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稲垣くんの家は三世帯住宅にするために、最近増築したばかりのものらしい。庭なのか、駐車場なのかわからない広いスペースには、ノートの特徴とそっくりの猫がいた。ひょっとしたらと思っていたら、稲垣くんがあの公園の猫だと教えてくれた。
稲垣くんの車は昨日と同じワゴン車で、快く母ごと乗せていってくれた。お邪魔しますと声をかけると、稲垣くんのお母さんが出迎え、別の猫も現れ、稲垣くんの兄弟も続々と出迎えてくれた。母の言った「稲垣さん家なら大丈夫」の真の意味はこのことかと驚いた。稲垣家はかなりの大家族だった。
広間に通され、稲垣一族と六匹の猫の紹介もされたあと、稲垣くんの二番目の妹に車いすを押されて、おばあさんが登場した。化粧をした、綺麗なおばあさまだった。グレーの髪もきっちりと整えられている。着ているワンピースは鮮やかな藍色の大胆な幾何学模様で、よく似合っている。父が絵に描きたくなった理由もわかる気がした。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「座ったままで、ごめんなさいね」
昨日の稲垣くんの言葉で身構えていたが、穏やかな物腰のご婦人だ。
「お父様、大変でしたね。心よりお悔やみ申し上げます。それと、栄汰は失礼をしてはいなかったかしら?」
「とんでもないです。大変助かりました」
「たいしたお構いはできませんが、ゆっくりなさってください」
やはり母も私も緊張した。お茶やお菓子が目の前に出されて、「ごゆっくり」という圧もあるような。気にしすぎだろうか。
「千鶴さんはおばあちゃんの部屋の絵を見に来たんだよ」
稲垣くんの助け舟に乗って、また頭を下げる。
「情けない話なのですが、私は父の絵をちゃんと見たことがありません。栄汰さんが父の絵を買ってくださったことも昨日知りました。もう遅いのですが、父のことを少しでも知りたいんです」
私は父を見ようとしなかった。生きていたなら、歩み寄れたのに。いつかどうにかなると後回しにした。くだらない話も疑問も何も伝えられなかった。父を喪ってから、何もできなかった自分が許せない。後悔は残り続けるとしても、もう遅いとしても、父が愛したものを知りたいと思ったのは本当だ。
「どうか、頭をお上げください。絵はいくらでも見られますから」
広間のある一階におばあさんの部屋はあった。介護用のベッドが中央にあり、ベッドにいても使えるテーブルも設置されている。一見病室のようだが、部屋の隅にはレトロな化粧台と年代物の箪笥が置かれていた。
そして、ベッドから見えるように、壁には父の絵があった。「散らぬ桜」だ。
金色のラインが入った黒い額に収められた絵は名画のような風格がある。太い桜の木の下に佇む女性は鼻先しか見えないのに、シルエットでおばあさんの特徴を捉えている。肌寒い朝の風景に飛んでいく花びらは光の粒のようで、神聖なもののようだ。流れる風と桜が散る光景を閉じ込めたかったのだろうか。美しいと思う。父も美しいと思って、頭に焼き付けたのだろう。
父がバツを付けなかった作品で、ついに見た父の完成品だ。父の魂がそこにあるように思えた。父は描かれていないけれど、父はそのときそこにいて、桜とおばあさんを見て、それから何時間もキャンバスを見つめていたことになる。絵にも、私が見ようとしなかった時間が凝縮されていた。自然と筆致に触れようとして、手を止めた。
「油絵って触れたくなりますよね。触っちゃいけないんだろうけど、絵の具が盛り上がったところとか。質感というか」
稲垣くんの言葉に頷く。生きて、触れていた画面すら愛おしくなる。
「これが五百円だと、納得いかないでしょ」
「君がそれで買い取ったくせに」
「おじさんが好きで描いたもんだからって、譲らなかったんです。でも、代わりに娘さんへの愚痴とか聞いてたんですよ。文句があるなら、直接会いに行けばいいって言ったのに……」
「二人とも、本当に不器用よね」
母がスマホで絵の写真を撮りながら、言った。
「どちらかが踏み出せば、ちょっとは距離も縮まった。……チヅは全部自分が悪いって思っているみたいだけど、お父さんも悪いところはあるのよ。絵描きなら、娘の絵を描きに行くくらいの嫌がらせをしたらよかったと思うわ」
「私の部屋で油絵を描き始めるってこと?」
「そう」
「臭くて、泣いちゃう……」
でしょうねと母は笑った。やっと、私もくだらなくて笑えた。
「それでも……」
一呼吸おいて、改めておばあさんに向き直る。
「あのお金は父が生きているうちにもらうべきものでした。失礼は承知ですが、お返しいたします」
今度は私からおばあさんに封筒を手渡した。このお金はいただけないというのが、私の出した結論だ。父を認めてくれていたからこそ、父の意思を尊重したい。
「嫌だといったら?」
「え?」
「私をモデルにした絵がワンコインだなんて、屈辱的だと思わないのかしら?」
私を見つめる眼光の鋭さは虎のようだ。
「いえ、そんなつもりでは……」
「私の目の黒いうちは受け取りません」
ぴしゃりと言いきられて、先ほどまで足にすり寄っていた猫にも威嚇された。稲垣家のボスはおばあさまで間違いない。
「大丈夫ですよ、そんなに待たなくても」
「エイタ!」
これから二十年、いや五十年はお元気そうなおばあさまと別れ、稲垣くんの家を後にした。