、指で砕く。
「これは自然の凍結ではなく、
“魔術による氷結”が複数回行われた痕跡ですわ」
「複数回……?」
「はい。氷狼王が来る前から、
ここ一帯は“誰かに冷やされていた”可能性があります」
兵士がざわつく。
「じゃあ……あの化け物を呼んだ奴がいるってことか?」
「氷属性の魔術師か……?」
「人間が魔物を操るなんて……そんな話……」
「静かに」
ゼノが手を上げると、兵士たちは一斉に黙り込んだ。
ゼノは、エレノアに続きを促す。
「……他に気づいたことは?」
エレノアは谷底を見つめた。
「氷狼王が落ちた場所、覚えておいてください」
「……まさか、這い上がるのか?」
「いえ。それはありませんわ。
ですが――遺骸を“誰かが回収しに来る”可能性があります」
兵士たちの顔色が変わる。
「な……なんでだ?」
「そんな危険を冒す理由が……?」
「魔物の死骸なんて重すぎるだろ……?」
「理由は一つ」
エレノアの声が静かに鋭くなる。
「――利用価値があるからです」
「利用……?」
「氷狼王の牙や核は、魔術材料としては極上です。
それを狙う者が、この辺境に潜んでいるのだとしたら──」
ゼノの目が細まった。
「……敵は、ただ魔物をけしかけただけじゃない。
“氷狼王を狩るための準備”をしていた可能性がある、ということか?」
「はい。
そして、この襲撃そのものが“試し”であったとしたら──」
エレノアは深く息を吸い、言葉を結ぶ。
「これは、“人為的な脅威”。
魔物以上に危険な、第三者の存在ですわ」
言い終えるや否や、谷の奥からかすかな“鈴の音”が響いた。
《チリン……》
兵士たちが、一斉に武器を構える。
「何だ!?」「敵か!?」
ゼノとエレノアは同時に音のする方向を見る。
白い靄の奥。
そこに、黒いローブを纏った“影”が一瞬だけ揺れた。
次の瞬間――
靄に溶けるように消えた。
「……今のは!」
「見間違いではありませんわ。
“人影”です」
ゼノの拳が硬く握られる。
「エレノア。お前の推測……ほぼ確定だな」
「……はい」
風が吹く。
気温が再び下がる。
その寒さは氷狼王のものではなく――
(誰かが、谷を“支配”しようとしている……?)
エレノアの背筋が震えた。
⸻
グレンヴィル城へ戻ると、兵士たちはすぐに報告作業へ入った。
ゼノはエレノアを自室へ呼ぶ。
「エレノア。今日の推測を、文書にまとめてくれ」
「……はい」
「お前の分析は、辺境を動かす価値がある」
エレノアの心が揺れた。
(わたくしの判断が……領地の決断に影響する……?)
王都では誰も求めてくれなかったこと。
誰も理解してくれなかった価値。
ゼノは続ける。
「この件は、軽視できない。
無名の魔術師の仕業か、あるいは……」
ゼノの声が低くなる。
「――“氷結の魔術”を得意とする隣国の影かもしれん」
(隣国……)
エレノアは頭の中で、国境地帯の地図を思い描いた。
「ゼノ様。
氷狼王が現れた谷……あそこは、国境警備が薄い場所ですわ」
「……っ」
ゼノの顔に、驚愕が浮かぶ。
「やはり、お前は気づいていたか」
「偶然ではありません。
あの場所が襲われた意味は、大きいはずです」
「……そうだな」
ゼノは深く息を吐き、決意の光を瞳に宿した。
「エレノア。
お前の力を借りたい。辺境が危機に瀕している。
俺一人で守れる規模ではないかもしれん」
「わたくしで……よければ」
その返事は、ためらいのない声だった。
(王都の誰にも認められなかった“わたし”が……
ここでは、誰かを守る力になる)
ゼノは静かに頷く。
「――ありがとう。
お前がいてくれて助かる」
その言葉は、エレノアの胸に深く沈み込んだ。
氷のような世界の中で、
初めて灯された“温かさ”。
だが、その灯りは同時に、
嵐の前触れでもあった。
⸻
谷に残された氷結の痕跡は、
ただの魔物の襲撃では説明がつかない。
そこには、術式の余波、意図的な冷却、
そして何者かの“監視”。
グレンヴィル辺境は今、
静かに迫る影に気づき始めたところである。
次に語られるのは――
その影に最初に接触する、危険な任務。
第10話
「国境の闇――術師の気配を追う者たち」




