1-8話 さらなる問題が押し寄せて
翌日の朝、青年、佐々木出雲は酷く憂鬱な気分で起床することになった。
盛大に寝坊したのだ、言い訳のしようのない程に。
昨日の命を懸けた戦闘が、肉体的にも精神的にも疲労を強いたからだ。
初めての戦闘、トラウマとの対峙、それと正体不明の力。
どれもが酷く色濃い出来事で、どれか一つでもかなりの負担を強いる筈のそれらが、必要であったからとはいえ、一度に詰め込まれたのだ。
これで疲労を残すなという方が、無理な話だろう。
しかし、しかしだ。
家に辿り着くなり、糸が切れたように意識を失った出雲と同じく、意識を取り戻す事の無かったリカを寝床まで運んだのは誰だろう。
確実に怒っていて、説教一直線だったのは誰だろう。
そして、それを気絶という形で回避した自分に鉄槌を下すのは誰だろう。
そんなのは火を見るよりも明らかだった。
「こ、殺されるっ…、絶対捻り潰されるっ…」
フカフカの布団の上で、頭を抱えてこれから自分に襲い来るであろう惨劇に、ガタガタと体を震わせながら、身支度を簡単に整える。
外を見ればわずかに暗さを増し始めている。
あれだけボロボロであったリカは家事をやれないだろうし、やるとしたら自分しかいないのだ。
遅くなったとはいえ、まだきっとやることは残っているだろう。
そう思って、慌てて部屋から飛び出せば、すぐに目に入ってきたのはリカの小さくなって物陰から何かを覗き込んでいる姿だった。
元気そうなリカの姿にほっとする間も無く、背後の出雲の存在に気が付いたリカにより人差し指を口元に持ってきて静かにするようにと指示される。
了承の意を込めて両手で口元を隠すように動かすと、笑いを堪えた顔でリカは出雲を手招きをする。
何事かと思って近付いて見れば、リカが顎で指し示した先にはエリィの後姿がある。
カタカタと、何かの作業を行っている彼女の後姿はなんだか見た事の無いくらい御機嫌な様な気がした。
そんな訳ないだろうと目元をこすってもう一度、覗き込む。
「フフフーン、フフフン」
何度見ても、小躍りして手元にある使い終わった皿を洗い鼻歌を口ずさむエリィの姿が消えることは無い。
肩に掛かった絹のような金髪は、エリィの気持ちを表すように小刻みに跳ねる。
愕然とする出雲の横で、一緒に覗き込んでいたリカが蕩けてしまいそうな笑顔を浮かべながらウットリとそれを眺ている。
「ああ、あんなに上機嫌に家事をして…。私はっ、胸一杯っ…」
「ええ…」
ついにはぐすぐす泣き始めたリカに軽く引きつつ、もう一度確かめるようにエリィの姿を確認する。
相も変わらず、上機嫌なエリィはいくつかの魔法を並列に発動させて手際よく家事を済ましている。
確かに、エリィのあんな姿は珍しい。
あれほど機嫌の良い彼女を見たのは初めてだろう。
優しげに微笑みながら作業を進める彼女の綺麗な鼻歌に聞き惚れてしまう。
舞うような小躍りで揺れる金色に、精霊のような美しさを感じて見惚れてしまう。
そして、次々と割れ始めた食器の数々に、夢心地であった気分が一気に現実に引き戻される事となる。
「「「あっ…」」」
思わず三人の言葉が重なった。
あわあわと、割ってしまった皿を片付けようとしているエリィの後姿を眺めつつ、ふと頭を過った可能性を口に出さずにはいられなかった。
「り、リカ? エリィって、もしかしてだけど、そんなことは無いと思うんだけど、不器用?」
「…あはははは、そんなわけないじゃん。魔法を扱う時の精密な術式見たことないの?すっごい器用なんだから」
リカの誤魔化すような笑いも、新しい皿が割れた音に簡単に罅が入る。
二人を覆う気まずい沈黙の中で、出雲は白い目をリカに向けた。
「へぇ…」
「…ほ、ほら、良く見てみてよ。落として割ってる訳じゃないよ。手に持ったものの力加減を間違えてるだけなんだってっ! ウチのエリィに限ってそんなまさか」
お前は過保護なお母さんかと言いたくなるようなそんな言い訳じみたことを必死に言い募るリカを嘲笑うように、無慈悲に調理場は破壊されていく。
涙で潤んでいたリカの目が徐々に光を失っていくのを間近で見て、彼女の気持ちを察した出雲はそそくさと道を譲る。
ふらふらと歩き出したリカが向かうのは、割れてしまった食器をどうしようかと動揺しているエリィの元で、これから先の未来を出雲は固唾を飲んで見守った。
「見てたなら…声掛けなさいよ…」
ようやく落ち着きを取り戻したエリィが最初に発したのは、そんな言葉だった。
エリィの顔は羞恥により真っ赤に染まり、乱れた髪があらぬ方向へ跳ねている。
リカの無言の手助けにより、事なきを得たエリィではあったが、彼女の精神面には深い傷跡を残したのは明らかである。
「いやあ、ねえ?エリィが御機嫌に家事してくれてるのが可愛くて、ついね」
「僕は、ほら、あんな上機嫌なエリィさん見たのは初めてで。動揺しちゃった、と言うか…ご、ごめんなさい」
「っ、良いわよ別に!! リカは後で叩くから覚悟しなさい!!」
「そんなー」
コロコロと笑うリカに、それを歯軋りしながら睨み付けるエリィを見て、ようやく自分があの地獄から解放されたのだと実感を持つことが出来た。
何でもないようなこの光景が、あの命を懸けたような闘争からしたら、なんて優しいのだろうと感じる。
「でもさ、ほんとエリィが来てくれて助かったよね。正直、ここが私の死に場所かなとか思っちゃってたし。ねえ出雲?」
「うんうん。ほんとに来てくれた時は安心したよ、リカを気絶させたときはどうなることかと思ったけどね」
「あれは、意識を保ってたらどうせ無理して怪我を増やすと思ったから、先に何もできないようにしただけよ。感情に流されたわけじゃないわ。…というより、貴方の名前、出雲って言うのね。なに、記憶が戻ったの?」
「あ、それは全部ではないんですけど、簡単に自分の経歴っていうか、自分の名前とか簡単なことだけなんですけど…」
「名前はね、佐々木出雲って言うんだって、珍しい名前だよねー」
「珍しいっていうか、そんな名前の作り聞いたことないんだけど。…本名よね?」
「ま、まごうことなき本名です!」
疑わしそうなそんな視線に、声を張り上げて正しさを主張する。
証拠を出せ、なんて言われてもそんなものは無いし、ようやく蘇った記憶を疑うなんてことはしたくなかった。
嘘なんて見抜いてやると言わんばかりのエリィの凝視を真っ向から受け止めていると、にやにや笑っていたリカが静止を掛ける。
「いや、エリィ、出雲の記憶は間違いなく真実だよ。エリィが心配している事は無いから、安心して?」
「ふん。リカが言うなら、それは間違いは無いんでしょうけど、でも、考えなければならないことが出来たと思わない?」
「えっと、どういうこと?」
意味深に目を細めて同意を求めてきた彼女の意図が分からずに、首を傾げると、嬉しそうにエリィは指先を上に向けてくるくると回す。
案外彼女は説明が好きなのかもしれない。
「どうして治療では治らなかったその記憶が、今になって治ったかってことよ。それも、条件付き、断片的な回復。どうしてそんなことが起こるのかしら。何か特別なこと、きっかけが必ずあるはずよ。それを、究明しなければならないと思うの」
「きっかけ…」
「そう。それが分かれば、他の失った記憶も取り戻していける筈よ。そうすればいずれ、足りないものを取り戻すことが出来る」
なるほど、とエリィに言われた言葉を反復させる。
彼女の言っていることは確かに的を射ているように感じる。
もし、それが正しくないにしても、今後の自分の指針としては十分すぎるものとなるだろうと思うと、ここでそのきっかけを考えることは非常に有効な手なはずだ。
「確かに、そのとおりだね…。うん、そのきっかけが何か考える必要があるか」
「きっかけを考えるなら、普段やらなかったことを思い出せば良いんじゃない? とは言え、ほとんど結果は出てるような気もするけどね」
「…さっき言っていた変異パズズの討伐? 確かに、それが思い出したタイミングとしても合致するのかもしれないわね。あとは、考えられるとしたら、その剣か」
ちらりと、出雲が携えている古びた刀に目をやる。
扱っている時とは異なる、ずしりと重いその感覚に、それが実態があると再認識する。
あの炎の中から溶け出すように現れたこれが、ただの刀でないことはすでに把握済みだ。
これの影響で記憶が戻ったというのは、確かに考えられる要素であるようにも思う。
「あとはね、ボルボワの実を口に突っ込んだよ」
「そう、ボルボワを…、えっ…生で?」
「生で」
「えっ」
同情するような視線をエリィから向けられて、やっぱりあれが直接口に含むようなものでないのを思い知らされる。
緊急時ではあり助かったのは事実だが、あれはもう絶対に口にしたくない。
「でもまあ、その可能性は薄いかな。変なこと言ってごめんね」
「…いえ、出来事全てを把握するのは大切なことよ。些細なことが物事の核になっていることだってままあるから。考える場に、不要な意見というのはありはしないわ」
「でも、きっかけとなりそうな大きな出来事は二つくらいかな」
「後はその可能性を考慮して、試していけばいいだけね。まずは簡単に試せそうなその剣から行きましょうか」
よし来た、と言いつつリカが出雲ににじり寄る。
視線は出雲の携える古刀で固定され、肉薄してくる彼女の威圧感は尋常ではない。
何をされるか分かったものではなかった。
「ちょっ、ちょっと待って!リカこれを解体する気満々でしょ!?」
「どうかなー? その誰かさんが、ちゃんと受け答えしてくれるなら、そんなことしなくていいんだけどなぁ」
「だ、誰かさんってっ」
「…その姿の無い、誰かさんの事よ。聞けば、貴方を暴走させたっていうじゃない。それが悪意があったにしろ、無かったにしろ、その釈明は欲しい所だわ」
どこか楽しげに体を揺らしながら近づいてくるリカとは異なり、エリィの視線は鋭い。
リカがどんな風に説明したのか、気になるところではあるが、今言っていることに矛盾が無いのを思えば、からかう程度に悪意を持った伝え方をしただけなのかもしれない。
もちろん、それだけでも被害を被ることになるのは出雲なのだが。
何かを訴えるようにカタカタ動き出した古刀を抱きかかえて、彼女達から距離を取る。
こいつらの目は、冗談を含んでいない。
確実にやると、出雲達は理解した。
「まてまてまてまてっ!! ほんとに待って!それ以上こっちに来ないで!?」
「ぐへへ、なに言ってんの出雲。そこに未知があるなら、探求したくなるのが人の性ってやつでしょ? ねえ、エリィ?」
「………そうなんだけど、どうしよう…今はリカに同意したくない」
「ほらね、エリィもこう言っていることだし。そもそも出雲に拒否する権利は無いのさ!!何故かって? 散々迷惑掛けられた私が、それが必要だって言ってるからね!!」
「このちびっこっ!? やっぱりえげつないんだけど!?」
「さあ観念しろや、オラァ!」
ついに壁際まで追い詰められた出雲に、手をわきわきさせたリカと、若干リカに引いているエリィが近付いてくる。
手の中の古刀の抵抗するような震えはどんどん激しくなるものの、それを抱えている出雲の心は少し、折れ掛けていた。
彼女たちに逆らえる気がしない。
もう、いっそのこと明け渡してしまおうかといった邪念さえ頭を過って。
目の前まで迫った彼女たちの手をただ見つめていた。
「止めんかーーー!! このっ、無礼者どもーーーー!!!!!」
その声が響いたのは、そんな時だった。
もうほんの数センチで、手元の古刀が奪われてしまう距離となって、何かを訴えていた古刀の振動が、出雲の手に収まらない程に大きくなり何かを放出したのだ。
現れたのは、小さい人影。
リカと同程度の背丈に、古めかしい着物を着た黒髪の子供は、腰に手を当てて出雲の前に立ち、心底信じられないとでもいうような表情でエリィ達を見上げる。
「ええい、さっきから黙って聞いていればっ! 何が解体するじゃ! 何が釈明じゃ! 儂を誰と心得ておるっ!! とっとと頭を垂れんか、このっ無礼者どもぉっ!!!」
少女の尊大な物言いに圧倒される出雲は、手元の振動しなくなった古刀を見下ろす。
え、今古刀から出てきた?なんてことを出雲が考えながら、もう一度黒髪の少女の背中を見遣る。
さらさらとした後ろ髪が揺れて、漆のような輝きが光を反射してきらきらと光る。
どこかで見た様な既視感を覚える彼女の姿は、けれども覚えているあの姿からはあまりにかけ離れている。
出雲が未だに何の反応も起こすことが出来ずにいても、目の前に状況は刻々と変化していく。
尊大な態度であった目の前の黒髪の少女の後姿がほんの数秒もしないうちに、かたかたと震え始め、涙目で出雲へと振り返ったのだ。
理由は分からないが心が折られたのが分かった。
何事かと、少女の背後を確認すれば、エリィとリカは完全に戦闘態勢に入っており、恐ろしいまでに戦意をばら撒いていた。
つい先ほどまでの、楽しげであったリカと気だるげであったエリィの変貌ぶりに、一瞬言葉を失うが、すぐに両手を広げてしがみ付いてきた少女を庇うように二人の前に立ち塞がる。
「ちょっ、ちょっとっ、小っちゃい子供じゃん!?そんな今にも人を殺しそうな雰囲気を出さなくてもっ!?」
「出雲」
にっこりと、その雰囲気にそぐわない程満開の笑顔を浮かべて出雲の言葉をさえぎる。
「邪魔」
「…ですよねー」
「ちょっ!?折れるの早すぎじゃろ!?」
出雲はしがみ付いたまま揺さぶってくる少女から目を逸らす。
弁護の内容も思いつかないし、何より彼女たちに逆らうのが怖すぎる。
「突然湧いて何を言ってるんだか。良いから、酷い事はしないから、こっちに来なさい」
「嫌じゃぁ!! お主らの雰囲気怖すぎじゃあ!! 絶対儂の偉大さを理解しようともしておらんの分かるし!?」
「ははは、そこも含めてちょっとお姉さん達とお話ししよっかぁ。大丈夫だよ―――すぐ終わる」
「なにっ、何なの!? 戦闘民族か何か!? 嫌じゃぁ!! 出雲ぉぉぉ、見捨てないでくれたもぉぉぉ!!!!」
もはや形振り構わない少女の姿に、このまま彼女達に明け渡すのはなんだか申し訳ない気分になってくる。
黒髪の少女。
美しい少女。
古めかしく汚れやほつれ等も見受けられない衣装を身に纏い、傷一つない肌やその言葉遣いから、高い立場にいる存在であることは間違いない。
一見、見覚えのない姿であるが、彼女がどんな存在か、それは何となく出雲には分かっていた。
古刀から出てきた事、自分の名前を知っている事、それと幼さがあるものの聞き覚えのあるその声。
涙で顔をびちゃびちゃにしたその子の姿からは信じがたいが、それらから導き出されるその子の正体は一つだった。
「えっと、貴方は僕の記憶の中に居た声の人…ですよね?」
エリィ達が少女を連行しようと体を抑え込んでいるところに、出雲はそう声を掛けた。
記憶の中を把握していないエリィは、何行っているんだコイツと言わんばかりの視線を向けてきたが、リカは眉をひそめた。
そんな中で拘束されかかっていた黒髪の少女は、出雲の言葉に天からの救いであるかのように飛びついてくる。
「そう、そうじゃよ! 儂じゃ! あ、私です! 愛しい子よ! よくぞ気が付いてくれました!!」
「コイツ…、一人称を違和感ないように変えやがったんだけど」
「え、じゃあこれがリカが言っていた出雲の中に居る神秘なの? …なんだか聞いていたのと違うんだけど…」
「た、多分?」
「なにを言うのです!こんなに神々しいっ、人の味方であるような存在は居ないのですよ!!さあ、その手を放しなさい!!即刻私を開放しなさい!!それが今あなたたちの出来る唯一の善行であるのです!!」
「……とか言ってるけど?」
「…ううん、個人的には、もっと本格的な話し合いをしたくなってきたんだけど。まあ、多分、出雲が言っていることは間違ってないからなぁ。判断は出雲に任せよっか」
三人の視線が出雲に集まる。
特に黒髪の少女からの視線が期待に満ち溢れていて。
その視線に応えようとしたわけではないが、あの場で救ってもらったのは事実であるから、彼女があの人であるならあまり酷い事はしたくなかった。
「うん。出来れば、この場で順を追って話し合いたいかな。力ずくは、無しの方向で」
「お、おおお!?無罪放免!!儂大勝利!!!信じておったぞ、出雲!!」
「はぁ…、じゃあ、そうしますか」
「そうね、無理に聞き出す必要が無いならそれに越したことは無いものね。それじゃあ、あらかじめ話していた通りの事を一つずつ説明して貰いましょうか」
喜び跳ねる少女の拘束を解くと、少女は慌てて出雲の近くまで駆け寄り、その背に隠れる。
がっちりと握り込まれた指に、梃子でも動く気が無い事を実感しながら疑心を隠そうともしない目の前の二人をどうやって諌めようと思考を巡らせた。
「…もう一度聞くわよ。貴方は何なの、彼はどういった立場の人で、どういった経緯でここにいるのかしら。しっかりと、大きな声で、端的に言いなさい」
「ぜーんぶ分からぬ!!」
「…そう」
進むかと思われた出雲の素性確認は、即座に停止した。
いっそ清々しいまでに胸を張った黒髪の少女の態度に、普段は冷徹なエリィも困ったように戸惑うような態度を見せている。
「儂の最初の記憶は出雲が暗闇の中で儂を見付けてくれた時から始まっておるのじゃ! 儂が何者か、何が出来るか、そもそも出雲の素性なんてわからんのじゃ!!」
「…なら、無礼者というのは…?」
「それはあれじゃ、儂が上などない程に高貴な存在という自負があるからじゃよ!」
「…そう」
ふふんと胸を張る黒髪少女のほんの少しも揺らがない態度に頭を痛めながらエリィは溜息を吐いた。
古刀から現れた彼女は、何故だか何も覚えていないと語り、エリィ達の質問に対してまるで期待した返答を返さない。
困った事態ではあるものの、出雲にとって疑心に満ちた視線を投げかけていた二人に対し、こうも堂々とした態度で相対する少女の姿は感心してしまうものがある。
自分ではこうもいかないだろうなと思いつつも、出来れば腕を握る力は弱めてほしいと思い、何度か離してくれるように優しく叩いてみても離れようとしない。
少女の態度に、心底困ってしまった出雲とエリィが助けを求めるようにリカに目を向けると、肩をすくめて応じた彼女が笑顔で近付けば、黒髪の少女は眉間に皺を寄せむっつりと頬を膨らませてた。
「そっかー、全部わからないかぁ。ごめんね、怖い思いさせちゃって、私達も無理に聞き出そうとは思っていないから、分からないならそれでいいよ」
「…」
「私はね、リカって言うんだ、好きなように呼んでくれて構わないからね。君の名前を教えてほしいな」
むすっとしている黒髪の少女に向かって、優しげに微笑みながら語り掛けるその様は、その一部分だけ見れば微笑ましい光景なのだろう。
だが、同じくらいの小さな背丈の二人で、全身を覆う包帯の上からゆったりとした服を着た少女と床に引きずってしまうような程裾の長い着物を着た少女であり、さらに言えば、どちらも癖が強い事から、今にも相手の喉元に噛み付くのではと思ってしまうような緊張感のある場面へと早変わりする。
固唾を飲んで見守る出雲達の前で、じっとりとリカを観察していた黒髪の少女は、しばらく時間を掛けてから重い口を開く。
「うへえ…、その笑い気持ち悪いのじゃぁ…」
「「!!??」」
投げ返されたのは思わぬ罵倒。
驚愕の表情を浮かべる出雲達に、リカは笑顔のまま青筋を立てた。
「ふふふ、そっかぁ。私のこの顔は気持ち悪いかぁ。うん、自分では意識してなかったけど、ちょっと気を付けてみようかな」
「うむ、そうするが良いぞ、ちびっこ」
「くふふ、…それで貴方の名前は何て言うのかな。教えてくれると嬉しいな」
「だから、分からぬと言っておるだろう。なーんも覚えとらんのじゃ」
「…そっか、それは大変だね」
「うむ、儂も困っておるのじゃ」
空気が緩んだと錯覚したのは一瞬だった。
「んなわけあるかぁ!!??」
「のじゃ!?」
「つい昨日まで知ったような口ぶりしてたでしょうがっ!! その言い訳で通じようなんて、片腹痛いわぁ!?」
「の、の、のじゃ!?」
「のじゃのじゃうるさい!! ちゃんと分かるように解答してみろやチンチクリンがぁ!!」
「ふ、不敬であるぞぉぉぉ、無礼者ぉぉ!!??」
出雲を回り込むように掴みかかったリカに、彼女は簡単に床に転がされマウントを取られる。
いっそ鮮やかなまでのその動きは、積み上げてきた年月を感じさせるほどであり、出雲は思わずその原因であろうエリィへと目を向けてしまう。
小さい二人の戦いは、一方的なものである。
いともたやすく少女を転がしたリカはそのまま両腕を足で挟み込むと、少女の頬を遠慮の欠片もなく引っ張り始めた。
足をばたつかせて抵抗する少女をものともせず、リカの猛攻は続いていく。
「ほらほらほら、どうしたのおちびちゃん!! こんな一方的にやられて悔しくないのー?」
「うぎぎぎっ!? うぐぐぐううううう!!???」
「あっはっは、何と言ってるか分からないよ? ごめんなさいすれば、許してあげてもいいんだけどなぁー?」
「うぎういぎぎぎ!!?」
ぶにぶにと、付きたての餅のようにその頬を伸ばされ続ける少女は、最初こそ馬乗りになったリカを振り落そうと暴れていたものの、一切動じない姿を見てその抵抗も徐々に大人しくなっていき、その目に大粒の涙も浮かび始めた。
嗜虐的な笑みを浮かべたリカは少女のその様子に、完全にそっちのスイッチが入ってしまっているようであり、普段はエリィに対して行う勝てない戦いのため、今の一方的な戦いに酔っている雰囲気さえ感じさせる。
「う、うぎいぎぎぎっ…!!」
「ちょ、ちょっとリカ。それ以上は…」
「何言ってるのエリィ、コイツの生意気さを見たでしょ? ちゃんと謝ることをしない限り、私は、コイツを、いじめ続ける!」
「だ、ダメだって本当にっ!」
少女の流れ始めた涙を見て、ようやく慌て始めた出雲がリカを後ろから羽交い絞めにして阻止すると、想像に反してリカは大人しく捕獲される。
すんすんと鼻を鳴らす少女から距離を離し、少女とリカの間に体を挟む形でお互いから姿を隠せば、状況を察したエリィが泣き崩れる少女に慰めの言葉を掛けているのが聞こえてきた。
ちらりとそちらの状況を確認しながらも、手元に居るリカに対して苦言を呈す。
「いきなり実力行使なんて、らしくないよリカ。腹が立ったのも分かるけど、もう少し穏便に…」
「…」
「…リカ? 聞いてるの?」
「…ねえ、あれさ。すっごい弱かったよ」
「え?」
返答の無いリカに再び問いかければ、内緒話をするような小さな声でそんな言葉を返してくる。
見れば彼女は、思案するように指を顎に添えて地面を見詰めている。
ぼやくようにつぶやいた言葉を止めることなく彼女は続ける。
「凄い非力だった、あの背丈の子供としても異常なまでに。私が押し倒した時も、頭を打たないように補助しなければそのまま大けがしてたかもしれないし、人としても神秘としても無力にも程がある」
「…もしかして、それを計るためにわざと?」
「―――まさか、ムカついただけだよ。…でも、アイツが言っていることもあながちウソじゃない…かも?」
そう言って、リカは出雲の背後を指差した。
つられてそちらを見れば床に転がる古刀が目に入る。
「あれ。あれに力を使いすぎて、もう何もなくなってしまったんじゃないかなって、考え過ぎかな?」
「―――そんな、訳」
ふと、あの時の事が思い出される。
『―――貴方だけは、なんとしても』
その言葉は、どれだけの想いが込められたものであったのだろう。
今は、きっと分からない。
それに応えることが出来る人は、もういないのだから。
「分からんもんは、分からんのじゃぁぁっ!! なんで分かってくれんのじゃぁぁっ!?」
幼い子供の泣き声のような、悲痛に満ちたその叫びに思わずそちらを見れば、不遜と言った体であったはずの少女が顔をくしゃくしゃにして何かを訴えている。
あやそうとしているエリィの後姿は、どうしたらいいのか分からずにワタワタしていた。
そんなわけない、筈だ。
だって、目に見えなかったあの人は、そんなことをする人では無い筈だ。
誰か一人のために、何もかもを投げ打って。
それで、一人を救うなんて、それはあまりに、人間らし過ぎるではないか。
「――あれを、私は嫌いだけどさ」
「…」
「貴方は、あれの味方でいなくちゃ、いけないんじゃないかって思うよ」
そう言ったリカの言葉にぎゅうっ、と胸が苦しくなる。
絶叫するような少女の様子を、これ以上ただ見ているのは無理だった。
「泣かないでっ」
走り寄って、泣きじゃくる少女を抱きしめる。
すぐにしがみ付いてきた彼女の小ささに、言いようの無い感情が生まれる。
なんでこんなに苦しいのだろう。
そんなことをふと思う。
「ごめんね…、ごめんっ…。辛いよね…悲しいよね、怖いもんね」
「出雲ぉ、儂は分からんのじゃ…。何で…なんで儂には、何もないのじゃ…?」
「…っ」
「教えて…、教えて欲しいのじゃ…。出雲、儂らは…どこにいけばいい?」
扉が閉まる音が背後から聞こえ、この部屋にいるのが二人だけになる。
しがみ付いてくる彼女と、自分自身。
何もない二人だけが、ここに居た。
ぽつんと、彼女の声以外に何もない、静寂の中に投げ込まれて思う。
この世界で、僕たちは二人きりなのだと。
「という訳で協議の結果、その…彼女も、ある程度まで世話しましょうという結果になったわ」
「…いや、有難いんですけど…、良いんですか?」
「良いのよ。ただし、それなりに働いてもらうし、私達は私達の予定があるから、それを貴方たちのために延期することは無いとあらかじめ言っておくわ」
少女が泣き止むまでの間、出雲が彼女に言葉を掛け続け、なんとか落ち着いてきたのを見計らった二人がおずおずと部屋に入ってきて、エリィがそんなことを出雲達に言う。
鼻をすする少女を庇う位置取りで彼女達に向き合いながら、気まずそうな様子のエリィに申し訳なさを感じる。
その一方で、エリィの背後にいるリカの様子はさっきのことなど意にも解さないようで、鋭さのある目で少女を目踏みしているようであり、思わず警戒するように少女を下がらせてしまうのだが。
とはいえ、本気でリカが切り捨てようと思ったら、反応する間も無く自身の警戒など突破されるであろうことは理解していた。
だから、何とか言葉で説得できればと思う。
リカが少女に良い感情を持っていないのは確かだが、出雲に助言する程度には手助けしてくれる彼女の態度は、決して悪いものでは無い筈だからだ。
「…リカ」
「あー…、分かってるよ」
そう思っていたものの、エリィの後押しするような言葉に、リカはしぶしぶと言った体で一つ頷きを見せると、目元を少し下げて出雲越しに少女へ向き直る。
「ご、ごめんなさい…。いきなり暴力を振るったりして…」
「…」
この部屋の全ての人に注目されて、居心地悪そうに身じろぎしながらも、リカは言葉を続ける。
「か、勘違いしてほしくないのは、私が悪いって認めたわけじゃなくて、…でも、もう少し考えて行動するべきだったなって、そう思ったから…」
「んっ、良いのじゃ! 儂も悪かった! いきなり失礼なことを言えば、腹立だしくなるのも当たり前の事じゃろう、…すまんかった」
「あは、なんで貴方が謝るのさ。…変なの、…ごめんね」
おずおずと歩み寄る二人に、心なしか優しい雰囲気が一室を満たし始める。
僅かなすれ違いがあったにせよ、どちらも相手を思いやれる優しい人物であることは知っていた。
先ほどのはちょっとしたすれ違いだ。
だから、ほんの少し時間があれば、手をつなぐのは難しくないと分かっていた。
ほっとした気持ちで、二人の距離が縮まるのを見詰めながら、同じくほっとした表情を浮かべているエリィを見て、口元が緩む。
そんな中で、仲直りの証とばかりに少女が差し出した手を、何の疑いもなくリカが握ろうとして。
べちんっ、とリカの頭がはたかれた。
「「!?」」
驚愕する二人の前で、ふらふらとバランスを崩したリカが、信じられないモノを見るような目を少女へ向ける。
その視線の先に居るリカをひっぱたいた少女は、先ほどまで泣いていたのが嘘だったのではないかと思う程のあくどい笑顔を浮かべていた。
「だーれがお主なんかと握手なんてするか、うつけものがぁ!! くははっ、するとでも思うたんか? 馬鹿者めぇ!!!」
「ええええええええっ!? なにやってるんですぅぅ!!??」
「り、リカッ!? 大丈夫ッ!?」
大口開けて笑う少女を掴み掛らんばかりの勢いで止めに入った二人は、今は事態についていけないのか、呆然としているリカが動き出す前に事態を収縮させることにする。
ここは任せろと言うように視線を送ってきたエリィと頷き合い、出雲は騒ぐ少女を持ち上げてこの部屋からの退避を計る。
あと一歩で扉を潜れると思ったそんな時に、呆然とするリカの頭を撫でるエリィに声を掛けられた。
「―――言い忘れていたけど、荷物をまとめるのと長旅の心構えはしておきなさい」
真意を読むことの出来ない彼女の言葉に、足を止そうになるが、部屋から出てしまった二人を締め出すように、何らかの魔法が使われ、開いていた扉はひとりでに音を立てて閉ざされる。
背後に聞こえてくる、怒りを孕んだ聞き慣れた声におびえながら腕の中に居る少女と自分のこれからを、出雲は憂慮するであった。
エレインの家
人里離れた場所に位置する家。大陸でいうと最西端に存在して人や魔物が入らぬように結界が張られているため、今のところこの場所に住む二人以外に出雲は出会ったことがない。