序章
その夜半、イリーシャ=ド=クロッセルが目覚めたのは、月が明るすぎたからだった。
クロッセル公爵家において彼女に割り当てられた部屋は少し手狭で、ベッドと本棚、書き物机くらいしか置かれていなかった。その南向きの壁に設られたアーチ窓から、レースのカーテン越しに真っ白な月光が差し込んでくる。それがイリーシャの白銀の髪を洗い、天の川のように輝かせた。
(水でももらってこようかしら)
イリーシャはベッドから抜け出し、そっと部屋のドアを開けた。廊下に出ると壁の角灯は消えており、辺りは暗闇に包まれている。彼女は壁に手をつき、そろそろと歩き始めた。
——ゴトリ、と重い音が響いたのはそのときだった。
何かが倒れるような音だった。イリーシャは眉根を寄せる。それは廊下の向こう、弟の部屋の方から聞こえてきた。
(ロビン?)
弟の名を呼び、イリーシャは爪先をそちらへ向ける。しばらく歩みを進めると、暗闇に慣れ始めた目が、ロビンの部屋の前に立つ人影をとらえた。
廊下の窓から流れ込んだ月明かりが、闇の中に人影を浮かび上がらせる。その整った横顔を見て、イリーシャはハッと息を呑んだ。慣れ親しんだ横顔だった。クロッセル家の「呪われた子」、ユージン=ド=クロッセル。すらりとした長身で気負いなく立ち、足下を眺めている。右手にはなぜか剣を持っているようだった。
そしてその剣先に、もう一人、誰かが倒れ込んでいた。
雲が月を覆い隠す。廊下に闇が広がる。けれど、イリーシャがその顔を見間違えるわけがなかった。駆け寄りながら、彼女は叫んだ。
「ロビン!」
床に倒れ伏しているのは、彼女の双子の弟であるロビンだった。目をカッと見開き、信じられないという表情で硬直している。彼のそばにひざまずくと、生ぬるい液体で膝が滑った。鉄臭いにおいが鼻をつく。震える手で上半身を抱き起こすと、胸元にガクンと頭が垂れた。イリーシャと同じ色彩の白銀の髪が真っ赤な血に塗れ、不気味なグラデーションを作っている。金色をした瞳にはすでに光がなく、イリーシャは弟の魂がもはや手の届かないところへ旅立ったのだと直感した。
「どうして……?」
イリーシャは力なく、そばに立っている男を見上げた。暗闇の中、ユージンの赤い瞳が無感情にイリーシャに向けられている。彼女の背筋に冷たいものが走った。それは今まで見たことのない顔だった。彼女にとって、ユージンはいつでも優しい、穏やかなお兄さんだった。
彼の持つ剣の先から、血の滴が床に垂れ落ちた。
「イル、分からないのか?」
いつものように愛称で呼ぶ声が、ベルベットのように優しく耳を撫でる。ユージンが剣を振って血を払い、鞘に収め、そのまま壁に立てかけた。ゆっくりと振り返り、イリーシャに手を差し伸べる。
「すまない、イルを汚すつもりはなかったんだが」
その手には弟の血が点々と付着している。イリーシャは事切れた弟の体を抱きしめ、いやいやと首を振った。喉が塞がり、上手く呼吸ができない。目元がじんと熱くなった。胸が苦しい。
イリーシャは掠れた声で問いかけた。
「ジーン、あなたがロビンを殺したのですか……?」
「そうだ」
「殺すほど憎かった……?」
「まさか」
面白い冗談を聞いたというふうに、ユージンが喉を鳴らして笑う。風が吹き、月を隠す雲が流れた。さっと差し込んだ月光に、彼の姿が照らし出された。
闇に溶け込む真っ黒な髪、炯々と輝く赤い瞳、酷薄そうな唇。それらが完璧に調和した美しい顔の下、彼の喉を絞めるように、禍々しい呪紋が首をぐるりと取り巻いている。
クロッセル家の「呪われた子」、ユージン。生まれてすぐに呪いをかけられた証拠だ。
けれど、イリーシャが震えたのは、その禍々しさのせいではない。
ユージンがそっと膝をつく。ハンカチを取り出して、手についた血飛沫を拭き取った。綺麗になったのを注意深く確認してから、イリーシャの頬を両手で包む。その冷たさに、彼女は震えた。
ユージンはイリーシャの顔を覗き込み、この上なく優しく微笑んだ。
「きみを愛しているからだよ、イル」