第312話 フログの選択
明朝、私たちは支度を済ませ宿を出た。
玄関先ではハザンの姿があり、どうやら昨日ギルドで依頼を受けたらしく、早くも出立するところだった。
「また何か面白いことがあったら声を掛けてくれよ、兄弟」
「あぁ。頼りにしてるよ」
二カッと笑い、ハザンは豪快に手を振りながら通りへ消えていった。
その背中を見送りつつ、私たちはロートの店へ向かう。
「待ってたゲロ……」
店の前には既にフログが立っていた。
だが――その顔に覇気がない。まるで夜の間に何かを考え込み、まだ答えが出ていないような、そんな表情だった。
「何だ? 折角呪いが解けるというのに元気がないな」
「そ、そんなことないゲロ! やっと人間に戻れると思ったら心がゲコゲコするゲロ!」
「心がゲコゲコ……とは?」
「謎なんですぅ」
アレクトが小首を傾げ、メイが真顔で頷く。
確かに謎めいた表現だが、そこには確かに揺れる気持ちが透けて見えた。
そんなフログを気に掛けながら、私たちは店内へ入った。
「おはよう、ロート。それで、薬の方は?」
「あぁ。出来ているぞ――これが【乙女の接吻】だ」
ロートが慎重に机の上へ置いたのは、掌ほどの小瓶ひとつ。
中には淡い桃色の液体が静かに光を放っていた。
「……これゲロ?」
フログが首を傾げる。思ったよりも小さな瓶に戸惑いを隠せない様子だ。
「そうだ。これ一本で一人分の呪いを解くには十分な量がある」
「そ、そうじゃないゲロ!」
フログがぐっと身を乗り出す。ロートが少したじろぐほどの勢いだった。
「落ち着け、フログ」
「落ち着いてなんていられないゲコッ!」
「何が不満なんだ?」
「申し訳ありませんロート様。実は――」
メイが代わりに説明した。蛙の呪いを受けた者がもう一人いること。あの兄妹の父親を救いたいというフログの願いを。
「……なるほど。他にも救うべき相手がいるというわけか」
ロートは一度目を伏せ、静かに首を振った。
「だが、それは無理だ」
その言葉に、フログの体が凍りついた。
「ど、どうしてゲロ!?」
「単純に――素材が足りない。もう一本作るには、月光石が追加で必要なんだ」
「げ、月光石……」
その単語を聞いた瞬間、フログが膝から崩れ落ちた。
私は思わず目を閉じた。やはり、そうなると思っていた。
「他の素材ならまだ手があるが、月光石だけは代えが利かない。光を失った石では、薬の核となる力を生み出せん」
「そ、それなら追加で取りに行くゲロ!」
懇願するフログの目には涙が滲んでいた。
ロートは苦しそうに息を吐き、しかし首を横に振る。
「……気持ちはわかるが、月光石はそう簡単に採れる物ではない筈だ」
「それでも黙ってられないゲコッ!」
フログの言葉を受け、私たちは急ぎ再びボルボ子爵領へ向かった。
◆◇◆
「申し訳ありません……月光石は現状、採掘が難しくて」
ギルドの受付嬢が困り顔で説明してくれた。
「ど、どうしてゲロ!」
「皆様には多大なご恩がありますので、ぜひ協力したいのですが……。しかし鉱山には、もう月光石がほとんど残っていないのです。ワグラートスの影響で、月の光を蓄える力を失ってしまいました。再び採れるようになるには――少なくとも満月を十回は迎える必要があるでしょう」
その言葉に、フログの肩が落ちる音が聞こえた気がした。現実は非情だ。
「そんな……十回って、一年近くじゃないですかぁ」
「それまで待っているのは、幼子には厳しいでしょうね――」
アレクトが口を覆い、メイが悲しげに眉を下げる。
その時だった。
「あっ! 蛙のおじさんだ!」
「戻ってきてくれた!」
ギルドの扉が開き、件の兄妹が駆け込んできた。
受付嬢によると、彼らは毎日のようにここへ通い、フログの帰りを待っていたらしい。
「蛙のおじさん、薬はできたの?」
「パパ……元に戻れる?」
無垢な瞳で見上げてくる二人に、フログは喉を詰まらせた。
しばし沈黙――そして。
「……ゲコッ。もちろんゲロ。二人のパパを治せる薬が、ちゃんと出来たゲロ!」
そう言って、フログはポケットから【乙女の接吻】の小瓶を取り出した。
まるで宝石を掲げるように高く掲げ、兄妹に笑いかけた。
子どもたちの顔がぱっと輝く。
フログは静かにケージの中の蛙へ歩み寄り、薬を掛けてあげた。
液体が淡く光り、蛙の身体を包み込む。光が弾けた瞬間――
「……パパっ!」
「あぁ……お前たち。無事でよかった……!」
「うわぁああん! パパぁぁぁ!」
兄妹が泣きながら父親に抱きつく。その光景を、フログは一歩引いた位置から、まるで我が子を見守る父親のように見つめていた。
「本当に良かったのか、フログ?」
私は静かに問う。
「……問題ないゲロ。私には、こんな姿でも受け入れてくれる家族がいるゲロ。だけど――あの兄妹を守れるのは、あの父親だけゲコッ」
彼の言葉は、どこか吹っ切れたように穏やかだった。
救われた父親は涙ながらにフログへ何度も頭を下げ、兄妹も「ありがとう!」「大好き!」と声を揃えていた。
「ふぅ……目的も達成できたし、帰るゲロ」
背を向けたフログの姿に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「フログ……正直、なんでお前とあんな出来た奥さんが一緒になったのか不思議だったが――」
「な、何を言うゲロ!」
「今なら少しわかる気がするよ」
アレクトも頷く。
「そうですぅ! 私も感動したのですぅ!」
「見直しましたよ、フログ様」
「……フフッ、そんなこと当然ゲロ~~~!」
いつもの調子でフログがはしゃぐ。
でもその声の奥には、どこか誇らしげな響きがあった。
やれやれ。やっぱりこいつはお調子者だ。
だが――だからこそ、誰よりも優しい男でもあるのだろう。