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その年の桜が散って、葉の青い匂いがする季節。気持ちの良い昼下がり、オレは人生に悩んでいたんです。
素直に実家の酒屋を継ぐか、ロック歌手を目指すか。人生は一度きりだというし、後悔はしたくない。でも、オレは酒屋で一生を終えるより、イギリスで酒枯れしたシャウトを響かせ、女に裏切られ、スパイに追われてみたかった。子供っぽいとわかっていても、若いうちにしかできないだろうなと考えては、町をぐるぐると歩き回っていた。似たような家ばかりだが、ここで生まれ育ったので道にも迷わず、ただこの先の人生だけ見えなかった。
公園を通り過ぎるのが三回目に差しかかったころ、公園のベンチに腰掛けて絵を描くおじさんがいることに気付いた。考えてみると、一周目ですでにいたような気がしたのだが、構わずオレは歩きだした。四周目にもおじさんは座っていた。もはや、身体は曲がる角を覚えて、無意識に行ったり来たりできるようになった六周目にもおじさんはいた。変わるのはおじさんの影の長さくらいだった。日時計のようなおじさんに負けたくなくて、夕日が沈むまでオレも歩き続けた。
結局、おじさんは最後まで絵を描いていた。サウナの我慢比べに負けた気分で、オレは自販機の缶ジュースを二本買って、おじさんの隣に腰かけた。
「どうぞ」
おじさんは驚いた様子でオレからジュースを受け取った。
「ありがとう」
不器用そうな笑みを作り、おじさんは缶を開けた。オレものどを潤し、話しを続けた。
「描けました?」
「まだ終わらないんだ」
「油絵で風景画なんて、恰好いいっすね」
おじさんのキャンバスにはピンク色と白と薄い青が塗られていた。
「桜ですか?」
「もう散ってしまったけどね」
「花がなくても、描けるんですね」
「枝ぶりは今もそんなに変わらないし、頭にはあるんだよ。でも、どんどん記憶は曖昧になるから、早く描かないといけない」
公園には立派な桜の木がある。花見の時期には大勢の人が訪れ、小さな公園も賑わいを見せる。だが、おじさんの絵には一人しか描かれていない。腰を曲げた老婆だ。空は淡く青みがかって、綺麗なグラデーションを作っている。
「これ、早朝じゃないっすか?」
「よくわかったね」
人がいない時間に見る桜が好きなのだとおじさんは言う。
「ばあちゃんもそうなんですよ」
老婆は腰を曲げ、二匹の猫に手を伸ばしている。えさをやろうとしているのか、触れようとしているのかはわからない。そういえば、首に巻かれた黒地に赤い大きな薔薇のストールに見覚えがある。
「これ、うちのばあちゃんかもしれない」
「稲垣酒店のおばあちゃんだったかな」
「そうです、それ、うちのばあちゃんです! 敬老の日にオレがこのストールをあげたんです!」
おじさんはまた驚いた様子で「すごいな」と呟いた。オレもすごい運命を感じた。
「元気にされてるかい?」
「それが……」
「最近、姿を見てなかったな。そうか、お気の毒に」
おじさんは目を伏せ、手にしたジュースに視線を落とした。
「この絵のばあちゃん、元気そうですね」
「ああ、君みたいによく散歩をしてらっしゃったよ。あの日も穏やかに猫とお花見をしていらしたんじゃないかな」
それを聞いて、俺の口は自然に動いていた。
「オレにこの絵を売ってくれませんか?」
「え?」
おじさんはジュースを渡したときより、目を見開いていた。そんなにおかしいことを言ったのだろうか。
「買わせてください。家に飾ります!」
おじさんの目がわかりやすく泳いでいた。
「まだ、できてもいないのに」
消え入りそうな声だった。
「じゃあ、完成したら稲垣酒店に持ってきてください。ばあちゃんもきっと喜びます!」
絵を買う約束をして、おじさんと別れました。
その約束があったから、オレは酒屋にいられたんだと思います。まあ、英語の勉強もしてませんでしたし。




