5. 第五章 近代
第五章 近代
明治維新によって、封建制度が終わり、時代は急速に変化した。そして、文明開化を推進する風潮は、新しい時代の文学をみせ始めた。この明治期におこった言文一致の運動により口語的表現に光が射してきたわけである。
副詞「とても」が近世においてより生活感あふれる作品に多かったことからでもわかるように、話し言葉に属する割合が大きい語である。近代では「とても」がどのような使われ方をされているかを第五章で考えていく。
第一義として変わらず使用されているのは、〈1〉否定的意味を表す「とても」である。
(59)とても余所外の小供では続かないが、其処は文三、性質が内端だけに学問には向くと見えて 『浮雲』(※注72 二葉亭四迷『浮雲』 新潮文庫)
(60)人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲みきれない。 『我が輩は猫である』(※注73 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引 夏目漱石』第十巻・第十一巻 教育社)
(61)とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供すると云うのである。 『澁江抽斎』(※注74 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引 森鴎外』第五巻 教育社)
これを、意味の上からあて字で示した例もある。
(62)到底も此の疲れやうでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが 『高野聖』(※注75 筑摩現代文学大系『尾崎紅葉・泉鏡花集』筑摩書房「高野聖」)
(63)九州にいる兄へ遣った手紙のなかにも、私は父の到底故の様な健康になる見込のない事を述べた。『こころ』(※注76 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引・夏目漱石』第九巻教育社)
〈2〉意味の上で否定を示すもの、打消を伴っていうものが明治・大正期には最も多い。しかし、
(64)でも医者はあの時到底むずかしいって宣告したじゃありませんか 『こころ』(※注77 注76同)
(65)これから先のことはどうしよう。君一人では迚も駄目だろう? 『暗夜行路』(※注78 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引 志賀直哉』第四巻 教育社)
などの例のように、打消の語を伴わずに否定を示すものは、程度の強調辞的役割も担っている。それが現在の程度副詞へと結びついていったのではないだろうか。
(66)それでも何か知れぬ不安が、迚も六ヶしそうに私語く事もあった。 『暗夜行路』(※注79 注78同)
〈3〉肯定を導く「とても」は、明治期ではほとんど姿をみせない。大正、昭和になると、すでに見つからなくなってしまっている。肯定を導く「とても」は、かわりにあとにくる内容を強調する役割を持つようになった。
(67)嫌だとつても此組の大将でいてくんねへ 『たけくらべ』(※注80 筑摩現代文学大系『幸田露伴・樋口一葉集』筑摩書房「たけくらべ」)
これは強調するために、促音便化して用いられている。程度を強めるために促音便や重ねて用いる方法は、程度副詞として確立した後も、更に意味を高めるために使われている。
(68)あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろえるのが、とってもたのしい 『富嶽百景』(※注81 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引 太宰治』第三巻 教育社)
(69)この世にまたとないくらいにとてもとても美しい顔のように思われ 『斜陽』(※注82 近代作家用語研究会・教育技術研究所編『作家用語索引 太宰治』第五巻 教育社)
(70)金もうけなんて、とてもとても出来やしないのは 『斜陽』(※注83 注82同)
「とても」がもっと明確に程度副詞として見えるのは、ごく最近のことで、昭和初期に入った頃であるらしい。
(71)土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来られないわ。 『雪国』(※注84 筑摩現代文学大系『川端康成集』筑摩書房「雪国」)
(72)「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいい人で、こわくないから行って習えと言ったよ。」 『セロ弾きのゴーシュ』(※注85 宮沢賢治『風の又三郎』新潮文庫「セロ弾きのゴーシュ」)
近世で発展した「とてもの事に」等の語句は、調べた限りみつけることができなかったが、『日本国語大辞典』(※注86 注4同)の中で
いさなとり〈幸田露伴〉十七
「想頭が裏返って、とてもの腐れ〈略〉久太に思ふさま費はせて我は伴食の美味に飽きし上、金なくなったところで別れ別れにならむかちも迷ひ」
があったので紹介しておく。
副詞「とても」が状態を示す語となったのは、どのような経過からか考えてみた。
副詞「とても」のもともとの意味として使われていた、“どのようにしても”、は江戸時代で、“いくらやってみても”へと移行していったのは述べてきたところである。これが、“どんなに、どれほど、”という内容へ変化して、叙述されることを強調する性格を有しはじめていったと考えられる。そこから、たいへんに、非常にといった状態を示す語へと進んだのだろう。
副詞「とても」が否定の意と程度の意の二つを持つようになったといえるのは、昭和からだといえる。
ここで、程度副詞の定義を『国語学大辞典』(※注87 『国語学大辞典』国語学会編 東京堂)に拠ると、程度副詞とは「状態性の意味をもつ語にかかって、その程度を限定する副詞。結びつく相手すなわち状態性の意味をもつ語は、品詞としてはいろいろなものにまたがる」とされている。
「とても」は程度を示す副詞として位置を固め、非常に、大変という程度が甚だしいことを示す意味を得た。
副詞「とても」を多く取り入れた文章の作品は、『斜陽』(太宰治)(※注88 注82同)であった。この中で程度を示す「とても」がどのような語についているか調べてみた。
『斜陽』(太宰治)※アイウエオ順
・いい気持ち ・いいところ ・生きておれない ・生きておれないくらい 生きていけそうもありません ・生きていけそうもない ・生きていけやしねえ ・生きにくい ・いやがって ・言われない ・美しい ・うれしかった ・うれしく ・うれしそうに ・おそろしい ・おそろしく ・恐れて ・落ち着き ・可愛がられて ・可愛らしく ・考えられない ・消えそうもなかった ・気がかりで ・気持ちよかった ・気力はない ・消すことはできない ・元気 ・心細く ・寒そう ・重大らしい ・ずるい ・楽しそうな ・たまらない ・たまらなく ・だめだから ・駄目だった ・駄目だね ・ダメなの ・附き合い切れない ・出来そうも無かった ・出来ません ・なごやかな ・貧しい ・まねられない ・無理だろう ・(お)優しく ・優しくて ・安いもの ・よく出来て ・(お)若くて ・悪いの?
すぐ気がつくであろうが、どれも感覚的であり、細かい比喩などはない。つまり、程度副詞として使用される「とても」は、感覚的で詳しく状態を明示することの少ない文章中に現れやすいと考えられる。その理由は、主観的な要素を多分に持った語だからである。
使用する側の人間が思ったこと、感じたことをぱっと言うときに、程度副詞「とても」は出てきやすい。逆に言えば、説明的な文には少ないことになる。詳細な状況説明や、擬態、たとえをふんだんにまぜたりして、細部まで明確に表そうとしている文章に少ないわけである。
そして、感覚的であるということは、口語性、話し言葉的であり、文語体であるなど堅苦しいものにも少ないこととなるだろう。
また、主観的でなく客観的に事実のみを淡々と述べる文章にもあまり出てこないはずである。
ただ、説明文に使用される「とても」は全く無いわけではない。その場合は、仮定条件のもとで否定を導く「とても」であることが程度副詞「とても」よりも比較的あるだろう。
文語体でも「とても」は出てくるが、これは連語「とても」であることが多い。
副詞「とても」は口語性の強い語であることは、中世、近世を通して庶民的文学に広がっていることからもわかるであろう。
中世から近代までを通して、「とても」という副詞が使用されている文は会話が最も多い。謡曲・狂言を除き、中世から近代までの集めた一九七の副詞「とても」の用例中、会話で使用されているのは百例、心話では六八例、地の文では三三例であった。同様に、「とてもの事に」は、地の文に一例あるのを除き、全て会話文で使用されている。「とてもかくても」は、四七例中二三が会話、十三が心話、十一が地の文であった。
次に、「とても」に使われている漢字について、少々興味を持ったので、調べてみた。あまり深く探求できなかったが、参考までに述べておく。
普通「とても」は仮名で書かれているが、漢字をあてるとき、「迚」、あるいは「迚も」と記される。「迚」は『大漢和辭典』(※注89 『大漢和辭典』十一辵部 諸橋轍次)(十一辵部)に、
【迚】38773[國字]とて。〔和漢三才圖會、藝才、倭字〕迚、謀難 如 之何 覺悟之詞也、與 雖 然義想近。
(一)として。(二)とても到底。(三)とも。さりながら。雖も。(四)と言つて。(五)と思つて。
とある。
また、『角川漢和中辞典』(※注90 『角川漢和中辞典』角川)では、
4【迚】辵4|とても国字
[解字]会意 辵しんにょうと中とから成り、いずれともきめかねて、中途でゆきつもどりつする意をいう。
とある。一方、『漢語林』(※注91 鎌田正・米山寅太郎『漢語林』大修館書店)の解字には、
[解字]会意。辶(辵)+中。途中まではともかく、しまいまでは、とても行きつけないの意味から、とてもと読ませる国字。
とあった。各辞典の解字からみて、「とても」が使われはじめて早い時期、おそらく「とてもかくても」同居していた頃にあてられていたのではないだろうか。
近代のはじめで用いられることのあった、「到底」、「到底も」は意味の上であてたのであろう。打消、否定の意味で使われる時にのみあった。「兎ても」とするのは、「とても斯くても」を「兔とても角ても」と書いたのと同じ種類であろう。「兔に角」、「兔も角も」、「兔も有れ角も有れ」、「兎角」、「兔や角」、といった例もあるので、「と」に「兔」を、「斯く」に「角」をあてたのである。「と」はあのように、「かく」はこのように、の意味で使うから、漢字の意味とは関係がないあて字であろう。
他にも、近世の用例に「とて物ことに」があったが、これも音だけあわせて「物」を使ったのだろう。
2022/1/23 訓点を追加しました