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電車で二時間半。遠くないが、近くもないような距離に実家がある。金曜日の夜から行こうかと思っていたけれど、結局自分のマンションに帰って寝て、翌日の土曜日に実家へ向かった。午前中は電車も空いていて、静かな車内でぼんやり外を見ていた。ビルはあっという間になくなり、狭い道路と低い住宅が目についた。都会は灰色で、田舎は茶色いかんじがする。水のない田んぼの間隔が切れ目なく続いていく。見慣れた風景が乗り換えたターミナル駅と地続きだということが不思議に思えてくる。
家の鍵は開いていて、引き戸を開けるとすでに誰かの靴があった。父のものではない。サイズは大きいので、男性のものだろう。蛍光イエローのラインの入ったハイカットスニーカーを履く人。弔問客としては若い趣味だった。マナーはよくわからないが、よく目立つ履き物だ。控えめに、「ただいま」と口にした。
「あら、おかえり」
母はお盆を持って、父の祭壇の部屋に向かうところのようだった。
「お客さん?」
「そう、稲垣さんとこの息子さん」
名前を聞いても、ピンとこなかった。
「若い人?」
スニーカーに目を向けたので、母もうんと頷いた。
「二十四歳だって」
私より八歳年下だ。父の知り合いにしては若すぎる。勤めていた会社の人だろうか。母がお菓子とお茶をお盆に乗せて、部屋に入るときに私も後ろをついていった。
最初に明るい茶髪の後ろ姿が目に入った。襟足が長い。会社の人ではなさそうだ。手を合わせて、首を下に向け何やら念じているようにも見える。動作は慣れていないようだけれど、父を思ってくれていることは十分に伝わった。
「これ、鳴らしてもいいんですか?」
数珠がじゃらりと音を立て、青年が困ったように振り向いた。顔を見ても、やはり会ったことはない。
「三回でお願いします」
母が答えると、稲垣さんはリン棒で鈴を三度鳴らした。そして、また深く頭を下げて手を合わせた。
稲垣さんは焼香も終えて、祭壇の前から私たちのほうへと移動した。背が高いけれど、愛嬌のある少年らしさの残る顔立ちだ。服装はカジュアルな白いシャツに細身の黒いパンツだ。好みが蛍光色ならば、稲垣さんなりに気を使ったのだと勝手に納得した。
「こんにちは。稲垣栄汰といいます。ええと、藤倉さんの娘さんですか?」
「ご挨拶が遅れました。はい、娘の千鶴と申します」
「千鶴さんですね。この度は心よりお悔やみ申し上げます」
言い慣れていないぎこちなさがある。
「すみません、こういうのに慣れてなくて」
顔に出てしまっていたかとすぐに詫びた。
「いいえ、こちらこそすみません。私も慣れていなくて、いろいろとネットで調べました」
「あ、オレもネットで調べました!」
急に声が大きくなり、稲垣さんはまた照れくさそうにした。地元のおばさまたちから人気ありそうだ。例にもれず、うちの母にも効果は絶大だった。
「栄汰くん、こんなに大きくなってるなんてねえ。驚いたわぁ」
父の前だが、母も嬉しそうにお茶とお菓子を出した。そこで、彼も思い出したのか、鞄から白い封筒を取り出した。
「忘れてました。こちらを御霊前にお供えください」
「申し訳ないのだけど、お気持ちだけ有り難く頂戴しておきます」
香典は辞退しているので、デレデレの母も断った。私も続いて頭を下げる。断られるとは思っていなかったのか、稲垣さんはまた眉を下げた。そこは引き下がってくれていいんだぞと目で訴える。訴えたつもりである。
「どうしても、駄目ですか?」
「父の意向で、お香典は辞退させていただいております」
父の声は聞いてないが、便利な言葉で私からもお断りの気持ちを伝える。
「そうですか。では、こちらを受け取ってください!」
稲垣さんは鼻息荒く鞄からもうひとつの茶封筒を抜いて、両手でどうぞと差し出した。先程と似た荒々しい文字で大きく「御礼」と書かれている。
「失礼ですが、これはなんのお礼でしょうか?」
「藤倉さんから買った絵画への、ですが……」
「え?」
母と声が重なった。母も驚いているということは、母も知らなかったということだ。母と目を合わせ、お互いに首を捻ると、稲垣さんも不思議そうに首を傾げた。
「あ、まだ足りなかったですか? じゃあ、せっかくなので、お香典のほうも足しちゃってください」
「いや、そうじゃなくて……」
自分の声が裏返った。母はいやいやと首を振り、私は稲垣さんの差し出す二つの封筒を手で止めた。そうではない。そういうことではないのだ。
「父はあなたに絵を売ったんですか?」
「買いましたけど」
声にならない声で「うそでしょ」と漏れ出た。
「あれ、聞いてないっすか?」
「聞いてないっす」
また砕けた調子に戻ってしまう。
「今更なんだけど、栄汰くんとお父さんとはどんなご関係だったのかしら?」
状況がつかめないので、母が一から尋ねてくれた。
「そこからですね。はい、おじさん……藤倉のおじさんと出会ったのは一年前の公園です」




