婚約者
夜風が心地よいバルコニーに出ると、マリアンヌは腰に手を当て、細い指をびしりと突きつけて宣言した。
「ヨハン殿下の婚約者は、わたくしなのですからね!」
「存じております」
「今さら譲れと言われても、譲りませんからね!」
「言いませんよ、そんなこと」
「殿下を世界で一番愛しているのは、わたくしなのですから!」
「よいことではありませんか」
あまりの微笑ましさに、イリーシャは声をあげて笑い出してしまった。慌てて口元に手を当て、なんとか笑みを噛み殺そうとする。
「私はすでにクロッセル家に嫁いだ身ですから。ヨハン殿下は素敵な方ですけれど、そういう思いは抱きませんわ」
「でもでも、恋する心に道理は関係ないのではなくて? これと決めたら止められないのが恋というもの。相手に夢中になって、他のことは目に入らなくなってしまうわ。イリーシャさまは、そんな気持ちを持て余したことがあって?」
「そうですね……」
イリーシャは顎を摘んで考え込んだ。かつて頼れる兄であったユージンに抱いていたのは、そんなに熱烈なものではなかった。そもそも、政略結婚の駒として養子に入った事実を理解していたから、誰かに恋をしようという気持ちにもならなかったのだ。彼女の生活は、それと引き換えに保証されていたのだから。
だからこそ、目の前で恋について語る少女が、星の散るように眩しくて仕方ない。
この世全ての恋が、そんなふうにきらめいて出力されるなら良かった。
マリアンヌは小さな拳をむん、と固めて力説する。
「それに、不倫と浮気は恋のスパイスですわ! 障害が大きければ大きいほど盛り上がる……そういうものではなくて!?」
「いやそれはどうかと思いますけど」
絶対、誰も傷つけない恋の方が良いと思う。
イリーシャは己の身に照らしてそう考えたが、マリアンヌは真剣だった。
「ヨハン殿下はいずれ王になる方ですもの。妾の一人や二人、受け入れる度量がなくては王妃になどなれません。……そう習いました。嫌ですけれど! とっても嫌ですけれど!」
「では、そうやって殿下にお伝えすればよろしいのでは?」
「え?」
マリアンヌが、丸い瞳をきょとんとさせる。
「王と王妃とはいえ、元を正せば一組の夫婦でしょう? 思ったことは正直に伝えて、きちんと話し合った方が良いですよ」
イリーシャの頭に浮かんだのは、ユージンのことだった。
もっと前に彼と向き合っていれば、あんな惨劇を起こさずに済んだのではないか。彼の本性に気づいて、もう少しだけでも良い方向へ進めたのではないか。
ちゃんと話せば、ロビンが無惨に命を奪われることはなかったのではないか。
イリーシャはゆるりと首を振って、薄暗い思念を追い払う。明るく笑って、指を一本立ててみせた。
「それに、道ならぬ恋は盛り上がる、みたいな火遊び程度で妾を抱えられても、臣下としては政情不安に陥るので困りますし! 王ともなれば、必要に迫られることもあるのかもしれませんが……あるのかしら、そんなこと? 今代の王は王妃さまだけですものね……」
ぶつぶつ呟き始めたイリーシャに、マリアンヌがぽかんと口を開ける。
「……なんだか、思っていた方と違いましたわ」
ぽつりと声が落とされた。花のかんばせからは毒気が抜かれ、幼げな困惑だけが覗いている。
「一体、どんな人間と思われていたのですか?」
イリーシャの問いかけに、マリアンヌは手をもじもじと組み合わせた。
「……わたくし、イリーシャさまのことはずっと前から存じておりましたの。わたくしと同じく、ヨハン殿下の婚約者候補と噂が流れておりましたから」
「まあ、そうだったのですか」
いつから流れていたのだろう。一人知らなかったイリーシャだけが間抜けだったのだ。
(——どうして私はそんな重要なことを知らなかったんだろう?)
ふとそんな疑問が頭をよぎったが、マリアンヌの可憐な声で呼び戻された。
「舞踏会でお見かけするイリーシャさまは、いつもお美しくて、凛としてらして、氷の国の皇女さまのようで……わたくし、勝てないと思っておりましたの」
「そ、そうですか」
花の姫君のようなマリアンヌに言われても説得力がない。おそらく、イリーシャは彼女と異なる方向性の顔立ちなので、無いものねだりなのだろう。
「今日も本当は、イリーシャさまにとびきりの意地悪をするつもりでいましたの。もうヨハン殿下に近づいて欲しくなくて。でも……」
マリアンヌが言葉を切る。形にすべき言葉を探すように視線をさまよわせ、それから柔らかく笑った。
「なんだか、とても人間らしい方でほっとしましたわ。少しぼんやりしているところもおありですし!」
「ぼんやり、ですか」
褒められて……はいないだろう。イリーシャは苦く笑った。そういうところが、今の境遇に自分を押し流した一因だと、なんとなく悟っていた。
「あ、悪い意味ではないんですのよ」
マリアンヌが、顔の前で手のひらをぱたぱたと振る。少し頬を赤らめて、夢見るように言った。
「だって、あのユージンさまが、あんなにめろめろの視線を向けているのに、ちっとも気づいていらっしゃらない様子なんですもの。わたくしも殿下にあんなふうに見つめられたいものですわ。ロビンさまのことは残念でしたが、ユージンさまがいてよろしかったですわね!」
その無邪気な物言いは、ざっくりとイリーシャの胸をえぐった。
彼女の弟の死は、所詮、「残念」な程度のことなのだ。
よろめきそうになるのをなんとか堪えて、イリーシャは気になったことを一つ訊ねた。
「マリアンヌさまは、以前からユージンをご存知なのですか?」
「ああ、そうなんですのよ」
彼女は軽く、首を縦に振った。澄み渡った青色の瞳がイリーシャを映す。
「わたくしとヨハン殿下を引き合わせたのは、ユージンさまなのです。わたくしが殿下の婚約者になるために、ずいぶんご助力いただきましたわ」