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輪廻の風  作者: 夢氷 城
最終章
129/158

絶望の淵を貫く心の刃


魔界城第四階の広間は、絶望の深淵と化していた。



キリアンの忘却の呪縛は、ナカタムの戦士たちの魂を無慈悲に侵食していた。


マルジェラ、ラベスタ、エスタ、モエーネ、ジェシカ。


彼らは己の戦う理由を、共に笑い合った仲間の顔を、己の名を、そして四肢の動かし方すら忘れ去った。


目を見開き、目の前の光景をただ疑問に感じ、彫像の如く立ち尽くす以外、何もできなかった。


奇妙にも、呼吸だけは本能の糸に導かれ、かすかに続いていた。


忘却とはかくも残酷なものだった。


彼らの記憶は、まるで砂漠に消える水の如く、跡形もなく溶け去った。


つい先刻まで共に苦楽を分かち合った絆も、戦場の血と汗も、すべてが虚無の彼方へ。


極めつけに、己が何者であるかという核心すら奪われ、彼らはただ茫然と、存在の淵に漂う亡魂のようだった。


だが、キリアンの毒の渦に最も遅く呑まれたサイゾーは、なお辛うじて己の存在を薄らと保っていた。


敵を前に剣を振るうべきだと心は叫ぶも、四肢の動かし方を忘れ、身体は石と化した。


キリアンのニタリとした嘲笑の眼差しに、怒りが煮え滾る。


だが、声を発する方法すら失い、行き場のない憤怒は胸を焼き尽くした。


己の無力さを呪い、惨めさに魂が軋んだ。


「イヒヒヒヒッ!お前らよく頑張ったな!褒めて遣わすぞ!だが、お前らの快進撃はこれにて終わりだ!安心しろ…痛みも苦しみも感じる間もなく、お前らの肉体を掻き消してやる!」


キリアンは両手を翳し、闇の深淵から引きずり出したかの如き黒い球体を出現させた。


その威力は、マルジェラたちを一息に葬るに十分だった。


サイゾーはキリアンの言葉を一言一句理解し、絶望の深さを噛み締めた。


だが、マルジェラたちは言語すら忘れ、キリアンの宣告を風の囁きのように聞き流していた。


彼らの目は虚ろで、魂はすでに遠くへ旅立ったかのようだった。


「さあ…安らかに眠れ!」

キリアンが酷薄な笑みを浮かべ、黒い球体を放とうとしたその刹那、運命の歯車が逆転した。


「うおりゃああああああっ!!」


背後から轟く絶叫。

キリアンは突進してくる気配に驚愕し、くるりと首を振り返らせた。


そこにいたのはダルマインだった。


全身は冷や汗に濡れ、恐怖で顔は歪み、だがその目は決意の炎を宿していた。


己を鼓舞するように大口を開け、絶叫しながらキリアンに突進し、巨躯から繰り出される強烈なタックルを叩き込んだ。


キリアンはよろけただけで大した傷は負わなかったが、黒い球体は不発に終わり、マルジェラたちは命を繋いだ。


キリアンは即座に体勢を整え、憤怒の表情でダルマインの髪を掴んだ。


「貴様あ…舐めた真似を!いつからそこに居た…小物すぎて気配すら感じなかったぞ!」


「ぎゃおおおっ!お助けを!靴でも何でも舐めますから!どうかお許しください!」

ダルマインは大泣きしながら懇願したが、瞬く間にキリアンの忘却の毒に呑まれ、「あれ…?俺様は…誰だ!?」と呟いた。


キリアンは怒りに我を忘れ、背後から迫るもう一人の影に気づかなかった。

その男、クマシスだった。


「わああああーー!」


クマシスは絶叫し、剣を両手で力一杯握り、キリアンの背中を大振りな一撃で斬りつけた。


キリアンは呻き声を上げ、片膝をついた。


サイゾーはクマシスの突然の出現に瞳孔を見開いた。


クマシスは、四千のナカタム軍に紛れ、魔界城に突撃していた。


人知れずサイゾーの後を追い、戦いを避け、隠れながら謝罪の機会を窺っていた。


そしてこの絶体絶命の瞬間、意を決して駆けつけたのだ。


「サイゾーさん!あの時逃げてごめん!見捨ててごめん!本当はこんな恐ろしい場所に来たくなかった…!だって怖いもん!世界が魔族達に支配されるなら、俺は喜んで魔族側に寝返る!だって命惜しいもん!死にたくないもん!でも…来ちゃった!どうしてもあの時のこと謝りたくて…来ちゃったよ!これで俺が殺されたらお前のせいだぞ馬鹿野郎ーー!!」


クマシスは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、心の叫びを撒き散らした。


サイゾーは呆れつつも、かつて自分を見捨てた男が戻ってきたことに胸が熱くなった。


「貴様…許さん!絶対に許さん!」

キリアンは怒り狂い、クマシスの首を絞めようと右腕を振り上げた。


だが、クマシスが「うわああ!」と怯えながら剣を振り回し、それが命中。


キリアンは胸から腹にかけて深い斬り傷を負った。


「うわああぁっ!何故だ!貴様、何故剣を振れる!?貴様も既に、俺の術中だろ!?」

キリアンは血を抑えながら、剣の扱いを忘れていないクマシスに驚愕した。


「さっきからずっと一部始終を見聞きしていた…花言葉は"忘却"だって?早い話、その能力は脳内からさまざまな記憶を抹消させることだよな?悪いが俺には効かない…!」


「効かないだと!?あり得ない!貴様何をした!?」

キリアンは自慢の能力が通用しない現実に困惑した。


「脳が何かを忘れてもな…心が全てを覚えているんだよ!よく聞け!俺はな…心がガラス細工のように繊細なんだ!それ故、人一倍心が敏感なんだ!だから心で思ったこと感じたことを自然と声に出しちゃうんだ!つまり俺は…繊細さとクレバーさと臆病さが上手いこと混じり合い、心を体外へと剥き出しにさせながら服着て歩いているような人間なんだ!お前如きの能力で忘れられることなど…何も無い!!」


クマシスの言葉は、魂の咆哮だった。

キリアンは初めて出会った天敵に絶句し、対処法を見失った。


その隙を突き、クマシスは大振りの剣技を炸裂させ、キリアンにトドメの一撃を浴せた。


キリアンは怯えた表情のまま絶命した。


キリアンの死と共に、忘却の呪縛は瞬時に解け、マルジェラたちは我に返った。

記憶が洪水の如く戻り、先刻の悪夢が嘘のように消え去った。


「いくら脳から記憶が奪われても…心のシャッターで映したメモリーは永久保存されるんだよ!分かったか!」

クマシスは得意げに決め台詞を放った。


魔界城第四階の戦いは、クマシスの勝利で幕を閉じた。


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