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宝物庫

 時は少し遡り、イリーシャとマリアンヌがバルコニーへ向かった後。


 その場に残されたユージンは、ヨハンの押し殺した笑い声に目をすがめた。


「……なんです?」

「いやあ、本当に可愛がっているんだなと思って。さすが、その手を血に染めて抱いただけある」


 ヨハンの揶揄うような言葉、それと裏腹な鋭い視線にも、ユージンの表情には罅一つ入らなかった。水を飲むように綺麗な微笑みを浮かべ、


「お戯れがすぎますよ、殿下。それに、俺は彼女の許しなく一線を超えることはありません」

「正気かよ」


 ヨハンが苦いものを飲み下したような顔をする。それから、すっと表情をあらためた。


「まあいい。僕にとって重要なのは、裏切るか裏切らないか、有能か無能かだ。その点で言えば、ロビン卿よりお前の方がずいぶんやりやすい。イリーシャ嬢には気の毒な話だが、お前が彼女を囲っている限り、俺の治世は安らかだな?」

「反対ですよ、殿下」

「はあ?」


 怪訝そうなヨハンに、ユージンは微笑みかける。


「彼女が俺の手綱を握っているんです。お間違いないように」

「……いずれにせよ、イリーシャ嬢が不憫なことに変わりはないな……」


 そのとき、ささやかな衣擦れの音を立て、二人に近づいてくる者がいた。二人はハッと姿勢を正し、第一王子と宰相の組み合わせになる。


「殿下におかれましてはご機嫌麗しく。お招きいただき感謝いたします」


 そう言って恭しく頭を垂れたのは、真っ白な神官服をまとった美しい男だった。長く伸ばした銀の髪を結え、ハシバミ色の瞳を柔和に細めている。


 ヨハンが精緻な微笑で応えた。


「これはご丁寧にありがとうございます、大神官どの」

「ルファス、で結構ですよ。ヨハン殿下」


 ユージンはさりげなく大神官ルファスを観察した。

 かねてより神殿は、権勢拡大のために国政に幅を利かせようとしていたが、それが顕著になったのは大神官の座にルファスが就いてからだった。


 今までの大神官と異なるのは、彼の主張の軸が、苦しむ人々の救済に置かれていることだった。従来、神殿の予算拡大や神官や聖女の増員を訴えるのが大神官だった。だが、彼は違う。


 神殿曰く、人間の苦しみは、世俗の欲から生まれる。それらを捨て去り、神殿において神への奉仕を行い、正しく祈りに身を捧げれば、楽園に導かれる、というものだ。


 国教の教義から大きく外れてはいないが、ルファスは本気でその信仰に殉じ、布教に努めているのが異例だった。実際、神殿は多くの迷える人々を飲み込み、神秘のヴェールの向こう側で神へ祈りを捧げている。


 修行を積み、神官や聖女になれば、世俗との縁を完全に切れるため、世で苦しみ抜いた人々がその門を叩くことも多いという。とはいえ、神官や聖女は未来を視たり病気を治したりといった奇跡を行う祝福された存在で、ある程度の魔力がないとなれないが。


 今の神殿はあらゆる人々に救いの手を差し伸べ、支持される存在だ。


 それでいて大神官は品行方正で、この美しさときたものだから、入信する者が後を絶たない。


「ロビン卿のことは本当に痛ましゅうございましたね」


 ルファスが麗しい面を憂いに染め、胸元に手を当てて嘆息する。それだけで一幅の絵画のようだった。


 ヨハンがちらりとユージンを窺う。ユージンは負けず劣らず悲痛な表情を作ってみせた。


「ええ、私にとっても大切な弟だったのですが……本当に、何と言ったらいいのか」

「イリーシャさまも悲しんでおられるのではないですか? 特に双子には、特別な魂の結びつきがあると言いますから」

「そうですね、ずいぶん憔悴しておりました。ですが、最近は立ち直りつつありますよ」

「お強い女性だ。あとでご挨拶させていただきましょう。神の言葉で、少しでも悲しみを和らげることができるかもしれませんから」

「いや、結構」


 ユージンはぴしゃりとはねつける。ルファスが訝しげに眉をひそめた。


「気丈に振る舞ってはいても、まだ癒えない傷を抱えておりますので。まさか淑女に対して、舞踏会で泣き出すような恥をかかせるわけはないでしょうな?」

「……左様でございますか」


 ルファスは微笑み、礼儀正しく退いた。「それではこれで」と一礼し、人混みの中に紛れていく。


 その背中を鋭い目つきで追いながら、ヨハンが言った。


「なかなか食えない御仁だな?」

「狂信者は苦手ですね」


 ユージンは苦く息を吐いた。それが彼のルファスに対する評価だった。自分が正しいと確信しているから手に負えない。


 そこへ、ヨハンの従者が影のように近づき、囁きかけた。


「殿下、宰相閣下、王宮宝物庫に侵入者があったようです」


 ユージンはヨハンと視線を取り交わす。厳しい口調でヨハンが問いかけた。


「被害は?」

「ございません。『竜の守護』が働いております。侵入者は捕らえましたが、自決しました」

「そうか……すぐに行く」


 素早く踵を返すヨハンの後にユージンも続く。広間を出て、地下の宝物庫へ急ぎながら、二人は低く囁き合った。


「偶然だと思うか?」

「まさか。とはいえ、なぜ宝物庫を選んだかは気になりますね。『竜の守護』はどのような手を使っても破れないはずですから」


 宝物庫の前には、大勢の兵士たちが詰めていた。彼らの手で侵入者が布袋に収められていく。とりたてて特徴のない中年の男だった。


 二人の姿を見て、兵士たちが揃って敬礼する。その間を縫って、彼らは宝物庫の奥へと進んでいった。


 燭台に照らされた廊下の先、傷一つない重厚な扉がそびえている。その取手の部分に、小さな純金の台座が取り付けられていた。

 扉を見上げ、ヨハンが声を落とした。


「確かに異常はないようだな。念のため、中を確認するか」


 懐から短刀を取り出す。ユージンが無言で手を差し出した。


「俺がやりましょう」

「……悪いな」


 ユージンはヨハンから短刀を受け取り、刃を指に滑らせた。皮膚の上に膨らんだ血を、台座に数滴落とす。


 足下よりも遥かに深く、ずっと遠い地の底から、空気を震わせる唸り声が響いてきた。


 守護がかけられた扉が、ゆっくりと開いていく。


 ——これが、この国のあらゆる宝物を守る『竜の守護』だった。


 神話において語られる、かつて国祖が退けた竜。それを捕らえ、宝を守る竜の習性を利用して宝物庫の守りとしたのだ。竜は国祖の血を継ぐ王家、それから国祖の弟の子孫であるクロッセル公爵家の血にしか扉を開かない。


 ユージンが呪われ、遠縁のマルセル男爵家から養子を引き取ったのはこれも理由の一つだった。クロッセル家は宰相を務めるものとして、決して国祖の弟の血を絶やすわけにはいかない。

 二人は宝物庫に足を踏み入れ、顔を見合わせた。


 中には、戴冠式に用いられる王冠や式服、歴代の職人たちが魂を込めて作った宝飾品などが整然と並べられている。特に荒らされた様子はない。


「……何もないようだな」

「ええ。それにしても、やはり侵入者の目的が気になりますね」


 ユージンは手燭をかざし、宝物庫の最奥を照らした。


 精緻な彫刻で飾られた白亜の台座の上、宝石で彩られた豪奢な棺が鎮座している。国祖の死とともに宝物庫に納められたというそれは、『国祖の至上の宝』として、未来永劫、誰であっても中を検めてはならないとされていた。


 風もないのに、燭台の炎が激しく揺れる。ぶしつけなほど明るい光が、不気味に二人を照らしつけていた。

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