嫉妬
王宮医師の治療を受けたユージンは、帰宅してよいと許しが出たので、公爵邸に戻り、寝室のベッドに横たわっていた。今回の件は、蒐集品の管理不行き届きによる「事故」として片付けられ、ルファスへ追及の手が伸びることはなかった。
イリーシャはベッドサイドに置いた椅子に座り、臥せる彼を見つめる。その瞳には複雑な色が宿っていた。ユージンの体には何ヵ所も包帯が巻かれ、痛々しい有様だった。
「……イル、もう眠ったらどうだ?」
ユージンが青ざめたイリーシャの顔を心配そうに仰ぐ。イリーシャは膝に置いた手を握りしめた。
イリーシャの頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。
ユージンは間違いなく、ロビンを殺害したのだ。イリーシャを手に入れるために計画を立てて、さまざまな企みを実行に移し、その手で彼女の弟の命を奪ったのだ。
あの夜のことを、彼女は決して忘れない。
——けれど、弟を殺めた同じ手で、彼は彼女を守るのだ。
「……どうして、私なのですか」
雨垂れのように、イリーシャの唇から声が落ちた。
ユージンは凪いだ面持ちでイリーシャを眺める。イリーシャは固く拳を握りしめ、胸の震えるままに口を開いた。
「ずっと聞きたかったんです。どうして私を選んだのです? 私は別に美人じゃないし優しくもないし頭が良いわけでもない。誰かの命と引き換えにしてまで手に入れるほど価値ある人間じゃない。私みたいな女性は他にもたくさんいるんですよ。今日の舞踏会を見ましたか? 多くの女性があなたを気にしていましたよ。あなたには無数の選択肢がある。それなのに、どうして……どうして、私なんかのために……」
あとは言葉にならなかった。熱い塊が喉に詰まっていて、それ以上何も言えなかった。
ユージンはしばらく黙っていた。寝室には静寂が広がり、風が庭の木を揺らす音だけが、ときどき耳に届くだけだった。
眠ってしまったのかな、と思った頃、ユージンがぽつぽつと語り始めた。
「理由はたくさんある……。この家で、『呪われた子』として扱われる中で、笑いかけてくれたこと。何をしでかすか読めなくて、目が離せないこと。変に真面目なところ。ダンスが上手いところ。笑った顔が可愛いところ。美味しい料理を食べたときに目がきらきらするところ。声が耳に心地良いところ。髪が艶やかなところ。他にも、数えきれないくらいある。そのどれもが致命的だが——決め手ではない」
ユージンは言葉を切った。しばし思案したあと、短く笑った。
「雷が落ちたときに、なぜここに落ちたのか、なんて考えてもしょうがないだろう。天災は往々にして理不尽なもの。化け物に魅入られるのも同じことだ」
その言葉は、イリーシャの胸にすとんと落ちてきた。
ああ、と息を吐く。
彼女は間違いなく、超弩級の災厄に遭遇してしまったのだ。
もしも、イリーシャが選ばれた理由が明確に存在するなら、それを無くせばいいのではないかと思っていた。
顔が好みなら顔を潰せばいい。
声が好みなら喉を潰せばいい。
髪が好みなら頭皮を焼いてしまえばいい。
それで逃れられるなら、何をしたって良かった。
だが、彼はそうではないという。そのどれもを気に入っていて、なお——理由は無いというのだ。
それならば、イリーシャが決めなくてはならない。
この男を愛するか——憎むか。
決着をつけるのはイリーシャ以外にはできないのだ。
強く風が吹きつけて、窓枠がガタリと音を立てた。びくりと肩を震わせる。イリーシャは唇を引き結び、何度も思っていることを心の内で繰り返した。
(——いえ、やはり許せない)
イリーシャが恋する少女であれたら良かった。身を盾にして守ってもらって、ときめきのままに彼を受け入れる聖なる乙女であれば。
愛でもって、憎悪をほどける人間なら良かった。
けれど、イリーシャはそうではない。血溜まりの生臭さ、腕にかかる死体の重さを永遠に覚えている。
イリーシャへの献身をもって、ロビンへの贖罪となすことはどうしてもできない。
その二つは彼女にとって完全に別の物事であるし、それに何より。
——イリーシャまでユージンを許してしまったら、一体誰が、ただのロビンの死を悲しんでくれるのだろう?
ユージンが何事か呟いた。思考に没頭していたイリーシャは「え?」と聞き返す。
「なんでしょうか?」
「今日の舞踏会は楽しかったか?」
「……ええ?」
イリーシャは眉をひそめた。この状況で楽しめるわけがない。だが、ユージンは至極真面目に言い募った。
「色々あっただろう。実はヨハン殿下の元に嫁ぐはずだったとか、どこかの男に声をかけられたとか」
「……ああ、ありましたね、そんなことも」
イリーシャはぼんやり首を振った。その他の衝撃が大きすぎて、その辺りは印象が薄まっていた。
ユージンはむっとしたように、
「そんなこと、とは何だ。俺はかなり気にしているんだが」
「何をですか」
「……俺よりも、他の男の方が良いか?」
「はあ……?」
イリーシャはぽかんと口を開けてしまった。そんなことは考えたこともない、と反論しようとして、口ごもる。確かに、ヨハン殿下の妻だったらもっと普通の人生だったかもしれない、とか、声をかけてきた男の手を取って一夜の恋を、とか、恋のスパイスだとか、諸々考えていたような記憶がある。
壁の方へ視線を泳がせたイリーシャに、ユージンが勢いよく起き上がった。息を詰めてイリーシャの顔を覗き込む。
「そうなのか?」
「まあ……」
「どこの男だ?」
「さあ……」
具体的にどうこうという話でもないのだ。ただ、ほんの一瞬、別の人生を夢見ただけ。
それは叶わないから、所詮は魔女の作り出した幻でしかないのだけれど。
イリーシャの表情を丹念に観察していたユージンが、すうっと瞳を細めた。
「……イル、口付けてもいいか?」
「ダメです」
「キスしてもいいか?」
「言い方を変えてもダメです」
丁重に断ってから、イリーシャは首を傾げた。
「どうして急にそんなことを?」
ユージンの指が、イリーシャの額にかかる髪を払う。そのまま頬をなぞりながら、薄く笑んだ。瞳の赤が濃くなる。
「……嫉妬した」
イリーシャは瞬いた。そういえば、他の男の話をしていたのだった。彼女にとってはあり得ざるイフの物語でしかない。ほんのちょっと夢想して、朝には忘れてしまう程度の。
だが、ユージンにとってはそうではないらしかった。夢を垣間見ることも許せないらしい。
彼女は意地悪く笑ってやった。椅子の上で足を組む。
「怪我の対価に、とは言わないんですか」
「それは俺がしたくてしたことだ。報いが欲しいわけじゃない」
ユージンは怪訝な表情で即答する。
イリーシャは笑い出したくなった。
弱みに付け込めば良いのに。そうしたら、もっと迷いなく憎めるのに。
脳裏によぎるのは、イリーシャを突き飛ばし、躊躇いなく剣の前に身を投げ出したユージンの姿。
(私はこの男のことが許せない。それは間違いない)
ならば。
(キスしたところで、この憎しみが薄まるとも思えない。触れてみれば分かるのでは?)
逡巡はわずかだった。イリーシャは顎を上げ、輝く金の瞳でユージンを見据えた。
「いいですよ。キス、しましょう」




