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しばらくの間、ヴェルニーナは固まっていた。
少年が出て行った扉をぼんやり見やったまま、その目の裏ではあの笑みが焼き付いていて、頭の熱がいつまでも引きそうになかった。少年のあの微笑みが、どういう意味をもっていたのかという考えは、当然浮かんではくる。しかし、そういったことの経験をこれまで積めなかった彼女は、そこから先に考えをすすめる勇気が持てなかった。
ずいぶん前にあきらめ忘れてしまっていたその熱で、喉がつまるような苦しさを感じた。だけどそれが嫌かというとそうではなくて、心地よくもあった。
夢心地のヴェルニーナは、やがて計算を終えめどを立てたリズリーに現実世界に引き戻された。商談はあっという間におわり、まるではじめから決まっていたかのように契約はまとまった。
もはやヴェルニーナに買わないという選択肢は存在しなかったので、リズリーの見立て通りに必然の流れであった。
初対面で彼女を怖れもせず、あまつさえ彼女にむかって笑いかけてくれる男性はこれまで一人もいなかった。リズリーのように、一見自然な笑顔をたやさない剛の男も何人かいたが、ヴェルニーナはそれらの笑みに含まれる違和感を悲しくも見破ってしまえたのだ。
これ以上の好条件がこれから先果たしてあるだろうか。
あるわけがない。
いや、これこそ最後の希望に違いない。
桃色の反芻から現実にもどったヴェルニーナは、その反動から妙な運命観にとりつかれたのか、勢いのまま話をすすめたのだった。
結果はほぼリズリーの予定通りに話が運ばれたのだが、金払いのよい顧客の足元を見て露骨に値をつりあげるようなこともせず、穴無し用の商品を継続的に購入する約束を盛り込んだだけで、ヴェルニーナとしてもほぼ不満のない内容だった。
大切にしていることを示すために良い服を着せてあげるべき、というリズリーの勧めに従って、上等な服を一緒に購入したのは口車に乗せられた気がしないでもなかった。
戻ってきた少年は、上質の白い布に細かい刺しゅうが施された仕立てのよい服を着ていた。
襟元にはきれいな青い石が縫い付けられていた。
リズリーの見立ては、さすがの目利きといえて小柄な少年によく似合っていた。青は騎士様の眼とおそろいですね、という文句にいともたやすく乗っかったのだったが、これなら悪くないと思った。
結局、ヴェルニーナにとって不満な点はなくなってしまった。
少年が部屋の中に入って立ち止まると、ヴェルニーナは少年に腕輪をはめるべくゆっくりと歩み寄る。主人として最初の大切な仕事であるから、毅然として立場を教え込むように行うべし。とくに今回は言葉が通じない相手であるからわたわたとしないように、という意味の注意をリズリーから受けていた。
ヴェルニーナはその言葉に従って、なるべく堂々とゆっくり少年に歩み寄り、片膝をつくように身をかがめた。小柄な少年ではあるが、そうするとヴェルニーナのほうが低くなりやや下から目をあわせることとなる。
やっぱりとてもきれいな瞳をしてる……
見惚れてしまいそうになりつつも、気合を入れて平静を装った。不用意に自分から目をそらさないように、とも言われていたのだった。
そしてヴェルニーナはおもむろに手のひらを差し出してみた。本来は口頭で命じるところであるが、一応作法となっているのでやってみただけであった。
すると少年はぴくりと反応して、ちょこんと手をのせてきた。