Prologue ――沈黙の悪役令嬢
Prologue ――沈黙の悪役令嬢
その夜の舞踏会は、王国史に残る「茶番」として語り継がれることになる。
金糸で織られた天蓋の下、百を超える燭台がまばゆい光を放ち、楽団は祝宴のための軽やかな曲を奏でていた。
貴族たちは笑い、ワインは惜しみなく注がれ、誰もが――少なくとも、そう見えるように笑顔を作っていた。
大広間の中央、ひときわ視線を集める存在がいる。
公爵令嬢、エレノア・フォン・アウグスト。
金でも銀でもない、静かな月光を思わせるプラチナブロンドの髪。
淡い紫水晶のような瞳は伏せられ、扇子を持つ指先に至るまで欠点がない。
完璧。
それが、彼女に最もよく使われる形容だった。
「……あれが、アウグスト公爵家の令嬢か」
大広間の片隅、柱の陰からそれを眺める青年がいた。
黒髪に鋭い灰色の瞳、軍服を思わせる実用的な正装。胸元の紋章は、王都の者には馴染みの薄い意匠――北方辺境、グレンヴィル家の紋である。
ゼノ・フォン・グレンヴィル。
彼は、王都で囁かれる噂を思い出す。
『悪女』『野心家』『冷酷』『庶民嫌い』『嫉妬深い』
どの言葉も、目の前の令嬢とは、不思議なほど噛み合わない。
(悪役、ね……)
ゼノは、冷めた視線で笑うでもなく、ただ観察していた。
やがて、喧騒を裂くように楽団の音が止む。
人々の視線が、階段上の人物へと集まる。
王太子フレデリック・フォン・レーヴェンハルト。
その隣には、柔らかな栗色の髪を揺らす若い娘が寄り添っていた。
平民上がりの“真のヒロイン”と持てはやされる、アメリアだ。
「本日は、我が婚約者――エレノア・フォン・アウグストに関わる、大切な発表がある」
フレデリックの声に、大広間のざわめきが一段と強くなる。
エレノアは一歩、前に出た。
姿勢は完璧、顎の高さも、ドレスの裾さばきも、教本の挿絵かと思うほど整っている。
感情だけが、見えない。
「エレノア」
王太子は、わざとらしく息を吐き、悲劇の主役を演じるような顔をした。
「長年、そなたを婚約者として傍に置いてきた。
だが、私はようやく、真実の愛に目を開かされたのだ」
隣のアメリアが、困ったように視線を伏せる。
それが、周囲の同情を誘うことを、彼女はよく知っている。
「……真実の、愛」
エレノアは、小さく繰り返した。
その声音には、驚きも怒りもない。ただ、事実を確認するかのような静けさだけがあった。
「そうだ。お前は、財政を盾に庶民を搾取し、私の交友を妨げ、隣国との関係を危うくしかけた。
この書簡と帳簿が、その証だ!」
フレデリックが掲げた紙束を、周囲の貴族たちが遠巻きに覗き込む。
「税率の引き上げ……?」「隣国との密書?」「アメリア嬢への接近を禁ずる命令書……?」
ざわめき、囁き、憎悪と好奇心が複雑に混ざる。
エレノアは、一度も視線を落とさない。
自分の筆跡がそこにあることも、印璽が本物であることも知っているからだ。
(あれは……王太子殿下の浪費で空いた穴を塞ぐための増税案。
あれは、殿下の失言を帳消しにするための謝罪書簡。
あれは――アメリア嬢に近づいた危険な貴族を遠ざけるための命令)
真実は、誰も問わない。
問おうとすれば、王太子の失態を白日の下に晒さなければならない。
それは、彼女の矜持が許さなかった。
「エレノア様、本当なのですか……?」
アメリアが、震える声で呟く。
涙に濡れた瞳を向けられ、エレノアはゆっくりとその視線を受け止める。
「どうか、答えてください。私を憎んで、そのようなことを……?」
大広間の空気が、一つの答えを待って凍りつく。
ゼノは、無意識に息を呑んだ。
(さあ、どうする。――否定すればいい)
ただ一言、「違います」と告げればいい。
王太子の名誉を傷つけることを恐れず、真実を暴けばいい。
あるいは、涙を見せればいい。
この場にいる誰かが、彼女に同情する可能性もまだ残っている。
だが。
「……」
エレノアは、口を開かなかった。
ただ、瞼を一瞬だけ伏せる。
その一度の瞬きに、誰にも見えない葛藤が宿る。
彼女の中には、いくつもの「規則」があった。
――公の場で、王太子の言葉を否定しないこと。
――自らの行いに、言い訳をしないこと。
――他人の名誉のために、真実を暴かないこと。
その全てが、今この瞬間、彼女を縛っていた。
「何か、弁明は?」
フレデリックが、勝ち誇ったように問う。
エレノアはゆっくりと顔を上げ、凛とした声で答えた。
「……王太子殿下のご判断に、異を唱える立場にはございません」
静寂が、大広間を支配する。
それは、屈服の言葉ではなかった。
だが、多くの者には、そう聞こえただろう。
「やはり……」「本当に……」「最低だわ……」
囁きが、刃となってエレノアに突き刺さる。
それでも彼女は、微笑みすら崩さない。
その完璧さは、なおさら「悪女」の仮面を強固にした。
「エレノア・フォン・アウグスト。
この場をもって、私はお前との婚約を破棄する。
そして、アメリアを――新たな婚約者として迎える!」
歓声と拍手が、現実味のない音として響き渡る。
ゼノは、その光景をただ見つめていた。
誰もが、王太子と新たな“ヒロイン”に視線を向ける中、彼だけは違う。
彼の灰色の瞳は、ただ一人、沈黙の悪役令嬢を捉えていた。
(……滑稽だな)
彼女がどれほどの“仕事”をしてきたか。
王都の財政が、どれほど彼女の帳簿によって支えられてきたか。
北方への軍備予算が、どれだけ彼女の裁量で守られてきたか。
王都の連中は知らない。
知ろうともしない。
だが、辺境の人間は知っている。
グレンヴィル領の倉庫に残る、不自然な救援物資の記録。
帳簿の欄外に残された、癖のない端正な筆跡。
王都の都合では説明できない、いくつもの“配慮”。
(悪役……? 冗談だ)
ゼノは、かすかに唇を歪めた。
これほど徹底して自分を抑え込み、
誰かのために沈黙を選べる人間を――
(――本物の悪役は、そう簡単に沈黙なんてしない)
大広間の扉が、音を立てて閉まる。
拍手と歓声の中、エレノアは一礼し、静かにその場を去った。
誰も追い縋らない。
誰も、真実を問わない。
この夜、王都はひとりの“悪役令嬢”を追放した。
そして、まだ誰も知らない。
それがいずれ――この国にとって、どれほど致命的な損失だったのかを。
ゼノは、背を向けて歩き出す。
「……王都の腐った水に、飲み込まれたか」
独りごちたその声は、誰にも届かない。
ただひとつ、彼は心に決めていた。
近く、北方辺境へ戻る。
その道の先に、追放された“悪役令嬢”が現れるのなら――
(そのときは、王都とは違う名で迎えてやろう)
悪女でも、野心家でもない。
沈黙に自分を閉じ込めた、ひとりの誇り高き女として。
それが、ゼノ・フォン・グレンヴィルと、
エレノア・フォン・アウグストの物語の、始まりだった。




