心が壊れた獣の矜持
魔界城三階は、血と木々が織りなす殺戮の森だった。
木の天生士アズバールの支配下で、床から生い茂る無数の木々が、蛇の如く蠢き、魔族を串刺しにした。
だが、その中心で、イル・ピケは戸惑っていた。
彼女の能力。
首に刻まれたゼラニウムの「憂鬱」が醸す陰鬱なオーラは、敵の心を蝕み、自壊へと導く。
並の人間なら瞬時に自害し、マルジェラでさえ一瞬自死を試みた。
なのに、アズバールの心は壊れなかった。
「おかしい…どうして…?」
イル・ピケの呟きは、動揺を隠せなかった。
木々の槍が縦横無尽に襲い、イル・ピケは闇の破壊光線で防ぎ、守勢に徹した。
だが、アズバールの飄々とした殺意に、彼女の瞳は鳩が豆鉄砲を食ったように揺れた。
「ククク…なんだよさっきから?何か腑に落ちねえ事でもあるのか?」
アズバールの声は、獣の低咆だった。
彼はイル・ピケの能力を知らず、ただその動揺を嗅ぎ取り、ニヤリと笑った。
「私の首に刻まれた…真紅の花の名は…"ゼラニウム"…花言葉は…"憂鬱"…。私の間合いに入った全ての者は…私が醸し出す陰鬱なオーラに感化され…心を蝕まれ…ゆっくり自壊していく…。並の人間なら…すぐに影響が出て…自ら命を絶つ…。一瞬ではあるけど…あのマルジェラでさえ…自害を試みようとしていた…。なのに…どうして…貴方の心は…壊れないの…!?どうして…私に…向かって…これれるの…!?」
イル・ピケは感情を抑えきれず、能力を暴露した。
彼女の声は、蛇の舌が震えるような切迫感に満ちていた。
アズバールは一瞬驚き、目を細めたが、すぐに酷薄な笑みを浮かべた。
「ククク…なるほどな、そういうことか…合点がいったぜ。どうやらてめえのその能力、俺とは相性が悪すぎるようだな。」
「どういう…意味…?」
イル・ピケはゴクリと唾を飲み、息を詰めた。
「クククッ」と、アズバールは冷酷非道な笑い声を上げ、「てめえがわざわざ手を下さなくても、俺の心はとっくに憂鬱で支配されてんだよ。」
イル・ピケは呆然とし、瞳孔が開いた。
「俺の心はとっくに壊れてるって言ってんだよ。だからてめえがいくら憂鬱なオーラを俺に放とうと無意味。破れた太鼓を叩いたって、音は出ねえだろ?」
アズバールの言葉は、凍てつく刃の如く突き刺さった。
「うそ…そんな馬鹿な話が…ある筈がない…!だって貴方…全然憂鬱を…感じているように…見えない…!心が壊れている人間が…戦闘なんて…出来る筈が…ない…!」
イル・ピケの声は震え、否定の叫びだった。
「出来るさ。俺は俺の前に立ちはだかる連中を皆殺しにし、暴力で支配した世界を創りてえんだ。そして…その死臭に満ちた血生臭い世界で死にてぇんだよ。」アズバールの瞳は、狂気の深淵を湛えていた。
初めて、彼は秘めた本心を吐露した。
なぜイル・ピケに?
彼自身、答えを知らなかった。
ハッと我に返り、己の言葉に戸惑ったが、言葉は止まらなかった。
「まさか…死ぬ為に…戦ってるって…言うの…?」
イル・ピケの目は、驚愕と好奇で揺れた。
「ああ、その通りだ。魔法大戦真っ只中の混乱期に生を受けた俺にとって、この世は産まれ堕ちた瞬間から地獄だった。周りは敵だらけ…味方なんざ一人だって居やしねえ。ガキの頃から凄惨な地獄を生き抜いてきたんだ、尊厳を破壊されて心を失うのに、そう時間はかからなかったぜ?こんな世界で生きていく意味なんて無えんだよ。俺はずっと死に場所を探しながら今日まで生きてきた。」
アズバールの声は、静かな絶望に満ちていた。
彼はイル・ピケを凝視し、なおも語った。
「だが、自ら命を絶つのはどうも嫌でな…そんなダセェ真似は死んでもしたくなかった。かと言って、長いものに巻かれるのも、権力に媚びながら生きるもの死んでも御免だ。だってそうだろ?そんなもん、生きてんだか死んでんだか分かったもんじゃねえからな。」
「とどのつまり…何が…言いたい…の…?」
イル・ピケは、引き込まれるように尋ねた。
彼女の心は、アズバールの闇に絡め取られていた。
「だから俺は…俺を見下す奴、俺を支配しようとする奴らを片っ端からぶっ殺して生きていこうと決めたんだ。その狂気が渦巻く流れに身を委ね、戦いに生き、戦いの中で死にてえんだよ。どうせ死ぬなら、生きた証くれえは残してえだろ?同族だろうがなかろうが…てめえら魔族も関係ねえ。俺に味方はいねえ。全てが敵だ。どいつもこいつも例外なく殺してやりてえんだよ。」
アズバールの言葉は、血と死臭に塗れた獣の咆哮だった。
6年前の魔法大戦でのマルジェラへの敗北、2年前のエンディとモスキーノ、ウィンザーとイヴァンカへの屈辱の敗北。
全てが彼の死への渇望を深めた。
あの時、死ねなかった己を恥じ、今の魔族との戦いはまさに理想の死に場所だった。
イル・ピケは、禁断のときめきを感じた。
自身を遥かに超える陰鬱な男、その壊れた魂に、初めて心が揺れた。
だが、彼女はヴェルヴァルト冥府卿の腹心。
敵を前に、戦意を取り戻した。
「私の能力が…効かないのなら…この闇の力で…真っ当に消すまで…!」
メラメラと炎の如く闇の魔力が彼女を包み、切ない決意が殺気を帯びた。
アズバールも応じた。
「ククク…すげえじゃねえか。まだそんな力を残していやがったのか。」
不敵な笑みを浮かべ、戦いを終わらせようと決めた。
「隔世憑依 精霊の宿木」
アズバールが唱えると、イル・ピケの眼前に一本の大木が生えた。
高さ10メートル、神聖なオーラを纏うその木は、森の精霊の化身の如く美しく神秘的だった。
イル・ピケは心を奪われ、魅入った。
「ククク…見惚れてる場合じゃねえぞ?」
アズバールの冷淡な声で我に返った彼女は、再び木を見た。
だが、その美しさは一変していた。
無数の人間の顔が、浮き彫りの如く木に現れ、断末魔の金切り声を上げ、苦悶に歪んだ。
「なによ…これ…?」
「ククク…こいつらのツラ、見覚えねえか?よーく目を凝らして見てみろよ。」
イル・ピケは凝視したが、見覚えのない顔ばかり。
騒々しい叫びに、耳を塞ぎたくなった。
「ククク…お前、罪深い女だな。てめえが殺した連中のツラくらい覚えておけよ。俺も今まで星の数ほど気に食わねえ奴らを殺してきたが…そいつらの顔も命日も、全部覚えてるぜ?」
アズバールの言葉に、イル・ピケは戦慄した。
木に宿る顔は、彼女が殺した者たちの怨霊だった。
アズバールの隔世憑依は、力の増幅ではなく、敵の罪を映す恐怖の大木を召喚する。
怨霊が宿り、対象の生力を吸い尽くす。
「あ…あ…あ…。」
イル・ピケは怯え、血の気が引いた。
「ククク…人は善行では語られねえ。人は…悪行をもって語られるんだ。何人たりとも、自らが犯した業からは逃げられねえぜ?」
アズバールの冷酷な言葉と共に、怨霊の顔が木から伸び、イル・ピケに襲いかかった。
「うぎゃあああっ!や、やめてぇ!」
彼女の絶叫が響いた。
無数の顔が彼女に噛みつき、生力を吸い取った。
抵抗を試みたが、身体は動かなかった。
「ククク…無駄な抵抗はやめろよ。そいつらはてめえの生力を吸収してんだ…そうすることでこいつらはようやく成仏する。こいつらが成仏して消える時は…てめえの命が消える時だぜ?」
アズバールの勝ち誇った笑みと共に、神木と怨霊は消滅した。
イル・ピケは仰向けに倒れ、風前の灯火だった。
イル・ピケは、寂しげな瞳でアズバールを見つめた。
「私…何のために…生きて…きたん…だろう…?」
涙を溜め、自問した。
アズバールは鼻で笑い、静観した。
「ククク…愚問だな。自分の存在意義なんざ模索するべきじゃねえ。そんな事いくら考えたって、永遠に答えは見つからねえからな。本当はどいつもこいつも気付いてんのさ…自分の存在もこの世も無価値だって事に。気付いていながら、気づかねえフリをしてやがるんだ。だから弱え奴等は、幸福なんていう頓狂な偶像を崇め、生にしがみついて生きる他道が無えんだよ。」
しばらく沈黙が流れ、アズバールは続けた。
「汚ねえ欲の皮が突っ張った生物が万物の霊長として君臨しているこんな世の中で、生きる意味とか価値を見出すことなんざ、土台が無理な話なんだ。汚ねえ世界で醜く生きるしかねえんだよ。でもよ…だったら、死に様くれえは自分が思う理想の形を選びてえだろ?これは人間に与えられた唯一の特権だぜ?」
狂気じみた瞳で語る彼の言葉は、イル・ピケの心に響いた。
彼女の瞳は、死に瀕しながらキラキラと輝いた。
「うふふ…初めて…好きになった…男が…私を殺した男だなんて…酷な…話ね…。どうせ…奪う…なら…命だけに…して…欲しかった…わ…。ねえ…寒くなって…きた…抱きしめてよ…?」
イル・ピケの懇願に、アズバールは微動だにしなかった。
「うふふ…馬鹿ね…冗談…よ。じゃあ…せめて…手くらい…握ってよ…お願い…。」
彼女は最期の力で右腕を上げようとしたが、パタリと床に落ちた。
安らかな表情で息絶えた。
アズバールは、胸に一瞬「何か」が芽生えるのを感じた。
だが、その正体が遥か昔に失った「情」である事に気が付かなかった。
「ククク…じゃあな。いつかまた…地獄で会おうぜ。」
背を向け、呟き、その場を去った。
イル・ピケの亡骸は、静かな森に横たわった。
魔界城三階の戦い、勝者アズバール。




