月無き闇夜の剣戟
魔界城第四階の広間は、戦いの残響が冷たく漂う死の舞台だった。
石壁には炎と剣の傷が刻まれ、床には灰と血が混じる。
カインの勝利の報が、僅かな希望の光を灯した瞬間、絶望の影が再び忍び寄った。
「カインが勝った。良かった。」
「あの野郎、やってくれたぜ!」
ラベスタとエスタが、壁の巨大な穴から王都の荒野を見下ろした。
ラベスタの無表情な声とは裏腹に、エスタは拳を握り、瞳に喜びを宿す。
二人の報告に、マルジェラ、ダルマイン、サイゾー、クマシスが胸を撫で下ろした。
広間に一瞬、仲間たちの絆が温かな風を吹かせた。
だが、魔族の戦闘員たちは希望を失った。
「そんな…ジェイドさんまでやられちまったよ…。」
「やべえよこいつら…強すぎるよ…。」
彼らの声は、折れた刃の如く弱々しく、戦意は風に散る灰と化した。
ダルマインはそんな魔族たちを指差し、哄笑を響かせた。
「ぎゃっはっはー!見たかコラァ!降伏しろ!そして俺様の家来になりやがれ!」
舌を出し、挑発する彼の姿は、まるで戦場の道化師だった。
ラーミアの治療を受けるロゼ、ノヴァ、エラルドも意識を取り戻しつつあり、戦線復帰の時が近づいていた。
魔法戦士達の士気は高まり、勝利の予感が広間を満たした。
だが、その希望は一瞬にして凍りついた。
冥花軍最高司令官、ベルッティ・ルキフェル。
ルキフェル閣下が、突如広間に姿を現したのだ。
彼の冷たい眼差しは、まるで死神の宣告だった。
広間を一瞥するだけで、空気が鉛のように重くなり、戦士たちの鼓動が止まりそうになる。
味方の魔族すら、ルキフェル閣下の気配に怯え、膝を震わせた。
「お前は…ルキフェル!?」
マルジェラは憔悴しきった身体を奮い立たせ、剣を抜いた。
その瞳には、疲労と決意が交錯する。
ラベスタ、エスタ、サイゾーも剣を握り、ルキフェル閣下に対峙した。
だが、クマシスとダルマインは瓦礫の影に隠れ、亀の如く縮こまり、恐怖に震えた。
「絶対無敵を誇る我が冥花軍が私を除いて全滅とは…申し訳ありません、少々あなた方をみくびっていました。」
ルキフェル閣下の声は、氷のように冷たく、淡々と響いた。
だが、その言葉の裏に潜む殺気は、まるで無数の刃が宙を舞うようだった。
マルジェラたちは冷や汗を抑えきれず、生唾を飲み込み、彼を注視した。
ルキフェル閣下がゆっくりと剣を抜く。
その一瞬、広間は死の静寂に包まれた。
「ここまでの長旅、大変お疲れ様でございました。あなた方にはここで死んで頂きます。しかし御安心下さい、あなた方の健闘は私が語り継ぐとお約束致します。どうか…お覚悟を…!」
ルキフェル閣下の闘気は、まるで黒い嵐だった。
ラベスタとエスタは膝をつき、へたり込んだ。
マルジェラも、立っているのがやっとだった。
彼の強さは、冥花軍の中でも別格。
肌で感じる圧倒的な死の予感に、皆の心は呑まれた。言葉には出さずとも、本能が叫んだ。
「殺される。あっという間に。」
ルキフェル閣下が剣を振り上げ、マルジェラたちに斬りかかろうとした刹那、新たな殺気が広間を貫いた。
それは、ルキフェル閣下の闘気とは異なる、鋭く、意志を持った波動だった。
空気が震え、戦士たちの骨が軋む。
ナカタムの戦士も魔族も、立つことすらできず、気絶する者まで現れた。
カツン、カツン。
第五階への階段から、足音が響く。
その音は、まるで運命の鼓動だった。
ルキフェル閣下に匹敵する殺気を放つ者が、ゆっくりと姿を現した。
「久方ぶりだね、閣下殿。首を洗って待っていたかい?」
イヴァンカだった。
彼の声は、冷たく、だがどこか挑発的な響きを帯びていた。
ルキフェル閣下が振り返る。
「お久しぶりですね、イヴァンカさん。首を長くしてお待ちしていましたよ。」
ルキフェル閣下の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
剣戟で自身を愉しませる稀有な存在を前に、彼の心は躍った。
イヴァンカは、ルキフェル閣下にとって、唯一無二の好敵手だった。
「イヴァンカ…!」
マルジェラの声には、苛立ちが滲む。
エスタは舌打ちし、「チッ…。」と呟いた。
他の戦士たちも同じだった。
イヴァンカは、かつてユドラ帝国の尖兵としてナカタム王国と敵対した宿敵。
ユドラ帝国との決戦から二年経っても、その因縁は冷めていなかった。
彼に窮地を救われた事実は、戦士たちの誇りを傷つけ、複雑な感情を掻き立てた。
ルキフェル閣下は、手負いのマルジェラたちでは到底敵わぬ存在だった。
この場をイヴァンカに委ねる以外、選択肢はなかった。
「退がれ、ここは君達如きが出る幕ではない。閣下殿は私が始末する。君達はどこへなりと消えてくれないか?死にたくなければ、くれぐれも私の邪魔だてはしないでくれよ。」
イヴァンカの傲慢な言葉に、ラベスタが無表情で呟く。
「何を偉そうに…。」
マルジェラは唇を噛み、渋々頷いた。
「…いいだろう。イヴァンカ、ここはお前の顔を立ててやる。俺達もこんなところにいつまでも留まっているわけにもいかないしな。お前ら、上階へ…エンディの援護に向かうぞ!」
彼は先陣を切り、第五階への階段を駆け上がった。
ラベスタ、エスタ、サイゾーが続く。
ラーミアはロゼ、ノヴァ、エラルドの治療を一時中断し、ダルマイン、サイゾー、クマシスに担がれた三人も階段を上った。
「あばよ!イケメン同士勝手に殺し合っててくれ!」
ダルマインが振り返り、大声で叫ぶ。
その軽薄な声が、緊迫した空気を一瞬和らげた。
サイゾーは階段を駆け上がりながら、感慨深く呟いた。
「カインとジェイド…イヴァンカとルキフェル…イケメン同士の対決がこうも続くとはな。」
ルキフェル閣下が嘲笑を浮かべ、口を開く。
「エンディさんの援護ですか…果たしてそう都合よく事が運びますでしょうか。最上階へと辿り着くには、5階を通過しなければなりません。5階には精鋭の戦士達がザッと2万体近くいます。手負いの彼らでは、少々厳しい戦いになるかと思いますけどね。」
イヴァンカはそれを聞き、薄く笑った。
「閣下殿、つい先程まで、誰が5階に居たと思っているんだ?私は君に会うために、わざわざ5階からこの4階までおりてきたんだよ。」
ルキフェル閣下の目が鋭く光る。
イヴァンカの言葉の意味を瞬時に悟った。
「確かに上階には大量の魔族どもが跋扈していたね。あまりにも目障りだったもので、ここへ来る前に全員殺しておいたよ。すまないね閣下殿、自慢の魔界城とやらを愚か者どもの遺骸で汚してしまって。」
イヴァンカの余裕ある言葉に、ルキフェル閣下は感嘆の息を漏らした。
「なるほど…やはり貴方は、恐ろしくお強いですね。エンディさんと同じく、貴方は大王様にとって脅威となり得る存在です。私が直々に、確実に消す必要がありますね。」
イヴァンカの表情が歪む。エンディと同等と見なされたことに、烈しい憤りが滲んだ。
「今宵は月が汚いね。」
城内では外の景色は見えず、ヴェルヴァルト冥府卿の闇に覆われた世界に月は存在しない。
それでも、イヴァンカの言葉は詩のように響いた。
ルキフェル閣下が首を傾げる。
「イヴァンカさん…お気を確かに。世界中のどこを見渡しても、月などありませんよ。そもそも、月に綺麗も汚いもあるのですか?」
「全く…風情の無い男だね。閣下殿は乏しい感性をお持ちのようだ。」
「…どういう意味でしょうか?」
「今のはね、"君を殺したい"という意味だよ。」
「随分と遠回しな言い方をなさるんですね。御言葉ですが、意味も大きく履き違えているかと。」
二人はほくそ笑み、互いの瞳を鋭く捉えた。
剣を握る手が微かに震え、一触即発の緊張が広間を支配した。
ルキフェル閣下の剣先が月光の如く輝き、イヴァンカの刃が闇を切り裂く準備を整える。
二人の殺気が交錯し、まるで嵐の前触れだった。




