1-1話 少女たちとの出会い
ふと、彼の意識が覚醒した。
びっしょりとした気持ちの悪い感覚が体中から感じられ、肌に張り付く服の感覚がさらに不快さを後押しする。
「…ここは、どこだろう?」
呆然としたつぶやきが思わず口から零れる。
知らない天井、知らない部屋、それらは布団に寝かされている自分が何故ここにいるのか、その疑問を解消するヒントに何一つ成り得はしなかった。
体を布団から起こそうと力を込めるもまるで自由が利かず、わずかに布団を揺らすだけにとどまる。
体の不調を自覚すると続けて右の手首や足の裏、首回りなどから痛みを感じ始めた。
その痛みで連鎖的に思い出すことがあった。
あのどこまでも続くような草原の中で目覚め、行く先も解らずただひたすらに進み続けたことを思い出す。
草原を超え、雨に打たれ、ぬかるんだ森を抜けた。
煌々と照らす空からの光を、美しい風景を、必死に息づく生き物たちを見た。
幾度か空から世界を照らす光が沈み、また昇った中で進み続けた。
そして、襲われたことを思い出した。
化け物に。
「…」
何の対抗手段も持たなかった獲物を自然で生きようとする肉食の怪物が襲わないわけはない。
当り前のことだ、少し考えれば分かったことだ、この場所で生きることがいかに難しいことかが。
自分の認識の甘さが露呈しただけだ。むしろ、自分は幸運だったのだろうと思う。
何の準備も、心構えもなく無様に襲われ一命を取り留めるばかりか、今に自身の状況を考えれば誰も分からない者に助けられているのだ。
これが幸運でなくてなんだというのだ。
そう自分に言い聞かせても、まるで心の中を埋め尽くす恐怖の感情は微塵も消えてくれなかった、それどころか、怪物に襲われた時の光景が明瞭に、フラッシュバックするように頭の中に映し出された。
それは…。
その怪物は、人型だった。
太く短い毒々しい色をした毛を全身にまとったそれは傍から見ても分かるほど筋肉が隆起しており、出雲よりも頭二つ分大きく強大。
梟の頭をしたその怪物はまるで表情の変化もなく、闇夜を縫うようにして襲いかかってきた。
その怪物は――――
「ああ、目が覚めたのね」
「――っ!」
そんな事ばかりが頭の中を駆け巡っていた彼は、部屋に入ってきた少女が声をかけてくるまでその存在に気が付きもしなかった。
急に現れたその少女に驚きを隠せないでいる彼の様子などまるで気にも留めず、椅子を手繰り寄せ彼と向かい合う形で腰を下ろす。
この場所の主であるかのように振る舞う彼女の態度に、おのずと緊張が走り、窺うように彼女の姿を見遣れば、そのあまりの美しさに息を飲んだ。
絹のような金髪を肩まで伸ばし、柔らかな髪質には傷や汚れは一つだってない。
特徴の無い髪留めを付けているのに、それを高級品の様に映えさせるのは付けている本人があまりに気品に満ちているからだろうか。
色白の綺麗な肌に高くまで通った鼻、怜悧な目付きは近付き難さを感じさせ、翡翠色の瞳は宝石の様に透き通っている。
ふっくらとした薄い桜色の唇で意地悪げな笑みを浮かべる彼女は、そんな自分の美しさを理解しているかのように、見惚れる青年を推し量っている。
「体に痛いところはあるかしら? まあ、聞くまでもない事ね」
まるで体の自由が利いていない彼を見て、聞きかけた質問を取り下げた少女は翡翠の瞳を細めてから、かうような声色で言葉を紡ぐ。
「覚えていないみたいだから簡単に説明するけど、パズズに襲われていた貴方をたまたま通りがかった私たちが見かねて助けに入ったの。そうして貴方は一命を取り留めた。…まったく、酷い怪我だったのよ? 普通なら助からないくらいの、運がよかったわね」
少しだけくすんだような色をした金色の髪を耳の上に掻き上げる動作をしながらも、少女は一切彼から目を離さない。
一挙手一投足を確かめるようなその視線の理由は、怪我の状態を確認するのが半分、見ず知らずの人間に対する警戒が半分といったところだろうか。
「…あなたが、助けてくれたんですね…」
自身の疑問も、怪我の具合も言いたいことは色々あったのだが、情けないことに現状を把握しきれず混乱していた青年の頭では色々な事に思考を裂くことなんて出来ず。
精々口に出来たのは。
「…ありがとう」
感謝を伝える、そんな言葉だった。
それでも、まぎれもない本心からのそんな感謝は確かに不遜な彼女にも伝わった様で。
一瞬、少女は驚いたように目を見開き、不機嫌そうに腕を組むと青年に向けていた視線を、ふいっと逸らした。
「…なによ。反抗的な態度か不快な行動をしたらとっとと家から追い出す積もりだったのに」
どうやら、今の不安定な精神状態が今回はいい方向に転がったらしい。
突然の告白に青年が目を白黒させていると、少女は音を立てて椅子から立ち上がり、彼に背を向けながら手を振る。
「怪我が完治するまでは家に居ていいわ。責任もって看病してあげる。食事とかは後で持ってきてあげるから勝手に動き回らないこと。貴方のこと信用したわけではないのだから」
不機嫌さを隠すつもりもない冷たい言葉であったがその内容はおおよそ行き場もない彼にとっては願ってもない程の最上のものであった。
慌てて彼が感謝を伝えようと口を開くが言葉が出てくる前に少女は部屋に一つしかないドアの前に立ち、彼へ顔を向けた。
「ああ、そういえば伝えてなかったわね」
「私の名前はエレイン、様でもさんでも呼び捨てでも、好きに呼んでいいわ」
「よろしくしましょう。どこかの誰かさん」
そういって、冷たく人を小馬鹿にするような薄い笑みを浮かべるのだった。
彼女、エレインは本名をエレイン・ハートラルというらしい。
青年は貴族みたいな名前だと思ったが口には出さなかった、というのもどうもエレインは自身の名前を嫌っている節があったからだ。
最初に自身の名前を言った時もエレインとしか言わなかったように、エレインも極力、姓の話題を出さないようにしていた。
もし教えられるより先に青年がエレイン本人に姓を聞いていたら数日は冷たい目と刺々しい言葉に身を晒されていたことは想像に難しくはない。
エレインはその怜悧な瞳やふとした仕草から深い造詣と高い教養を感じさせる少女であった。
青年が彼女を見かける際は、そのほとんどが彼には表紙からして小難しいと感じるような書物を読んでいるし、疑問に思ったことをエレインに問いかけるとまるで聞かれるのがわかっていたかのように一切の淀みがなく青年の疑問に解答する。
そして、何よりも、その明晰な頭脳から繰り出される嫌味の数々は、理論がしっかりしていて正論であるものもあれば、感情的なあまり理論的でないような、所謂暴論まで揃っており、実に様々な範囲のものから繰り出される波状攻撃により青年の精神を日々ゴリゴリと削り取ってきた。
高圧的な態度と物言いは、彼女のその彫像のように整った顔立ちと怜悧な目付きを合わさって女王様を思わせるから性質が悪い。
「性格が悪いわけじゃないんだけどね」
常日頃からエレインに言葉攻めされている彼が思わずといった感じにエレインの愚痴を吐き出せば、彼の食事や身の回りの世話をしてくれている少女が困ったように苦笑いしつつそう言う。
「まあ、そりゃあ、僕がこうやって世話してもらえている時点でエレイン、さんが悪い人では無いんだろうとは思うんですけどね…」
「うん、大丈夫。貴方の言いたいことは分かるから。あ、少し強くするよ」
「ちょっ、まっっ」
少しも動けないほど重症だった彼の傷は、すでに軽く運動する程度ならば問題ない程度まで回復し、今はベッドの上でしか動かしていなかった体を日常動作に対応させるための全身のストレッチを行っていた。
愚痴を零す程度の余裕があった彼の様子に、その補助をしていた少女がもう少し強くしても問題ないと判断したのか彼の情けない静止も聞き入れることなく、彼の体を前に倒した。
筋肉が引き伸ばされたことによる膨れ上がるような痛みに、彼は情けない叫びを上げ、顔を痛みで真っ赤にさせながら地面を何度もタップして、補助者である少女に中止を訴えた。
「~~~っ!? 痛ったいぃ!!」
「えー、さっきまではずいぶん余裕そうじゃなかった?」
「そんなことっ! ないので! 力を緩めてください、リカさん!!」
そう?と残念そうに言いつつ、補助をしていた少女はゆっくりと彼の体に加えた力を抜いていく。
彼が若干涙で潤んでいる目で、背後にいるリカを睨み付けるも、彼女はどこ吹く風といった感じでいつも通りの笑みを浮かべる。
意地悪な彼女の、何物にも動じないようなその態度に彼は少しだけ溜息を吐きたくなった。
この、青年の身の回りの世話から、傷の手当を行っているのは、リカという名の少女だ。
彼がこの家で生活するようになってから、一般常識や物の使い方といったことまで分からずに困っていた彼のサポートを行ったりと、正直家主のエレインよりも青年と接する機会は多い。
「けど、貴方に対するエリィの対応はちょっときついよね」
青年の体勢を変えさせつつ、リカは思案するようにそんなことを言う。
彼女の言うエリィとはエレインの愛称だ。
「やっぱりそう思いますよね…。まあ、確かにいきなり転がり込んできた僕なんて目障りなんだろうけど…」
「あ、あはは、あんまり自虐的になるものじゃないよ」
リカは彼の目が澱むのを見て、顔に巻かれた包帯越しでも分かるくらい引き気味の引き攣った笑顔を浮かべる。
「エリィは素直になれないだけだから色々言っちゃうんだろうと思うよ。よく考えてみて、エリィが言っていることもあながち意地悪なだけって訳じゃないから。貴方はあの魔物にやられて重傷な状態で私たちに保護されたわけでしょ?」
少女の顔のほとんどを覆う白い包帯の隙間から覗く、死人のように澱んだ瞳が少しだけ細くなる。
「あなたは、今まともに動くことができない。この場所がどこだかも分からなければ、私たちに自分の身分を説明することもできないし、怪我が治った先でエリィに恩返しを約束することもできない。だって記憶がないんだもんね?」
「…ああ、ごめんなさい」
彼には記憶がなかった。
それは自分の境遇であったり、この場所の情報であったりといった基本的な情報、あるいは、自身の家族、持ち物、名前、そんな知っていなければならないようなことすらも記憶になかった。
完璧なお荷物、あるいは、厄介ごとだろうか。
どんな面倒事を抱え込んでいるか分からない者。
見返りは期待できないし、全ての面倒を見ようとすればきっと予想以上に大変だろう。
そんな彼を、誰が進んで助けようとするのだろう。
そんな自身の立場を再確認させられて、不安と顔を俯かせる彼に対してリカは軽く視線を彷徨わせた。
「謝って貰いたかった訳じゃないんだけど…、言い方が悪かったね。けれど、どんな時でも自身の状況を正確に把握していないと物事は悪いほうに進んで行ってしまうものだから」
「足りない知識、独り立ちすることのできない状況、いつまでもエリィがあなたを世話することは出来ないから、だからこそ、エリィは少しでも生きていくための知識や経験を早めに身に付けて欲しいんだと思う、…多分ね? だから、あの子の言葉を真摯に受け止めてあげて。あの子もあなたを傷つけたいだけじゃないはずだから」
エリィの口が悪いのは私も経験済みだからねと言って、リカはにやっと笑った。
そんなリカの笑顔を見て、同じように青年も笑みを返すのだ。
このリカという少女は出雲よりも数年前に同じような境遇でエレインに助けられたそうだ。
背は小さく一見すると十歳程度にも見える彼女は、同年代の子達がどうなのかは分からないけれど、考え方や人との接し方からしてきっとかなり大人びているのだと勝手に想像している。
リカのその姿は痛々しい、包帯や服の厚みを考えると骨と皮しかないのではないかと思うほどの痩躯、肩までかかる程度の老人の様な白髪に、体中に巻きつけた包帯は血で滲み、大きなけがを負っていることが傍から見てもよく解る。
その指先から頭の頂点に至るまで余すところなく巻かれた包帯から所々除く肌は、痛々しい赤黒い傷跡が見えている。
自分自身に何度か回復魔法を掛けているのを見たことがあるが彼に掛けられている時とは違って、一向に回復する兆しを見せないリカの怪我はかなり性質が悪そうであった。
二年ほど前に倒れていたリカを治療し、この家に住まわせて使用人まがいのことをさせているのだとエレインは笑いながら説明していたが、お互いにお互いのどこか足りない部分を理解し、補い合い、気遣い合う姿は長年連れ添った老夫婦のようである。
どの様な経緯をたどり、リカがこうしてこの家で働いているのかは分からないが、彼と同じような境遇であるリカだからこそ、ここまで甲斐甲斐しく自分の世話をしてくれるのだと思うとリカがこの家で働いていることは彼にとって非常に幸運であった。
「そうだね。じゃあ、そろそろ食事にしようか。とは言っても、簡単に作り置きしてある具をパンで挟み込んだものとスープなんだけどさ」
「あはは、簡単なんですか? でも、僕はリカさんの料理好きですよ」
「またまた、嬉しい事を言ってくれちゃってー!」
べちべちと青年の肩を叩きながら、リカは彼の手を掴んで食事場へと軽く引っ張っていく。
青年はリカの顔のほとんどを覆う包帯を避ける様に纏めた前髪がゆらゆらと動き回るのを後ろから眺めながら、連れられるままにその足を動かして。
窓から見える家を囲んだ木々の青々しさに、胸が詰まるような感覚を感じながら、そこから目を逸らしたのだった。