涙
(ジーンとキスしてしまった……)
まんじりともせずベッドの中で朝を迎え、イリーシャは両手で顔を覆った。
(私は馬鹿だ……)
唇で触れられた熱がまだ体に残っているような気がする。無意識のうちに指で自分の唇をなぞっていると気づいて、イリーシャはバッと体を起こした。さらり、と髪が背中を流れていく。
(完全に私が悪い)
触れてみれば分かる、と思った。それなのに、この有様となってしまった。
舞踏会で声をかけてきた男に手を握られたときは、嫌悪感がまさったのに。
あれだけ密接に触れられても、ユージンにはそんなことを思わず、むしろ——。
そこまで思考が伸びて、ザッと血の気が引く。
(私は、あの先を望んでいたというの?)
それは彼女にとって致命の一撃だった。頭で考えたことと体が感じたこと、どちらが正しいのか分からない。
よろよろとベッドを出て、椅子に座る。食堂へ行って朝食を摂る気力もなく、無意味に書き物机の引き出しを開けたり閉めたりした。
(あら……?)
そこでふと、引き出しの奥に見慣れない封筒が挟まっていることに気がついた。何の変哲もない白っぽい封筒だ。書きかけの手紙を放置したまま、忘れていたのだろうか。
イリーシャは首をひねり、それを引っ張り出した。
何気なく表に返す。そうして、ハッと息を止めた。
表面に書かれていたのは、イリーシャへ、という簡素な一言。だが彼女の目を捉えたのは、その筆跡。
青ざめた唇からかすれた声が漏れる。
「ロビン……!」
それはもう、二度と見ることは叶わないと思っていた、弟からの手紙だった。
『愛するイリーシャへ
僕はもうすぐ死ぬと思う。他ならぬジーンの手によって殺される。
そう思ってこの手紙を書いている。
全部僕の思い込みで、彼はそんなことちっとも考えていなくて、イルが無事に殿下のもとへ嫁いだら、この手紙はさっさと回収して焼いてしまうよ。そして誠心誠意ジーンに謝ろうと思う。疑ってごめんって。
でも、僕の予想が的中して、僕が死んでしまったときのために、この手紙をイルに遺していくね。それくらいしか僕にはできないから。
今のイルは、たぶん、ジーンと結婚しているだろう。幸せな結婚生活かな? それなら良い。この手紙はここで読み終わって、さっさと屑籠に捨ててしまえ。
冒頭で、ジーンによって殺されるとか気になること書いておいてごめんね。でも君が幸せなら、僕は死んでても気にしないから! 余計な詮索をせず、さっさと忘れてくれ。それが一番だ。
でも、もし——僕としてはそうならないことを祈っているけど——幸せな結婚じゃなかった、というなら、一つだけアドバイスするよ。
神殿に行くんだ。
結婚契約書を書いただろう? あれは基本的に夫の許しがなければ離縁できない、ということになっている。だけど、どんなルールにも抜け穴は存在するよ。
神殿で聖女になれば、離縁できる。聖職は俗世とは切り離された存在だからね。
聖女になるためには魔力が必要だからそこは頑張って欲しいんだけど!
どうにもならなかったら賄賂を使え! 僕が密かに貯めてたお金をイルの本棚に隠しておくからね!
……というのは冗談にしても。(貯金のことは本当だよ。本棚の一番下の段の右から三番目の本を開いてみて。びっくりするぞ!)
イル、こんな形で別れることになってしまってごめんね。
ずっと君と一緒にいたかったよ。
僕がいなくなっても、君は僕の可愛い双子だよ。
天国から見守ってるからね! って、死んだあとどうなるのか分からないけど。
……他にも言いたいことは色々あるけど、離れがたくなるから、ここでペンを置くね。
とにかく、僕の死によって、君があんまり苦しむことがないといいな。それだけが僕の願いだ。
だって、僕が死んだら、ただのイルは誰にその悲しみを渡せばいいんだ? 公爵令嬢のイリーシャは、泣いたり叫んだりしないだろ。君が一人ぼっちで泣いてるところを想像すると、僕は本当に恐ろしい気持ちになるよ。
でも、僕はもうイルを守ってはあげられないから。
君の人生に、少しでも幸いが降り注ぎますように。』
そこまで読んで、続きがインクでぐしゃぐしゃに消されていることに気づいた。
イリーシャは震える手で便箋を光に透かし、なんとか残りの文字を読む。
そこにはこう書かれていた。
『死にたくない。離れたくない。やりたいことがたくさんあるのに。嫌だよ。怖いよ。助けて、イル』
それが限界だった。
イリーシャは手紙を抱きしめ、嗚咽を漏らしてすすり泣いた。
弟を失ってから、彼女は初めて涙を流したのだった。




