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かきつくれば  作者: camel
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「至らぬところもあったかと存じますが、皆さまのご厚意に無事終えられましたこと、心より感謝申し上げます。本日は誠にありがとうございました」

 母が頭を下げると、前髪に混ざる白髪がばらぱらと揺れた。

 ゆっくりと私たちと父との距離が離れていく。葬儀は生きる者と死者を分け、心に区切りをつけさせてくれる。


 家に帰り、リビングのソファに腰を下ろすと、気が抜けたのか母はまた静かに泣いていた。母を思い、私も泣きそうになった。母からのもらい泣きをするのに、父の死ではたいして涙は出なかった。私と父の間には小さな溝ができていて、いや川を挟んだ向こう岸くらい距離があったのだろう。元から遠かった。母とは違う。

 これから母も孤独になるのだろうか。娘としてはそちらのほうが不安だった。会社からもらった忌引休暇は三日で、運良く土日もあることで、五日休むことができた。今週末、あと二日は実家にいる。

「掃除とか、役所の手続きとかもあるんでしょう? 来週も何日か休もうか?」

「心配しなくても、大丈夫。チヅは働いてきなさい」

「本当に?」

「あんたがいなくても、私はお父さんの世話も自分の世話もしてきたんだから」

ほとんど実家に帰ってないので、何も言えない。

「わかった。予定通り日曜日に帰る。でも、アトリエの掃除は私がやる」

「そんなに簡単に進まないし、焦らなくていいのよ」

「でも……」

「お父さんは死んでからのほうがモテモテなんだから。お線香あげさせてくれって、もうお電話があったわ」

 地元は人と人との距離が近い。私にご近所付き合いは向いていなかったけれど、母は楽しくやっている。私のいない穴は誰かで埋まっている。今から穴埋めしたって、どうにもならないことはわかっていた。

「私が嫁いだ町はそういうところなの。ずっと泣いていたら、心配して毎日でも顔を見に来ちゃうわ」

 ひっきりなしに来るご近所さんを想像し、大きな溜息を吐いた。この町はお節介を焼きたがる。

 日が沈んだ頃、お世話になった葬儀社の職員が訪れ、父の祭壇を用意した。「後飾り」というもので、

ニ段の台に白い布が敷かれている。父の遺骨と遺影は上段に、線香と(りん)とロウソクと生花は下段に置かれた。職員に礼を言って玄関まで見送った後、母は風呂の準備を始めた。代わりにやるからと、私は母を休ませた。


 風呂用洗剤を()いてスポンジで浴槽をごしごしと擦っていく。

 ついでに目についた浴室の床、水色の丸いタイルの隙間の汚れも落とそうとスポンジを動かした。しかし、どんなに擦っても、もう落ちない汚れだった。黒い溝はこの家が過ごした時間。私が見てこなかった時間だ。作業着のシミも、部屋の臭いも、黒ずんだ床も、全部そう。時間が経ちすぎて、なにもできなくなってしまった。


 家族葬であまり人に知らせていないのに、また一件電話がかかってきた。不器用な父だったけれど、この土地に受け入れられていたということなのだろう。

 電話を受け、母の都合を聞き、予定を組んでいく。カレンダーに訪問時間と名前を書き込んでいく。大体は近所の人らしかった。役所などの手続きの日と、弔問の予定。ほとんどが平日で、私に手伝えることはないように思う。


 少しでも役に立とうと、父のアトリエを訪れた。すでに母が換気のために窓を開けていて、空気が冷たい。木枠からキャンバスの布を固定している釘を抜き、布は丸めておけばいいだろうか。木枠は小さく切って分解すれば、普通ごみでどうにかなる気がする。

 処分法の一つとして「買い取り」も候補にあった。だが、父が画家なのかと考えてみたけれど、肩書きは「会社員」だ。今はリタイアしているので「無職」を使っていたかもしれない。無名の画家と呼べば様になるけれど、父が自分のことを画家と名乗ったことは一度もない。

 父は遅くまで働いて、へとへとになって帰っていた。それでも、休日には絵を描いて過ごした。私も大学を出て、どうにか会社に勤めている。へとへとになると、休日はできるだけ寝ていたい。誘われて外出するのは楽しいけれど、基本は家にいる。その意味では、父を尊敬できる。自主的に動けるパワーを私は持ち合わせていない。

 第三者に認められるわけでもなく、父は描き続けた。立てて置かれたキャンバスの数はざっと数えて百枚以上。サイズが大きいものは奥にある。大きなスケッチブックと何冊かのノートもある。一番上に置かれた古そうなノートには気になっていたあの言葉が書いてある。

 焦らなくてもいいと母は言った。でも、父の絵を愛した母に処分させるのはどうしても気が引ける。


 亡くなったその日も、父は絵を描いていた。部屋の中央に設置されたイーゼルには描きかけの絵がある。これが最新作で、遺作になる。黄色い背景に、三本の縦の棒が不揃いに生えている。庭の木でも描こうとしていたのだろうか。傍らの小さな作業台には油絵の具のセットがばらばらと散らばっている。やっぱり臭くて、好きではない。

 パレットに出された絵の具はまだ乾いておらず、独特のヌメリとテカリが感じられた。キャンバスも同じように光沢が見えるから、下手に触れると絵の具が付着するだろう。父の使っていたスツールに腰かける。ふいに、頬を涙が伝った。たぶん、絵の具の臭いのせいだ。そう言い聞かせることにした。


 掃除の成果はどれだけ捨てられるかだと思う。絵のモチーフに使った小物はごみ袋に入れて、絵の本や雑誌は紐でくくった。けれど、油絵の具を溶くものや乾かすのを早めるものなどの画用液の瓶は困りものだった。棚に近付いてみて気付いたのだが、半分ほど使ってあるテレピン油が油絵特有の鼻をつく臭いを放っていた。においの原因こそ処分したいがなんせ油である。揮発性があり、発火の恐れもある。スマホで調べると、ポリ袋に布や新聞紙を入れ、油を吸わせて水をかけて袋をしっかり閉めろと書かれていた。暑い季節ではないとはいえ、次のごみの日まで置きっぱなしにできない。

「今度にしよう」と提案するみたいに自分に言った。

 キャンバスの分解とスケッチブックやノートもまだ保留にすることにした。父の筆跡を処分する覚悟がまだできていなかった。成果がほぼゼロで頭を抱えた。

「来週の土日もこっちに帰るから、もっとがんばる」

「ありがとう。でも、ほどほどでいい。仕事も忙しいんでしょう?」

「忙しくなきゃ、置いてもらえないんだよ」

「働いていたときのお父さんも同じことを言ってたわ」

 そんなところは似たくなかったと思いつつ、日曜日には自宅に戻った。



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