神の声
状況が掴めない。天地が逆さまになって、視界がぐるぐると回っている。焦りに駆られる状況のはずなのに、なぜか心は凪いでいて、全てがどこか遠くの出来事のように感じられた。
「……ルファス、さま……?」
辛うじて動く唇を動かした。ルファスが神官服の裾を払い、床に倒れ伏すイリーシャの横に膝をついた。
「おや、まだ話せるとは、さすが大聖女の娘ですね」
「……大、聖女?」
霞がかかったような頭の中、その単語が一つの記憶を引っ張り出す。確かそれは、今は行方不明の尊き方。ユージンが生まれて四年後に消息を絶ったという。
(……私とロビンが生まれた頃だ)
ルファスはイリーシャの髪を掬いあげ、たわやかに口づけた。
「大聖女イルシアさまが、マルセル男爵との間に産んだのが男女の双子だと聞いたとき、神の意志が私に触れたのですよ」
ルファスの笑みはますます神々しさを帯びていく。
「彼らを用いて、人々を救済せよ、と」
彼の腕が伸びて、イリーシャを横抱きにする。ぐったりした彼女の体を長椅子に横たえ、血の気の抜けた頬を撫でた。
「大丈夫ですよ、乱暴なことはしません。あなたは貴重な胎ですから」
「はら……?」
「はい。大聖女の血を継ぐあなたは、魔力を持った人間を産み増やすのにぴったりです。こちらでも高い魔力を保持する神官を多数用意しましたから、案ずることはございませんよ」
ルファスの手が触れたところから、イリーシャの肌が粟立つ。吐き気がした。
「そんなことをしてどうするの……」
「決まっています。人々を救うのですよ」
「繋がりが見えないわ」
「この世には、苦しみが多すぎると思いませんか?」
ルファスが無邪気に笑った。唇の間から、白い歯が見えた。
「私はね、ずっと考えていました。どうやったら人々から苦しみを取り除けるのか。神官として神殿に入ったものの、なかなか答えが見つからずにおりました。けれど迷える人々と接するうちに気がついたのです。彼らが苦しむのは、憎しみだとか嫉妬だとか、負の感情に囚われているからだと。——イリーシャさま、あなたもそうではないですか?」
「なにを……」
ルファスの手が伸び、イリーシャの懐から落ちたロビンの手紙を拾い上げる。それを指先で弄びながら、澄んだ瞳を三日月の形に歪めた。
「あなたは弟君をユージン卿に殺され、その憎しみから逃れたくて、ここに救いを求めにおいでになったのでしょう?」
イリーシャは不意を突かれ、視線を揺らした。
ルファスの言う通り……なのか。
ユージンを許せないと思い、けれどキスをして熱を知ってしまって。
憎悪が揺らいで、どうしたらいいか分からなくなって、ロビンの手紙に縋ってここまで来た。
それは、憎しみから解放されたいということなのだろうか。もう彼を憎むのをやめて、新しい人生を歩みたいと?
(あの手紙を読んで、本当にそんなことを考えたの?)
そんな——物分かりのいいことを?
ルファスの演説は続く。目には取り憑かれたような妖しさが宿り、そのくせ輝きは澄み渡っていた。
「私は奉仕に励むうちに、神の声を聞いたのです。そんなものは取り除いてしまえばいい、と」
たとえば、とルファスはテーブルの上を指差した。カップが倒れ、紫色の液体が広がっている。
「あのお茶は、私が開発したものです。もとは助かる見込みのない患者に与える鎮痛薬の材料でしたが、それを飲みやすくして。美味しかったでしょう? まだ開発途上ですが、あれを飲むと感情が丸くなって、みな穏やかな顔つきになるのですよ。今のあなたもそうです。見てみますか?」
ルファスはイリーシャの顔の前に手鏡を差し出した。こんな状況だというのに、イリーシャの顔は和やかで、淡い笑みさえ浮かべている。淑女にあるまじく、舌打ちしたくなった。効能は抜群というわけだ。
ルファスはため息をついた。
「でも、こんなものでは足りないのです。もっと多くの人々を救うためには、もっと多くの人手がいる。それも神官や聖女でなくては」
「どうして……」
「神の声を聞き届けなくては」
ルファスの眼差しは真剣だった。
一片の疑いの余地もなく、太陽が東から上るのを説くように、言い切る。
「神の声を聞けるのは、神によって選ばれた人間だけです。そして魔力こそが、神の権能を与えられた、選ばれし人間の証明。でなければ、ただの人間が神のごとく奇跡を起こす意味が分からない」
ルファスの視線が、ほんの一瞬、遠くを彷徨う。何かを懐かしむように。
「どうして魔力を持つ人間と、持たない人間がいるのでしょう? 皆が神の声に耳を傾ければいいのに。そうすればもっと世界は善くなるのに。強力な未来視をすれば、将来起こる災害を回避できる。医師では救えない重病の患者でも、高位の神官聖女であれば救える可能性がある。——そう、たとえば」
ルファスは顔を寄せ、内緒話をするように囁いた。
「強力な呪いを受けたものでも」
イリーシャはわずかに目を見開いた。
そのとき、にわかに部屋の外が騒がしくなった。迷いのない足音と、それを制止しようとする神官の声が入り混じる。何かが割れたり、ぶつかったりする鈍い音も響いてくる。
イリーシャの鼓動が高く鳴った。予感がする。こういうときに現れる人間を、彼女は一人しか知らない。
足音が部屋の前で止まる。一瞬の沈黙ののち、勢いよく扉が蹴破られた。
開かれる扉の向こう側、姿を現したのは、不吉な闇色の髪を乱し、瞳を炯々と光らせた、
「——イリーシャ」
ユージン以外、あり得ないのだった。




