異世界の招待
島津光男の超能力
駅員はプラットホームに腰をかけている男を引きずるようにして、白線の外側に連れて行った。ぐでんぐでんに酔っ払っている男は、白線の外側に立っているのも漸くのように見えた。駅員が立ち去るのを見ると、男は再び駅のホームに腰をかけた。
島津はまばらな乗客に混じって男を見ていた。駅のマイクが白線までお下がりください、とアナウンスをしても、男は動く気配がなく腰をかけたまま足をぶらぶらさせているように見える。駅員の姿を探したが後姿が遠くに見えただけだった。
遠くから、電車がホームに入ってくる音がした。
「おじさん、危ないよ」島津は男の脇に手を入れて白線の外側に引っ張ろうとしたがホームに瞬間接着剤でくっつけられた重石を持ったように男はビクともしなかった。
―これでいいんだよーと、男が言ったように聞こえた。男はそのまま電車に飛び込んだ。
島津は、脇の下に入れた手を抜く暇がなくそのまま引きづられるように、男と一緒に電車に巻き込まれた。
気が付くと、島津は線路の砂利を踏みしめて長いトンネルを歩いていた。横に見知らぬ男があるいている。先ほどの酔っ払いのように思えたが黙って一緒に歩いてくる。
トンネルの先に明るい光が見えてきてから、男は口を開いた。
―綺麗だなあー
トンネルを抜けると線路は消え小鳥のさえずりが聞こえてくる。
―僕は・・・・・・・と、島津は自己紹介をしかけて名前を忘れそうになっている自分に気づいた。
―やあ、初めましてー男は屈託なく微笑を浮かべて島津に話しかけた。
―俺は・・・・ああ、名前を忘れた、まあ。いいじゃないですか、死んでしまえば名前なんて要らないからー
確かに死んでしまったら名前があろうがなかろうが、そんなに大切なことじゃないように思える。
島津は、森の中の一本道を歩きながら、垣間見える遠くの暮れなずむ連峰を見ながら、
どこかで見た場所、それもつい最近見た場所のように思えた。
ああ、そうだ、この場所はコンピューターの中のバックの景色だ。
島津の妻がコンピューターをいじっているときに、ねえ、あなた、ちょっとちょっと、と島津を呼んで、「これ家じゃないの」と言って小さな点にマウスを当てた。コンピューターにはめ込まれていた絵は、大木の幹が左側の画面、上部にその大木の枝、それにくっついた黄ばみかけた葉が少し陽の弱い太陽光線をバックにして写っていた。後方には連峰が並び、その連峰の前には緑に覆われた緩やかな丘陵が画面の大部分を占めて、暮れかかった秋の景色が切り取られていた。その丘陵の中の陰のようになっている黒い点が家のように見えた。その話をしたのが島津が電車に巻き込まれる前日だった。
男は時々、「おお。美味そうだなあ」と、言って道を外れリンゴやバナナを採ってきて島津に「どうですか」と勧めた。不思議なのは島津にはリンゴの木もバナナの木も見えなかったことだ。どうやら、男の見ている景色と島津の見ている景色は違うようだった。「いや、食欲無いですから」と、言って島津は断る。
島津は潅木の外の景色が広がっているところに出てくると手を振った。
男は不思議そうに島津を見て「何をしているんですか」と尋ねた。
「いや、もしかしたら、僕の女房がコンピューターで見ているかもしれない、と思って・・・」
「ああ、そうか。それだったら、俺も手を振りますよ」と、男は面白そうに飛び上がって手を振った。コンピューターの中の家が点のようにしか見えないところで手を振っても見えることは無いだろうなあ、と思いながらも島津は手を振る、
「俺はチビだから誰にも見えない」と言って男は歩き出す。
「あんた、背が高いねえ」と男は改めて島津を見た。
男の目に写る景色が違っても、御互いの等身大の姿は見える。男の白いシャツのカラーが汗で少し黒ずんでいた。島津は紺のシャツを着ていたのでそれほど汚れが目立つほどでもないだろう、と思っている。それにしても、こんなところでも背の高さを言われるとは思っていなかった。島津は百九十センチ近く、男は百五十センチぐらいに見えた。
「羨ましいなあ、俺はずっとチビで苦労してきたから、背の高い男を見ると嫉妬心が
湧くよ」と男は言った。
「背の高いのはそれなりに悩みがありますよ。でくの棒とかウドの大木、大男総身に知恵が回りかね、とかね」
「それでも、目立つんじゃないの。俺なんかチビで無視されて誰にも見えないんだから」
そんなことを言っている割には男にはそれほど悲しそうな顔は浮かばなかった。
「それに、女は背が高ければ電柱でもいいというくらいじゃないの。ああ。失礼。俺の言う意味はもてたでしょう、という事です」
言葉使いが荒い割には男は額の広い知的な整った顔をしていた。
年は島津と同年輩の三十後半くらいのように見える。
「幾ら背が高くても毛深いの嫌われるんですよ」島津はそう言っているうちにでも揉み上げの辺りから無精ひげが伸びてくるような感じを持った。
一本道の終わりに現れた黒い丸太小屋の中に入ると、男はそのまま突っ切って裏に出るドアを開けて、それじゃ、俺はこれでさようなら、と言って、島津の方に振り向いて出て行った。
死んでしまったのに男の顔は満面に笑顔が浮かんでいた。
男に死んでしまった理由を聞けなかったし、男から一緒に死んでくれて有難う、というようなことも聞けなかったのは、少し残念な気がしたが、男の言うように死んでしまえばどうでもいい事のように思えた。それに、あの様子では死んだ理由さえ忘れているように思える。島津は男に続いてノック式のドアの取っ手を押し下げようとしたが動かなかった。
がらんとした何も無い部屋に、いつのまにか一人男が立っていた。
「私、野田順というものですが、何か御探しですか」とメガネを押し上げるようにして、男は島津に話しかけてきた。まだ二十台くらいの若い男に見えたが、良くみるとベビーフェイスで皺が沢山よっていた。男の目は島津を見ているようだったが、もっと遠くを見ているように見えたために、島津は思わず後ろを振り向いて他に誰かいるのか、確かめた。
「私は、島津光男、あちらのドアから出て行くつもりですが開かないのです」と島津は答えた。野田順は怪訝な顔をした。
「どうして、自分の名前を知っているのですか、此処に来るすべての人は自分の名前を
忘れてしまって知らないのです」と聞き返してきた。「でも、あなたはここに居て自分の名前を名乗っているのではないですか」野田順は苦笑いをして、「野田順という名前は今つけた名前で、相野高志とも言います。それとも佐々木博隆、松本幸弘、何でも、結構です。もともと実体の無い者を呼ぶのに名前なんていらないし、つけられないからです。
なんだったら、私のことを透明人間の透明とでも呼んで頂いても結構です」
「じゃあ、透明さん、教えてください、僕は今旅をしています。そのドアを開くことができなければ、僕は行く所が無くなるのです」
「旅をしているって・・・少し待ってください」
透明の手に分厚い書類がいつの間にか載っていて透明は一枚一枚丁寧にめくっていった。
「島津光男という名前は載っていない、おかしいなあ、ちょっと待ってください」と言って、透明は表のドアから出て行った。なかなか戻ってこないので島津は再び裏口に通じるドアの取っ手を押した。ピクリともしない。
次に入ってきたのは相野高志という男だった。
かなり渋面の男で口がへの字に曲がっていた。
「島津光男さんですね。相野高志です。透明の野田が色々調べたのですがわからないという事で、私に依頼が来ました」と言って、相野は同じように分厚い書類をめくっていった。頭をかしげながら再び表のドアから出て行った。
入れ替わり立ち替わり、佐々木、松本、橋本、山田、中村等々が入ってきて、同じような動作を繰り返したあと透明が入ってきた。
時間がたっているはずなのに、彼らが出入りする度に表のドアから見える景色に相変わらず秋の陽が差し込んでいる。
「申し訳ない、こちらの手違いで旅行社が間違って切符を手配したようです。島津光男さんではなく、島津道夫さんと混同したようです。また戻っていただくことになりますが・・・・・」
「戻るって、どうすればいいのですか」
「戻るのは、今来た道を帰っていただくことです」と言って透明は表のドアを開けて、島津が出て行くのを待っていた。
「この旅行に関する払い戻しはまた旅行社から連絡が入ると思いますので」と島津が外に出しなに透明は呟くように言った。
表のドアが島津が出て行ったあとにばたんと締められた音がした。切符の払い戻し、といっても島津は切符さえ持っていないことに気づき、再び戻って切符の払い戻しの詳細を聞こうとしたが表のドアは堅固に閉じられて、押しても引いても動かなかった。
帰路の潅木の見晴らしのいい場所に来たときに、改めて手を振ると途端に目が醒めた。
妻の顔が眼前にあった。顔には髭剃りのフォームが塗りたくられていて妻の手にはシェーバーが握られていた。腕には点滴のためか注射針が刺してあり、規則的な心音が聞こえてきた。妻の顔がびっくりしたような顔に変わり看護部さん看護婦さんという妻の声が響いた。三週間の昏睡状態から醒めた瞬間だった。
精密検査を受けて退院してから、島津が昏睡状態のときに見た夢は忘れてしまっていた。思い出したのはそれから一年後くらいに送ってきた同窓会の総会案内と同窓会名簿を見たときだった。島津は四十期生でクラス別に名前が書かれていて、その名前の横に現在の職業、電話番号が記されている。最後に物故者と書かれ名前が載っていた。島津の通っていた高校は進学校で成績の優秀なものから男女の区別なしに一組から配置されていた。学年で40番以内に入っていれば一組に配置され六組まであった。、島津はついていくのに精一杯で五組に配置されていた。その同窓会名簿の四十期生の二組の最後に記された物故者の欄に野田順という名前が載っていた。もしかすると、と思って別の組の物故者の項を見ると相野高志という名前が見つかった。それから、あの昏睡状態のときに見た出来事ををまるで昨日のことのように鮮明に思い出した。
妻にその夢のことを話すと気味悪いような表情をしたがコンピューターの画面を指差して、家が写っている、と言うようなことはいわなかった、と言った。
相野と野田のことは好奇心に駆られて、普段行くことのない同窓会に出席して同じ組だった知り合いに聞くと知らない、という返事だったが、野田のメガネをかけた皺のよった顔と、相野の口をへの字に曲がった顔の特徴を言うと、その同級生は、かすかな記憶で、
確かにそういう生徒はいたと思うと、言った。
同じ高校の同期生だから3年間の在学中には話をしたことがあるかもしれない、と思う。あとはあの夢の中で名前を覚えていたのは自分と間違ったと言った島津道夫のことだった。
島津が事故に会った日から昏睡状態から醒める日までの新聞を図書館に行って読んだ。
島津が昏睡状態から目覚めた日の地方版に、自動車事故で中年の男島津道夫(43)が亡くなったという記事を見つけた。あの夢の中で見た人間は皆島津と何らかのかかわりを持っていた人間のように思えた。
おそらくもっと近しい人間が裏口のドアで待っていたのかもしれない。
気味が悪いと思ったのか、コンピューターのバックはいつの間にか、青を基調にしたシャガールの絵を妻はいれていた。女性が扇子を持ち、目を閉じている。画面の左半分以上は豊満な亜麻色の髪が描かれていた。女は少し口を尖らし目を閉じている。閉じた目の睫の長さと太さが必要以上に強調されている絵のように見えた。妻の好きな絵だったが島津はそれほど気に入ってはいなかった。
同窓会に出席してからしばらくして妻は、ああ、こんなのがあった、と言って小学校のときの学年ごとに写した写真を島津に見せた。妻の同級生が送ってきたようで菓子箱にバラバラに入れた写真の中に交じって封に入ったままの写真の端が覗いていた。
四十人ほどの妻の同級生が写っていた。妻は利発そうな顔をして、担任の直ぐ後ろに立っていた。このとき、私、級長だったのよ、と妻は誇らしげに言った。
見ているうちに奇妙なことに気づいた。殆ど全員が薄い黒い透明のマントのようなものに囲まれていることだった。四人ほどその黒い膜がなかった。出来るだけ冷静を装って四人の中の一人を指差してこの子は、と聞いた。その女の子は妻の横に立っていて妻と同じように利発そうな顔をしていた。一番の仲の良い友達だったけど、小学校卒業前に病気でなくなった、と妻は悲しそうに言った。二番目に指差した黒い幕のない男は壇上の一番高いところに立っていた男で、―金持ちの坊ちゃんでわがままなところがあり、皆に嫌われていたが、高校のときに無免許で自動車を運転していて事故にあって死んだ。と妻は言った。黒い幕のない三人目の男は、小柄な男で皆が澄まして写真を取られているのに、一人ニコニコしていた。―この子はその金持ちの坊ちゃんと仲良くて一緒に自動車事故でなくなった、と言った。黒幕のない四人目は寂しそうな顔をした女の子だった。列に入っているが、少しぽつんとしている感じがした。寂しそうな子でしょ、その子は自殺したの。
それから、妻は島津を気味悪そうに眺めた。どうして死んだ人がわかるのよ、という顔だった。あわてて、島津は別の女の子を指差して聞いたが、妻の同級生の説明はもう殆ど興味を引かなかった。
あの昏睡状態のときに見た夢だった。あの時俺は死んだ人間を見たのだ。写真を見れ
ば、死んだ人間が分かるようになってしまったのかもしれない。
大学時代の知っている人間でもすでに物故者は居た。卒業時に撮った記念写真を見れば、自分の能力が分かるかもしれない、と島津は思ったが怖くて見ることができなかった。
自分の能力に気づいて意識をして見るのは新聞記事に載る公開捜査に踏み切ったときの誘拐事件の被害者の写真だった。被害者の殆どには、幕が見えなかったが、時々、膜が見えることがあった。
初めて膜が見えたのは被害者(若い女性)の消息捜査の為に、行方不明になってから1ヶ月たった後に公開された写真だった。その写真の女性に黒い幕が書かていた。しばらく逡巡した後、島津は警察に電話を掛けて被害者がまだ生存していると伝えた。警察の対応は予想以上にひどいものだった、後々のことを考えて島津はプリペイの携帯を使って連絡をした。住所、電話番号を聞かれたが伝えなかった。被害者は生存しているので、と言うと、受け付けた警官はまるで加害者から電話を受けたような態度に変わり島津を説得しだした。説得が功を奏しないとわかると態度が変わり、乱暴な言葉遣いに替わっていった。それ以降、島津は懲りてしまってそれ以降は警察には電話をすることはなかった。
ただ、島津自身の能力に関して、少し疑義を持つようなことも起きていた。
たまたまHPの事務的な打ち合わせでパートナーの片山の事務所に訪れたときに、島津は写真を見ると相手が生きているか故人になっているか、分かると、思わずもらしたことがある。その時は事務所に適当な写真がなく、片山は趣味の映画人写真名鑑を見せた。新しい写真では生存しているかどうかは、島津のように世間に疎い人間でも、洩れ伝わってくる。
片山は古い写真を見せて、この写真の中で、生きている人と、冗談のように島津に見せた。当然ながら、すべての人間には膜が掛かっていなかったが、一人だけ膜がかかっているのがいた。この人まだ生きているよ、と島津は言ったが、片山は直ぐに島津の言葉を打ち消した。写真には鞍馬天狗の装束を着けている男が写っていた。この鞍馬天狗は撮影中に事故で亡くなった、と片山は言った。享年六十五歳と、確かに映画人年鑑に入っていた。その事があって以来、島津は、自分が超能力を持っているのではないか、ということに少し懐疑心を持つようになった。その話はそれで打ち切りになった、
電車に巻き込まれた事故にあってから、島津は海岸で掴んだ細かい砂が手から洩れていくように何か少しづつ手から離れていくように感じていた。今まで順調に歯車が回っていたのにギアが合わなくなってきたという感じだった。
先ず島津の働いていた会社がなくなってしまった。正式には、吸収合併で会社の名前は向こうの会社名になってしまった。半分の従業員しか相手の会社は受け入れないという事で島津はさっさと希望退職に応じた。島津は恵まれすぎていた、といつも思っている。
島津の世代はバブル世代とも呼ばれ、かなりの同年代の人間が分不相応な会社に職を得ていた。島津も例外ではなく、俺たちは浮かれすぎているいつかははじき出されると、いつも感じていた。そのときがくれば、と思い島津が働いていた総務でコンピューターが導入されると、直ぐにコンピューターにのめりこんでいった。
会社を離れてからは自営業としてホームオフィスの作成等をやり糊口をしのぐようになった。
次に、妻の四十歳の誕生日の前日に、何が欲しいか、と聞くと、妻は離婚届を出してきてあなたの判子が欲しいと言った。理由ははっきりいわなかったが島津が会社を辞めてから、家で仕事をしだした島津を鬱陶しく感じるようになったせいかもしれない。
家計のためと言って、夜クラブに勤めだしたのも、その遠因があるように思われた。
自分なりに経済的にやっていけると思ったのかもしれない。
息子は家の状態に嫌気が差したのか、大学に通う為と称して下宿生活を始めた。
つまり、妻と息子は、ほぼ同時期に居なくなった事だった。
島津は、それからの生活の変化に自分なりに順応していった。一人になったといっても息子が生まれてから少しの間以外なんだかずっと一人で生活をしていたような気がする。妻はそのことにずっと前から気づいていたのかもしれない。
今は接触する人間はホームページの注文をしてくる片山と息子だけだった。
オンラインで銀行振り込みが出来るが、息子は顔を見せることがなんだか義務のように思っているのか、月末にいつも顔を見せて島津から下宿代の金を受け取るとそそくさと帰っていった。それ以外の支出は男一人が生活するのにそれほど掛からなく、現在の仕事で何とかやっていくことが出来る。
妻と子供が出て行った後は、壁に張ってあった写真を含めた装飾物は全部はがして棄てた。
ダンボ(パラレル・ワールド住人)
9月の連休前の夜9時ごろの電車はがらんとしていた。
いつものことだが、仕事を発注してくる片山と飲むのは気が疲れる。営業人間らしく飲んでいる最中は楽しい酒になるが、終わった途端に疲れがどっと出てくる。
片山はパートナーといっているが、HPの作成は島津が殆ど一人でやっている。片山が客を拾ってくる為に島津もそう強いことはいえないが、利益配分が少ないのは気になっている。島津の気持ちを察してか、競争が激しくてというのが、片山の口癖だった。
定期的に月一回HPの打ち合わせという事で島津は片山を訪れる。あくまで、会合は名目で一緒に食事をすることが主な会合の目的だった。片山としては接待のつもりなのかいつも勘定は片山がもっていた。 その日の会合はあまり気持ちのいいものではなかった。片山は他業者の攻勢を引き合いに出して、島津の手数料を値切ろうとした。もって回った言い方をしたが、最後に、生活費が今も、かつかつなのでと、断った。島津の技術があれば、また勤め人に戻れないことは無い。
普通の勤め人に戻るのには、この通勤電車にもまれなければいけない。¥憂鬱な気分が戻ってくる。
通勤していた頃は、島津は他の通勤客と違って、痴漢まがいの女性に時々会った。
手を握られて、島津の手のひらに残った紙片には、名前と電話番号が書いてあるのは、まだ可愛い方で、直接触られたり大胆なのは島津の性器を触りに来る女が居たことだった。
あの昏睡状態のときに会った男が言ったように、背が高ければ、女は電信柱でも良いと言ったのは、案外的を得ていた。他人から見れば、幾らでもチャンスがあるように見えるかもしれないが、島津は即物的なセックスは嫌いだった。
島津が坐った席の前に、顔の大きな女性が座っていた。どこかで見た顔だ。額が広く、眉毛と、目の間隔が広く、雑作の大きい顔は、顔の下半分に、集まっている。ディズニーの映画で見たダンボによく似ていた。
目の前に坐った大柄な男はダンボの思考を中断させた。
―私たちの世界にもこんな大男は居る。大体態度が尊大な男が多く俺はもてるんだというようなへんな自信を持っている。反って、自分のことを見ないような女は偏屈な女と思ったりする、私は大男は苦手、それにもっと苦手なのは毛深い男。この男には両方当てはまる。ブルーのシャツの袖からもじゃもじゃとした毛が見える。揉み上げは剃りが間に合わないのか不ぞろいになっている。あれ、分厚い本を、カバンから取り出してきたぞ、なんだ、かっこうつけているのか・・・・。コンピューター関係の本じゃない、あれ、何で、そんな本を持ってあんたを隠そうとしても隠れないよ。
この男、案外気が小さい男かもしれない。自分の身体にコンプレックスを持っているのかな・・・・。ああ、もういい、他の人のことなどは考える余裕なんて無い。
―私が何故この世界に送り込まれてきたのか、根本的な疑問は、何となく氷解してくる。にっちもさっちもいかなくなってきている私達の世界の食糧問題を解決する為としか考えようが無い。道筋はうまくつけられてきているように思える。普通の人間が聞けば、冗談のようにしか取ってくれない話を真剣に聞いて、高田社長は食料を用意するとまで言ってくれた。十万人分の食料のリストを見せても、社長はあまり動じることがなかったように見えた。けれど、わからない、わからない、わからない・・・・・・。
交換条件で出された、私達の世界を見たいというのは・・・・それだけかしら。
あれだけの食料を調達して、私達の世界を見るだけで良いというのであれば、百人でも、千人でも私は探し出して、ツアーでも組んで、連れて行けば、私達の世界の食糧問題は解決するかもしれない。でも、私達の世界を見てもこちらの世界の現状では何も出来ないのはわかっている。私達の食糧問題と同様にこちらの世界ではエネルギーの問題で苦しんでいる。あの百五十年前の核戦争から飛躍的に発達したスーパーナノテックは、私達の世界のエネルギーの問題を解決してくれた。こちらの世界がいきなり百五十年の進歩を遂げればスーパーナノテックを使用することも可能かもしれない。でも、時間はいきなり百五十年も飛び越えることは無い。一日は、一日しか進まない。私達の世界も、もしあの不幸な核戦争がなければこちらの世界と同様な進み方をしたはずだ。戦争で科学は飛躍的に発達するというけれど、確かにそうだ。そしてその代償として、私達に食糧問題を残した。だけど、それは当たり前のことかもしれない。問題の無い世界なんて存在しないと思う。
問題があるから、人は解決しようと動いていく。その問題そのものが、人が生きる原動力になるものかもしれない。
スーパーナノテックが私達の世界の製品の基礎になっている限り、幾ら見て、真似をしようとしても、ナノテックがようやく端緒についたばかりのこちらの世界では、なんとも出来ない。たとえそういう現物を持ってきても、せいぜい個人の持ち物ぐらいで終わる。風力を利用した小発電機は私達の世界ではすべての家の中の電気製品を動かすことが出来る。その装置をこちらに持ってきてもスーパーナノテックの技術がなければ製品そのものを生産することも出来ない。せいぜい自分の家にシステムごと備え付けるぐらいという事しか出来ない。そのために、何億円もの食料をバーターするというのだろうか。
それに同僚の前畑が一度だけ自分に言ったことも気になっている。英雄インターナショナルは、裏で、テロリストと組み売り込み先の機械を破壊しそこに納入する仕組みなっている、従業員には表向き全世界のカバーを指示しているが、社長は効率よく売り込み先を掴んでいる、と言った。もし、それが本当なら社長の言葉をそのまま信用するのは危険な気がする。
唐突に、今日社長が言った言葉も気になっている。平和な世界を実現している君らの世界がどういうものか、じっくり見たい、とも言っていた。平和? 私達は無理矢理平和を作り出しているに過ぎない、大量破壊核兵器を作れないようにしているだけで核に変わる大量破壊兵器を作ることができれば、今でも、暴力で世界を征服しようとする人間は沢山居る。私達の平和(?)な世界ではこの国と同じように年間何万人の人が自殺している。平和だから? 違う、あの核戦争で、悲しみから抜け出すことが出来ない人がまだまだいるためだ。皮肉なことかもしれない、スーパーナノテックの医学の貢献は私達の寿命を延ばしてきたけれど、一方では悲しみの極みから抜け出されなくて死に急ぐ人間も増やしてきている。
こんな混沌としたこちらの世界に暮らしていれば、確かに、平和な世界というものを見たい、と気がするのはわかるが、社長はそういう人柄なのか、どうか、わからない。
なんにしても、この連休に、私には少し、考える時間がある。連休が終われば、あちらの世界に戻って、ロジスティック(物流)を、検討しなければならない。農業省の役人の驚く顔が見えるようだ。もし、本当にあれだけの食料を手に入れることが出来れば少し余裕が出てきて後は汚染されていない土を持ち込むだけ。
でも、私は社長は本当は断るとは思っていたのに、嬉しい誤算かもしれない。もし社長が私の考えているように、信頼できる良い人であれば・・・。休み明けには私の世界にもどって打ち合わせをして、それから友達にも会える。つらいのは、この世界のことは誰にも話すことができないことだけど・・・・。
ダンボの思いは自分の住んでいた世界の思い出に浸されていった。
島津は、何気なく、視線を本から上げて、窓の外を見た。時々、線路に並んでいる蛍光灯の歪んだ光が窓の外を駆け抜けた。次の駅が降車駅のため本をカバンの中にしまいかけた。向かいに坐っているダンボのような顔をした女性は考え事をしているのか、大きな目を開いているけれど、何も見ていないように見えた。立ち上がりかけた島津の目に信じられない光景が映し出されて、思わず本を落としそうになった。立ち上がってから何度も目をこすった。乗り合わせた車内の人間は、居眠りをしたり本を読んだり携帯をいじったりしている者がいたがダンボのような女性に起った現象とそれに驚いている島津の様子に気づくものは居なかった。
島津はもう一度、椅子に腰をかけて、前の女性を観察した。
電車は島津の降車駅を通り過ぎたあと小さなトンネル状になっている陸橋を通り越した。一瞬、列車の中の蛍光灯が消えた、その時に島津は思わず声を上げそうになった。
車内の光が戻っても前の女性は何事もないように考え事をしていた。
島津は、自分が降りるはずだった駅より一駅乗り越して女をつけた。
―この女性は・・・・一体何者なのかー
社長と北川
ダンボとのミーティングが終わってからも、社長は少し居残っていた。
黒い鬘が汗で濡れて川から上がってきたビーバーのように机の上にうずくまっていた。 冬には防寒をも兼ねることができるが、通気性が悪いためか夏には蒸れて頭皮が痒くなってくる。社長は頭をぼりぼりと頭を掻きながら目の前に脱ぎ捨てた黒い鬘を忌々しそうに眺めていた。ドアをノックする音が聞こえてあわてて社長は鬘をかぶった。
どうぞ、という前に扉は開けられて会計課長の北川が顔を覗かせた。
「電気が点いていたので・・・社長、珍しい、まだですか。、私はお先に失礼します」
北川は軽く頭を下げた。
「社内にはまだ誰かいるのか」
社長の内密な話が始まる前には、いつも、聞かれることだった。
「一階に、連休前に整理することが沢山ある、と言って前畑が居ました」
「北川君、ちょうど良い、ちょっと相談したいことがある」
―社長は、いつものことで全く相手の都合を考えていないー
「別に取り立てて何にも無いんだろう。それとも動物園の門限が迫っているのか」
社長は、自分の冗談に面白そうに、声を立てて笑った。
北川は中肉中背で、胸からヌッと長い首が突き出している。その上にのっている頭は小さな長方形で、顔の造作は鼻と口の間隔が長く小さな縦長の耳が頭を挟んでいた。
キリンのようにしか見えない顔をしている。ネクタイをしていると長い首が目立つと思うのかポケットに折り畳んだネクタイを入れていた。白いワイシャツからいきなり飛び出している首はネクタイなしではもっと目立った。
社長は、北川と同じように長身だったが肩の高さが違う為に大きく見えた。筋肉質だった身体に脂肪が全体をうっすら覆っている。
笑っても泣いても(北川は泣き顔を見たことはないが)表情は殆ど変化がなかった。笑ったとわかるのは笑い声がきこえるためだった。
額にくっきりと深い皺が刻み込まれ、太い眉毛の下から覗いている少し吊り上がり気味の一重の目、ピエロのような丸鼻、唇は薄く話をするときには少し右淵が上がり歪んで見えた。無造作にちぐはぐに置いたダルマ遊びの顔を思い出す。
社長の鬘が少しずれているのが見えたが北川は黙って社長の冗談に苦笑いを浮かべた。
「あの件ですか。最近話しが出てこないので、おじゃんになったと思っていたのですが」
―仕事の最重要物件なのに北川はいつもこれだ。この話がどれだけ重要なのか、全くわかっていないー
「これが、食料のリストだ」と、ダンボから渡されたエクセルで綺麗に打たれたクリップで挟まれている2枚のA4のリストを、北川に手渡した。
北川は社長の机の前の応接セットの四人がけのソファーに腰をおろし紙を見た。
「社長、すごい量ですね」驚きの為か口をパクパクさせている。
「十万人分だ」
社長は北川の斜め横の一人掛けのアームチェアーにゆったりと腰をおろし。頭の後ろに腕をまわし北川がリストを読んでいるのを見ていた。社長の長い指が頭の後ろから見えた。
「小麦、米、大豆、小豆、コーンフレーク、玄米、トウモロコシ、それと、あ、これなんだ、ラーメン・・・・ラーメン十万食ですか」
「ダンボはインスタントのラーメンが気に入っているから書いたんだろう」
「北川君、この食料の調達を考えて欲しい」
社長、本気ですか、と北川の口からでかかったが、かろうじて押さえた。代わりに
「これだけの物量だと、億は軽く越えますよ」と、北川は言った。
「まあ、私には考えがあるから、ともかく調達できるかどうか目途だけでいいから」
腕を解いた社長は身体を前かがみにして北川の耳元でささやくように言った。
「何時までに、報告書が要りますか」
「出来れば、連休明けぐらいに欲しい」
「せっかく、ゆっくり休めると思っていたんですが」
「向こうは連休じゃないからゆっくり話ができるじゃないか」
社長は身体を起こして北川を見た。その視線は拒否を全く受け付けないように見えた。
「特別手当でも頂きますよ」
「これが、うまくいけばもう何も心配することは無い。君にこの会社を譲って俺はどこかでゆっくりするよ」
「本当ですか、社長」北川の口は興奮の為かパクパクの動きが早くなり、喉の乾きの
為、舌を出して上唇を舐めた。キリンそのものじゃないか、と社長は思っている。
「勿論、うまくいったらの話だ」北川の興奮をなだめるように社長は言った。
「連休返上でやりますよ」と、北川は興奮を抑えきれず少し大きな声を出して言った。
「ところで、北川君、例の連中が昨日連絡をしてきた」
社長は腕を頭の後ろに回したまま、何事も無いかのように北川に話しかけた。
「発電所の件ですね」
「この連休明けぐらいに、動き出すと思う」
「爆破は、今週日曜日に決行。今回は政府筋も喜ぶかもしれない」
「どういう事ですか」
「老朽化しているので、あいつらが手を出さなくても勝手につぶれる。但し2,3年先だ。それに、政府筋は原発に代えたがっている。今回の発電所のテロリストの襲撃は相互扶助だ」
「原発に換えるいっても手当てはどうするんですか」
―北川の疎さにはあきれるー。
「北川君、新聞を読んでいるだろう。今、西側は原発を廃止する国が増えてきている。
それで、今、使用している原発そのものをあっちこっちに輸出しようとしているんだ。私は第三国を経由して、すでにビッドを出している」
「でも、社長あの国は、核の開発を公言しているところでしょう」
それがどうした、という顔を社長はした。
「そんな国に原発を出したら後々問題にならないですか」
会社を譲られたあとでそんな問題を抱えたくない、と北川は思っている。
「大丈夫だよ。買主は核に関係のない国、それに、西側の連中もいったん売ってしまって船の行く先が変わっても、船に乗ってしまえばそれで義務は終わる」
「連休明けに動きがあるから」と、社長は言って話を打ち切るように後頭部を支えていた腕の指を解いて、少し背伸びするように頭の上で指を組んだ。上等そうな黒のカフスがダークブルーの上着と薄いベージュ色のシャツから見えた。
「この件を含めて、再来週に例のところで打ち合わせをしよう」
「あそこのホテルは人の行き来が多いから、今回別のところを見つけましたから」
「あそこで、いいじゃないか」
「いや、社長、あそこは繁華街にありますから、会社の連中に見られたらやばいです
よ。私らは会社では犬猿の仲で通っていますか。仲の悪い会計課長と社長が額を寄せ合
って相談なんかしていたらおかしいと思われますよ」
「じゃあ、何処だ」
「ホテルコンコルドといって流行っていないホテルです。場所は狭山町の駅前のスーパーの隣です」
大きいことは出来ないがこういう些事は北川に任せるほうが良い。
「わかった。八時に会おう」
「社長、私はこれで」と言って北川は腰をあげた。
社長室の扉の前で北川は少し躊躇するように立ち止まった。
社長は怪訝な顔をして北川の顔を見た。
「まだ、何か」と聞くと、
「あの、社長、ちょっとずれていますから」と、北川は自分の頭に手を置いた。
社長室を出るときに、いつもの癖で周りに誰も居ないのを確認するように見渡して出て行った。一階の出口に近い前畑が居た営業補助の部屋の電気は消えていた。
五分ほどして、社長は、ドアの前で大きな音で放屁をして、ハッハッハと笑い鍵をガチャガチャいわせて玄関の鍵を開けて出て行った。
前畑は暗闇の中机の下に潜り込んで社長の出て行くのをじっと待っていた。
「ジェリー、録音どううまくいった」
携帯で外に止めたバンの中で盗聴器を操作している細野に連絡をした。
「あの鍵の音も拾えるぐらいだよ。ブーという音も入っているけど何だろう」
社長室に仕掛けた盗聴器は誰も居ないビルの中の小さな音も拾っていたようだ。
「ファートよ。おなら」
「最後っ屁だなあ」と、細野は笑った。
「私今から、社長室の盗聴器をはずしに行くから」
社長の住まいは事務所から歩いて十五分ほどの所でワンルームマンションを買っていた。夜はすっかり更けて昼間晴れ渡った雲の無い空が暖かさを吸い取るように空気は少し肌寒い。それだけではなく頭が少しスースーとする。頭を押さえると鬘がなかった。北川が帰ったあとトイレによって用を足して頭を掻いたときに、トイレにそのまま置いてきたようだった。もう自分の住んでいるマンションが見えるような場所だったが社長は踵を返した。
細野は新鮮な空気を吸う為にバンの外に出て煙草を吸った。六階建てのビルは真っ暗だったが、社長室の三階に時々懐中電灯の光が洩れ揺れ動いているのが見えた。屈伸をして腕をぐるぐる回していた。運動不足のためか最近はよく肩がこる。
「君、こんなところで、何をしているのだ」
後ろから声をかけられた細野は腕をあげたままぴたっと止めた。その声はさっきまで盗聴していた社長の声だった。後ろを振り返ると社長は頭を見られたくないためか手を頭の上に被せていた。写真で社長の顔は知っていたが鬘のない社長を見るのは初めてだった。
「ちょっと、配達の途中で、休憩です」と、とっさに答えた。
「こんな夜中に、何の配達なんだ」
バンの後ろを覗き込むようにして社長は聞いた。追及するような声ではなく疑問をそのまま声に出したような調子だった。
それから、直ぐに玄関口の鍵をガチャガチャいわせ開けた。
細野はバンに飛び込んで、前畑の携帯に電話をした。
「やばいよ、社長が、戻ってきた。直ぐに隠れて」
「まだ、全部はずしていないのよ、あと一つだけ」
最後の盗聴器をはずすのに1分ほどかかった。
前畑は突き当たりの廊下にある社長室の横にあるエレベーターに作業道具が入った緑の箱を持って飛び乗った。乗ると直ぐに扉が閉まりボタンを押さないうちにスーとエレベーターは降りていく。社長が一階からボタンを押したようだった。前畑は社長と完全に鉢合わせになると思った。とっさに忘れ物の言訳を考えたが、前畑が働いている一階の事務所では辻褄が合わない。社長室の横のトイレが清潔で綺麗なので使わせてもらったという事ぐらいしか言訳を思いつかなかった。作業道具は服の下にでも隠すしかない、幾分太めなので社長にはわかりにくい、と楽観するようにした。
不信感を持たれるのだけは、避けなければならない。
エレベーターの扉が開いて社長の影が見えた、が入ってこなかった。
社長が乗り込んでこなかったのは、四日ほど続く連休で真夜中にこんなエレベーターの中に閉じ込められたら、大変なことになるという考えが頭の中によぎった為だった。
横の非常口の開く音がして社長の靴音が聞こえた。今度のダンボの仕事がうまくいったら、そろそろ古くなってきているビルの事務所も引越ししてもいいかもしれない、と上機嫌になって階段を駆け上るようにして社長室に向かった。
鬘をトイレで装着したあと社長室の扉が僅かに開いているのが見えた。
今夜はどうかしている、と思って鍵で閉めなおそうとした。社長室の窓から洩れてくる光は、ダンボのA4のリストを照らしていた。リストはテーブルの端に載っていて重心が変われば落ちそうだった。確か、机の上の三段になったプラスティク製の書類受けの、一番上に置いたはずだった。電気をつけて辺りを見回すと、出て行った時としっくりこない。アームチェーの肘掛がテーブルと平行になっている。それから社長は自分が出てきたときのことを思い出そうとした。北川と別れて玄関を出てきたときはエレベーターを使った。一階に止まっていたはずのエレベーターの扉は開くのを少し待った。鬘に気をとられすぎていたために気が付かなかったが扉が開くのが少し時間がかかったようだった。あのエレベータは階上から降りてきた。急いで机の中から手のひらに治まるような懐中電灯のような機器を出してきてスイッチを入れた。盗聴器の周波数を感知する赤い光は点滅しなかったが違和感が去らなかった。あのバンは・・・バンの事を思いして、急いで窓からバンを探した。バンの姿はもう無かった。
島津が事故に会った日から昏睡状態から醒める日までの新聞を図書館に行って読んだ。
島津が昏睡状態から目覚めた日の地方版に、自動車事故で中年の男島津道夫(43)が亡くなったという記事を見つけた。あの夢の中で見た人間は皆島津と何らかのかかわりを持っていた人間のように思えた。
おそらくもっと近しい人間が裏口のドアで待っていたのかもしれない。
気味が悪いと思ったのか、コンピューターのバックはいつの間にか、青を基調にしたシャガールの絵を妻はいれていた。女性が扇子を持ち、目を閉じている。画面の左半分以上は豊満な亜麻色の髪が描かれていた。女は少し口を尖らし目を閉じている。閉じた目の睫の長さと太さが必要以上に強調されている絵のように見えた。妻の好きな絵だったが島津はそれほど気に入ってはいなかった。
同窓会に出席してからしばらくして妻は、ああ、こんなのがあった、と言って小学校のときの学年ごとに写した写真を島津に見せた。妻の同級生が送ってきたようで菓子箱にバラバラに入れた写真の中に交じって封に入ったままの写真の端が覗いていた。
四十人ほどの妻の同級生が写っていた。妻は利発そうな顔をして、担任の直ぐ後ろに立っていた。このとき、私、級長だったのよ、と妻は誇らしげに言った。
見ているうちに奇妙なことに気づいた。殆ど全員が薄い黒い透明のマントのようなものに囲まれていることだった。四人ほどその黒い膜がなかった。出来るだけ冷静を装って四人の中の一人を指差してこの子は、と聞いた。その女の子は妻の横に立っていて妻と同じように利発そうな顔をしていた。一番の仲の良い友達だったけど、小学校卒業前に病気でなくなった、と妻は悲しそうに言った。二番目に指差した黒い幕のない男は壇上の一番高いところに立っていた男で、―金持ちの坊ちゃんでわがままなところがあり、皆に嫌われていたが、高校のときに無免許で自動車を運転していて事故にあって死んだ。と妻は言った。黒い幕のない三人目の男は、小柄な男で皆が澄まして写真を取られているのに、一人ニコニコしていた。―この子はその金持ちの坊ちゃんと仲良くて一緒に自動車事故でなくなった、と言った。黒幕のない四人目は寂しそうな顔をした女の子だった。列に入っているが、少しぽつんとしている感じがした。寂しそうな子でしょ、その子は自殺したの。
それから、妻は島津を気味悪そうに眺めた。どうして死んだ人がわかるのよ、という顔だった。あわてて、島津は別の女の子を指差して聞いたが、妻の同級生の説明はもう殆ど興味を引かなかった。
あの昏睡状態のときに見た夢だった。あの時俺は死んだ人間を見たのだ。写真を見れ
ば、死んだ人間が分かるようになってしまったのかもしれない。
大学時代の知っている人間でもすでに物故者は居た。卒業時に撮った記念写真を見れば、自分の能力が分かるかもしれない、と島津は思ったが怖くて見ることができなかった。
自分の能力に気づいて意識をして見るのは新聞記事に載る公開捜査に踏み切ったときの誘拐事件の被害者の写真だった。被害者の殆どには、幕が見えなかったが、時々、膜が見えることがあった。
初めて膜が見えたのは被害者(若い女性)の消息捜査の為に、行方不明になってから1ヶ月たった後に公開された写真だった。その写真の女性に黒い幕が書かていた。しばらく逡巡した後、島津は警察に電話を掛けて被害者がまだ生存していると伝えた。警察の対応は予想以上にひどいものだった、後々のことを考えて島津はプリペイの携帯を使って連絡をした。住所、電話番号を聞かれたが伝えなかった。被害者は生存しているので、と言うと、受け付けた警官はまるで加害者から電話を受けたような態度に変わり島津を説得しだした。説得が功を奏しないとわかると態度が変わり、乱暴な言葉遣いに替わっていった。それ以降、島津は懲りてしまってそれ以降は警察には電話をすることはなかった。
ただ、島津自身の能力に関して、少し疑義を持つようなことも起きていた。
たまたまHPの事務的な打ち合わせでパートナーの片山の事務所に訪れたときに、島津は写真を見ると相手が生きているか故人になっているか、分かると、思わずもらしたことがある。その時は事務所に適当な写真がなく、片山は趣味の映画人写真名鑑を見せた。新しい写真では生存しているかどうかは、島津のように世間に疎い人間でも、洩れ伝わってくる。
片山は古い写真を見せて、この写真の中で、生きている人と、冗談のように島津に見せた。当然ながら、すべての人間には膜が掛かっていなかったが、一人だけ膜がかかっているのがいた。この人まだ生きているよ、と島津は言ったが、片山は直ぐに島津の言葉を打ち消した。写真には鞍馬天狗の装束を着けている男が写っていた。この鞍馬天狗は撮影中に事故で亡くなった、と片山は言った。享年六十五歳と、確かに映画人年鑑に入っていた。その事があって以来、島津は、自分が超能力を持っているのではないか、ということに少し懐疑心を持つようになった。その話はそれで打ち切りになった、
電車に巻き込まれた事故にあってから、島津は海岸で掴んだ細かい砂が手から洩れていくように何か少しづつ手から離れていくように感じていた。今まで順調に歯車が回っていたのにギアが合わなくなってきたという感じだった。
先ず島津の働いていた会社がなくなってしまった。正式には、吸収合併で会社の名前は向こうの会社名になってしまった。半分の従業員しか相手の会社は受け入れないという事で島津はさっさと希望退職に応じた。島津は恵まれすぎていた、といつも思っている。
島津の世代はバブル世代とも呼ばれ、かなりの同年代の人間が分不相応な会社に職を得ていた。島津も例外ではなく、俺たちは浮かれすぎているいつかははじき出されると、いつも感じていた。そのときがくれば、と思い島津が働いていた総務でコンピューターが導入されると、直ぐにコンピューターにのめりこんでいった。
会社を離れてからは自営業としてホームオフィスの作成等をやり糊口をしのぐようになった。
次に、妻の四十歳の誕生日の前日に、何が欲しいか、と聞くと、妻は離婚届を出してきてあなたの判子が欲しいと言った。理由ははっきりいわなかったが島津が会社を辞めてから、家で仕事をしだした島津を鬱陶しく感じるようになったせいかもしれない。
家計のためと言って、夜クラブに勤めだしたのも、その遠因があるように思われた。
自分なりに経済的にやっていけると思ったのかもしれない。
息子は家の状態に嫌気が差したのか、大学に通う為と称して下宿生活を始めた。
つまり、妻と息子は、ほぼ同時期に居なくなった事だった。
島津は、それからの生活の変化に自分なりに順応していった。一人になったといっても息子が生まれてから少しの間以外なんだかずっと一人で生活をしていたような気がする。妻はそのことにずっと前から気づいていたのかもしれない。
今は接触する人間はホームページの注文をしてくる片山と息子だけだった。
オンラインで銀行振り込みが出来るが、息子は顔を見せることがなんだか義務のように思っているのか、月末にいつも顔を見せて島津から下宿代の金を受け取るとそそくさと帰っていった。それ以外の支出は男一人が生活するのにそれほど掛からなく、現在の仕事で何とかやっていくことが出来る。
妻と子供が出て行った後は、壁に張ってあった写真を含めた装飾物は全部はがして棄てた。
ダンボ(パラレル・ワールド住人)
9月の連休前の夜9時ごろの電車はがらんとしていた。
いつものことだが、仕事を発注してくる片山と飲むのは気が疲れる。営業人間らしく飲んでいる最中は楽しい酒になるが、終わった途端に疲れがどっと出てくる。
片山はパートナーといっているが、HPの作成は島津が殆ど一人でやっている。片山が客を拾ってくる為に島津もそう強いことはいえないが、利益配分が少ないのは気になっている。島津の気持ちを察してか、競争が激しくてというのが、片山の口癖だった。
定期的に月一回HPの打ち合わせという事で島津は片山を訪れる。あくまで、会合は名目で一緒に食事をすることが主な会合の目的だった。片山としては接待のつもりなのかいつも勘定は片山がもっていた。 その日の会合はあまり気持ちのいいものではなかった。片山は他業者の攻勢を引き合いに出して、島津の手数料を値切ろうとした。もって回った言い方をしたが、最後に、生活費が今も、かつかつなのでと、断った。島津の技術があれば、また勤め人に戻れないことは無い。
普通の勤め人に戻るのには、この通勤電車にもまれなければいけない。¥憂鬱な気分が戻ってくる。
通勤していた頃は、島津は他の通勤客と違って、痴漢まがいの女性に時々会った。
手を握られて、島津の手のひらに残った紙片には、名前と電話番号が書いてあるのは、まだ可愛い方で、直接触られたり大胆なのは島津の性器を触りに来る女が居たことだった。
あの昏睡状態のときに会った男が言ったように、背が高ければ、女は電信柱でも良いと言ったのは、案外的を得ていた。他人から見れば、幾らでもチャンスがあるように見えるかもしれないが、島津は即物的なセックスは嫌いだった。
島津が坐った席の前に、顔の大きな女性が座っていた。どこかで見た顔だ。額が広く、眉毛と、目の間隔が広く、雑作の大きい顔は、顔の下半分に、集まっている。ディズニーの映画で見たダンボによく似ていた。
目の前に坐った大柄な男はダンボの思考を中断させた。
―私たちの世界にもこんな大男は居る。大体態度が尊大な男が多く俺はもてるんだというようなへんな自信を持っている。反って、自分のことを見ないような女は偏屈な女と思ったりする、私は大男は苦手、それにもっと苦手なのは毛深い男。この男には両方当てはまる。ブルーのシャツの袖からもじゃもじゃとした毛が見える。揉み上げは剃りが間に合わないのか不ぞろいになっている。あれ、分厚い本を、カバンから取り出してきたぞ、なんだ、かっこうつけているのか・・・・。コンピューター関係の本じゃない、あれ、何で、そんな本を持ってあんたを隠そうとしても隠れないよ。
この男、案外気が小さい男かもしれない。自分の身体にコンプレックスを持っているのかな・・・・。ああ、もういい、他の人のことなどは考える余裕なんて無い。
―私が何故この世界に送り込まれてきたのか、根本的な疑問は、何となく氷解してくる。にっちもさっちもいかなくなってきている私達の世界の食糧問題を解決する為としか考えようが無い。道筋はうまくつけられてきているように思える。普通の人間が聞けば、冗談のようにしか取ってくれない話を真剣に聞いて、高田社長は食料を用意するとまで言ってくれた。十万人分の食料のリストを見せても、社長はあまり動じることがなかったように見えた。けれど、わからない、わからない、わからない・・・・・・。
交換条件で出された、私達の世界を見たいというのは・・・・それだけかしら。
あれだけの食料を調達して、私達の世界を見るだけで良いというのであれば、百人でも、千人でも私は探し出して、ツアーでも組んで、連れて行けば、私達の世界の食糧問題は解決するかもしれない。でも、私達の世界を見てもこちらの世界の現状では何も出来ないのはわかっている。私達の食糧問題と同様にこちらの世界ではエネルギーの問題で苦しんでいる。あの百五十年前の核戦争から飛躍的に発達したスーパーナノテックは、私達の世界のエネルギーの問題を解決してくれた。こちらの世界がいきなり百五十年の進歩を遂げればスーパーナノテックを使用することも可能かもしれない。でも、時間はいきなり百五十年も飛び越えることは無い。一日は、一日しか進まない。私達の世界も、もしあの不幸な核戦争がなければこちらの世界と同様な進み方をしたはずだ。戦争で科学は飛躍的に発達するというけれど、確かにそうだ。そしてその代償として、私達に食糧問題を残した。だけど、それは当たり前のことかもしれない。問題の無い世界なんて存在しないと思う。
問題があるから、人は解決しようと動いていく。その問題そのものが、人が生きる原動力になるものかもしれない。
スーパーナノテックが私達の世界の製品の基礎になっている限り、幾ら見て、真似をしようとしても、ナノテックがようやく端緒についたばかりのこちらの世界では、なんとも出来ない。たとえそういう現物を持ってきても、せいぜい個人の持ち物ぐらいで終わる。風力を利用した小発電機は私達の世界ではすべての家の中の電気製品を動かすことが出来る。その装置をこちらに持ってきてもスーパーナノテックの技術がなければ製品そのものを生産することも出来ない。せいぜい自分の家にシステムごと備え付けるぐらいという事しか出来ない。そのために、何億円もの食料をバーターするというのだろうか。
それに同僚の前畑が一度だけ自分に言ったことも気になっている。英雄インターナショナルは、裏で、テロリストと組み売り込み先の機械を破壊しそこに納入する仕組みなっている、従業員には表向き全世界のカバーを指示しているが、社長は効率よく売り込み先を掴んでいる、と言った。もし、それが本当なら社長の言葉をそのまま信用するのは危険な気がする。
唐突に、今日社長が言った言葉も気になっている。平和な世界を実現している君らの世界がどういうものか、じっくり見たい、とも言っていた。平和? 私達は無理矢理平和を作り出しているに過ぎない、大量破壊核兵器を作れないようにしているだけで核に変わる大量破壊兵器を作ることができれば、今でも、暴力で世界を征服しようとする人間は沢山居る。私達の平和(?)な世界ではこの国と同じように年間何万人の人が自殺している。平和だから? 違う、あの核戦争で、悲しみから抜け出すことが出来ない人がまだまだいるためだ。皮肉なことかもしれない、スーパーナノテックの医学の貢献は私達の寿命を延ばしてきたけれど、一方では悲しみの極みから抜け出されなくて死に急ぐ人間も増やしてきている。
こんな混沌としたこちらの世界に暮らしていれば、確かに、平和な世界というものを見たい、と気がするのはわかるが、社長はそういう人柄なのか、どうか、わからない。
なんにしても、この連休に、私には少し、考える時間がある。連休が終われば、あちらの世界に戻って、ロジスティック(物流)を、検討しなければならない。農業省の役人の驚く顔が見えるようだ。もし、本当にあれだけの食料を手に入れることが出来れば少し余裕が出てきて後は汚染されていない土を持ち込むだけ。
でも、私は社長は本当は断るとは思っていたのに、嬉しい誤算かもしれない。もし社長が私の考えているように、信頼できる良い人であれば・・・。休み明けには私の世界にもどって打ち合わせをして、それから友達にも会える。つらいのは、この世界のことは誰にも話すことができないことだけど・・・・。
ダンボの思いは自分の住んでいた世界の思い出に浸されていった。
島津は、何気なく、視線を本から上げて、窓の外を見た。時々、線路に並んでいる蛍光灯の歪んだ光が窓の外を駆け抜けた。次の駅が降車駅のため本をカバンの中にしまいかけた。向かいに坐っているダンボのような顔をした女性は考え事をしているのか、大きな目を開いているけれど、何も見ていないように見えた。立ち上がりかけた島津の目に信じられない光景が映し出されて、思わず本を落としそうになった。立ち上がってから何度も目をこすった。乗り合わせた車内の人間は、居眠りをしたり本を読んだり携帯をいじったりしている者がいたがダンボのような女性に起った現象とそれに驚いている島津の様子に気づくものは居なかった。
島津はもう一度、椅子に腰をかけて、前の女性を観察した。
電車は島津の降車駅を通り過ぎたあと小さなトンネル状になっている陸橋を通り越した。一瞬、列車の中の蛍光灯が消えた、その時に島津は思わず声を上げそうになった。
車内の光が戻っても前の女性は何事もないように考え事をしていた。
島津は、自分が降りるはずだった駅より一駅乗り越して女をつけた。
―この女性は・・・・一体何者なのかー
社長と北川
ダンボとのミーティングが終わってからも、社長は少し居残っていた。
黒い鬘が汗で濡れて川から上がってきたビーバーのように机の上にうずくまっていた。 冬には防寒をも兼ねることができるが、通気性が悪いためか夏には蒸れて頭皮が痒くなってくる。社長は頭をぼりぼりと頭を掻きながら目の前に脱ぎ捨てた黒い鬘を忌々しそうに眺めていた。ドアをノックする音が聞こえてあわてて社長は鬘をかぶった。
どうぞ、という前に扉は開けられて会計課長の北川が顔を覗かせた。
「電気が点いていたので・・・社長、珍しい、まだですか。、私はお先に失礼します」
北川は軽く頭を下げた。
「社内にはまだ誰かいるのか」
社長の内密な話が始まる前には、いつも、聞かれることだった。
「一階に、連休前に整理することが沢山ある、と言って前畑が居ました」
「北川君、ちょうど良い、ちょっと相談したいことがある」
―社長は、いつものことで全く相手の都合を考えていないー
「別に取り立てて何にも無いんだろう。それとも動物園の門限が迫っているのか」
社長は、自分の冗談に面白そうに、声を立てて笑った。
北川は中肉中背で、胸からヌッと長い首が突き出している。その上にのっている頭は小さな長方形で、顔の造作は鼻と口の間隔が長く小さな縦長の耳が頭を挟んでいた。
キリンのようにしか見えない顔をしている。ネクタイをしていると長い首が目立つと思うのかポケットに折り畳んだネクタイを入れていた。白いワイシャツからいきなり飛び出している首はネクタイなしではもっと目立った。
社長は、北川と同じように長身だったが肩の高さが違う為に大きく見えた。筋肉質だった身体に脂肪が全体をうっすら覆っている。
笑っても泣いても(北川は泣き顔を見たことはないが)表情は殆ど変化がなかった。笑ったとわかるのは笑い声がきこえるためだった。
額にくっきりと深い皺が刻み込まれ、太い眉毛の下から覗いている少し吊り上がり気味の一重の目、ピエロのような丸鼻、唇は薄く話をするときには少し右淵が上がり歪んで見えた。無造作にちぐはぐに置いたダルマ遊びの顔を思い出す。
社長の鬘が少しずれているのが見えたが北川は黙って社長の冗談に苦笑いを浮かべた。
「あの件ですか。最近話しが出てこないので、おじゃんになったと思っていたのですが」
―仕事の最重要物件なのに北川はいつもこれだ。この話がどれだけ重要なのか、全くわかっていないー
「これが、食料のリストだ」と、ダンボから渡されたエクセルで綺麗に打たれたクリップで挟まれている2枚のA4のリストを、北川に手渡した。
北川は社長の机の前の応接セットの四人がけのソファーに腰をおろし紙を見た。
「社長、すごい量ですね」驚きの為か口をパクパクさせている。
「十万人分だ」
社長は北川の斜め横の一人掛けのアームチェアーにゆったりと腰をおろし。頭の後ろに腕をまわし北川がリストを読んでいるのを見ていた。社長の長い指が頭の後ろから見えた。
「小麦、米、大豆、小豆、コーンフレーク、玄米、トウモロコシ、それと、あ、これなんだ、ラーメン・・・・ラーメン十万食ですか」
「ダンボはインスタントのラーメンが気に入っているから書いたんだろう」
「北川君、この食料の調達を考えて欲しい」
社長、本気ですか、と北川の口からでかかったが、かろうじて押さえた。代わりに
「これだけの物量だと、億は軽く越えますよ」と、北川は言った。
「まあ、私には考えがあるから、ともかく調達できるかどうか目途だけでいいから」
腕を解いた社長は身体を前かがみにして北川の耳元でささやくように言った。
「何時までに、報告書が要りますか」
「出来れば、連休明けぐらいに欲しい」
「せっかく、ゆっくり休めると思っていたんですが」
「向こうは連休じゃないからゆっくり話ができるじゃないか」
社長は身体を起こして北川を見た。その視線は拒否を全く受け付けないように見えた。
「特別手当でも頂きますよ」
「これが、うまくいけばもう何も心配することは無い。君にこの会社を譲って俺はどこかでゆっくりするよ」
「本当ですか、社長」北川の口は興奮の為かパクパクの動きが早くなり、喉の乾きの
為、舌を出して上唇を舐めた。キリンそのものじゃないか、と社長は思っている。
「勿論、うまくいったらの話だ」北川の興奮をなだめるように社長は言った。
「連休返上でやりますよ」と、北川は興奮を抑えきれず少し大きな声を出して言った。
「ところで、北川君、例の連中が昨日連絡をしてきた」
社長は腕を頭の後ろに回したまま、何事も無いかのように北川に話しかけた。
「発電所の件ですね」
「この連休明けぐらいに、動き出すと思う」
「爆破は、今週日曜日に決行。今回は政府筋も喜ぶかもしれない」
「どういう事ですか」
「老朽化しているので、あいつらが手を出さなくても勝手につぶれる。但し2,3年先だ。それに、政府筋は原発に代えたがっている。今回の発電所のテロリストの襲撃は相互扶助だ」
「原発に換えるいっても手当てはどうするんですか」
―北川の疎さにはあきれるー。
「北川君、新聞を読んでいるだろう。今、西側は原発を廃止する国が増えてきている。
それで、今、使用している原発そのものをあっちこっちに輸出しようとしているんだ。私は第三国を経由して、すでにビッドを出している」
「でも、社長あの国は、核の開発を公言しているところでしょう」
それがどうした、という顔を社長はした。
「そんな国に原発を出したら後々問題にならないですか」
会社を譲られたあとでそんな問題を抱えたくない、と北川は思っている。
「大丈夫だよ。買主は核に関係のない国、それに、西側の連中もいったん売ってしまって船の行く先が変わっても、船に乗ってしまえばそれで義務は終わる」
「連休明けに動きがあるから」と、社長は言って話を打ち切るように後頭部を支えていた腕の指を解いて、少し背伸びするように頭の上で指を組んだ。上等そうな黒のカフスがダークブルーの上着と薄いベージュ色のシャツから見えた。
「この件を含めて、再来週に例のところで打ち合わせをしよう」
「あそこのホテルは人の行き来が多いから、今回別のところを見つけましたから」
「あそこで、いいじゃないか」
「いや、社長、あそこは繁華街にありますから、会社の連中に見られたらやばいです
よ。私らは会社では犬猿の仲で通っていますか。仲の悪い会計課長と社長が額を寄せ合
って相談なんかしていたらおかしいと思われますよ」
「じゃあ、何処だ」
「ホテルコンコルドといって流行っていないホテルです。場所は狭山町の駅前のスーパーの隣です」
大きいことは出来ないがこういう些事は北川に任せるほうが良い。
「わかった。八時に会おう」
「社長、私はこれで」と言って北川は腰をあげた。
社長室の扉の前で北川は少し躊躇するように立ち止まった。
社長は怪訝な顔をして北川の顔を見た。
「まだ、何か」と聞くと、
「あの、社長、ちょっとずれていますから」と、北川は自分の頭に手を置いた。
社長室を出るときに、いつもの癖で周りに誰も居ないのを確認するように見渡して出て行った。一階の出口に近い前畑が居た営業補助の部屋の電気は消えていた。
五分ほどして、社長は、ドアの前で大きな音で放屁をして、ハッハッハと笑い鍵をガチャガチャいわせて玄関の鍵を開けて出て行った。
前畑は暗闇の中机の下に潜り込んで社長の出て行くのをじっと待っていた。
「ジェリー、録音どううまくいった」
携帯で外に止めたバンの中で盗聴器を操作している細野に連絡をした。
「あの鍵の音も拾えるぐらいだよ。ブーという音も入っているけど何だろう」
社長室に仕掛けた盗聴器は誰も居ないビルの中の小さな音も拾っていたようだ。
「ファートよ。おなら」
「最後っ屁だなあ」と、細野は笑った。
「私今から、社長室の盗聴器をはずしに行くから」
社長の住まいは事務所から歩いて十五分ほどの所でワンルームマンションを買っていた。夜はすっかり更けて昼間晴れ渡った雲の無い空が暖かさを吸い取るように空気は少し肌寒い。それだけではなく頭が少しスースーとする。頭を押さえると鬘がなかった。北川が帰ったあとトイレによって用を足して頭を掻いたときに、トイレにそのまま置いてきたようだった。もう自分の住んでいるマンションが見えるような場所だったが社長は踵を返した。
細野は新鮮な空気を吸う為にバンの外に出て煙草を吸った。六階建てのビルは真っ暗だったが、社長室の三階に時々懐中電灯の光が洩れ揺れ動いているのが見えた。屈伸をして腕をぐるぐる回していた。運動不足のためか最近はよく肩がこる。
「君、こんなところで、何をしているのだ」
後ろから声をかけられた細野は腕をあげたままぴたっと止めた。その声はさっきまで盗聴していた社長の声だった。後ろを振り返ると社長は頭を見られたくないためか手を頭の上に被せていた。写真で社長の顔は知っていたが鬘のない社長を見るのは初めてだった。
「ちょっと、配達の途中で、休憩です」と、とっさに答えた。
「こんな夜中に、何の配達なんだ」
バンの後ろを覗き込むようにして社長は聞いた。追及するような声ではなく疑問をそのまま声に出したような調子だった。
それから、直ぐに玄関口の鍵をガチャガチャいわせ開けた。
細野はバンに飛び込んで、前畑の携帯に電話をした。
「やばいよ、社長が、戻ってきた。直ぐに隠れて」
「まだ、全部はずしていないのよ、あと一つだけ」
最後の盗聴器をはずすのに1分ほどかかった。
前畑は突き当たりの廊下にある社長室の横にあるエレベーターに作業道具が入った緑の箱を持って飛び乗った。乗ると直ぐに扉が閉まりボタンを押さないうちにスーとエレベーターは降りていく。社長が一階からボタンを押したようだった。前畑は社長と完全に鉢合わせになると思った。とっさに忘れ物の言訳を考えたが、前畑が働いている一階の事務所では辻褄が合わない。社長室の横のトイレが清潔で綺麗なので使わせてもらったという事ぐらいしか言訳を思いつかなかった。作業道具は服の下にでも隠すしかない、幾分太めなので社長にはわかりにくい、と楽観するようにした。
不信感を持たれるのだけは、避けなければならない。
エレベーターの扉が開いて社長の影が見えた、が入ってこなかった。
社長が乗り込んでこなかったのは、四日ほど続く連休で真夜中にこんなエレベーターの中に閉じ込められたら、大変なことになるという考えが頭の中によぎった為だった。
横の非常口の開く音がして社長の靴音が聞こえた。今度のダンボの仕事がうまくいったら、そろそろ古くなってきているビルの事務所も引越ししてもいいかもしれない、と上機嫌になって階段を駆け上るようにして社長室に向かった。
鬘をトイレで装着したあと社長室の扉が僅かに開いているのが見えた。
今夜はどうかしている、と思って鍵で閉めなおそうとした。社長室の窓から洩れてくる光は、ダンボのA4のリストを照らしていた。リストはテーブルの端に載っていて重心が変われば落ちそうだった。確か、机の上の三段になったプラスティク製の書類受けの、一番上に置いたはずだった。電気をつけて辺りを見回すと、出て行った時としっくりこない。アームチェーの肘掛がテーブルと平行になっている。それから社長は自分が出てきたときのことを思い出そうとした。北川と別れて玄関を出てきたときはエレベーターを使った。一階に止まっていたはずのエレベーターの扉は開くのを少し待った。鬘に気をとられすぎていたために気が付かなかったが扉が開くのが少し時間がかかったようだった。あのエレベータは階上から降りてきた。急いで机の中から手のひらに治まるような懐中電灯のような機器を出してきてスイッチを入れた。盗聴器の周波数を感知する赤い光は点滅しなかったが違和感が去らなかった。あのバンは・・・バンの事を思いして、急いで窓からバンを探した。バンの姿はもう無かった。
尋問
土曜日は高岡は通常九時過ぎまで寝ている。
だが、昨夜は、殆ど眠れなかった。
身体は溶けた鉛のようにべったり重くベッドにのめりこむように疲れていて眠っていたのだが、身体と気持ちが分離しているような気分で、気持ちは眠りの芯まで入り込めず、完全に目覚めていて、いつでも目を開ける事が出来るような状態だった。
朝六時頃に目を覚まし(というよりは、目を開けて)三十分ほど、ベッドの上でぼんやりしていた。祥子は背を向けて寝ていた。
ベッドから降りて、台所でいつものボコボコ(祥子はコーヒーメーカーをボコボコを呼んでいる)で、コーヒーを点てて飲んだ、その香りが辺りを包んだ。
台所の隣の寝室まで、コーヒーの香りが侵入しているはずだったが、祥子は起きてくる様子がなかった。
今日は、十時から尋問が始まる、と祥子には伝えていたが、改めて、台所に、今日は、遅くなる、という書置きを残した。
玄関の戸が少し傾き加減になっていて、思い切りひっぱると、とガラス戸が壊れてしまうようなガシャンと大きな音を立てた。高岡はあわてて、ガラス戸が壊れなかったか、がガラス戸全体を見回した。祥子は、その大きな音で起きてくるかもしれない、少しは高岡の腹立ちがわかるかも知れない、と思った。
家は九時ごろにでた。普通に歩いて三十分ほど、バスで四駅十分ほどのところに高岡の勤務する警察署があった。散歩をするようにゆっくり歩いた。
―一体、祥子は何が不満なのかわからない。俺たちの世代はシラケ世代とか、三無主義、無気力、無関心、無責任と言われているが、俺と祥子に関しては、そんなもので、括られる生活とは無縁に生きてきた。俺達が四十歳になった時に『子供がいると思って、学資金を出すような感じで、老後に備えましょう』と祥子は提案した。『祥子に任せるよ』と俺は簡単に答えた。が、公務員の俺はそんな事を考えたことは無かった。俺はそのとき、金銭的なことより、俺たちは堅実な生活をこれからも築き上げていくんだ、という、祥子の意志を感じて嬉しかった。五年ほど前から、祥子は、近所の商店街のスーパーのレジで、アルバイトを始めた。俺は、別に反対をしなかったし、出来るだけ、祥子の気持ちを尊重してきたつもりだった。祥子の変わってきたところは、若い頃には、殆ど、化粧品の類が
が無かったが、今は洗面所にはアンチ・エイジングと称した化粧品の類が溢れている。
俺も祥子もそれほど気にはしていなかったが、子供の居なかったのが悪かったのだろうか、居ない子供の学資金を老後資金・・・・? あの時に不満を漏らしていたのだろうか、俺たちは、子供に関しては、出来ればいいし、出来なければ仕方ないぐらいにしか考えていなかったー
署に近付くにつれて、気持ちがますます落ち込んできた。
高岡の勤務する署は昔高岡が通っていた小学校を改築した建物だった。木造の二階建ての校舎だったが、外形だけとどめ、鉄筋コンクリートの建物に代わっていた。此処で現妻の祥子に会ったのだ。転校生で、確か五年生のときに高岡のクラスに入ってきた。
今までに無かったことだったが、転勤の挨拶は祥子の希望で一緒に行った。
階上の一緒に学んだ教室は、交通課に変わっていて、見る影も無かったが、高岡も祥子も、甘酸っぱい感傷的な気分に満たされた。
百人ほどの生徒の規模だったのか、横長の二階建ての木造で、階上には六部屋の教室、階下は職員室を挟んで、校長室(兼会議室)養護室があった。旧職員室は、刑事部屋、養護室は当直の警官用に使っていて、校長室は署長室兼会議室、上階は会計課、生活安全課、交通課、鑑識課、あとの部屋はロッカー室兼物置になっていた。
テニスコートほどの鉄柵で囲まれた庭が建物の後ろに広がり、パトカーと来客の為の駐車場に使われていた。新たに、地下に取調室その横に四部屋ほど区切った留置所が増築されていた。外からはそれぞれの部屋の窓に鉄格子が組み込まれているのが見える。
玄関の狭山警察署の木の看板は風化して、目を近づけなければ、読めなくなっていた。
玄関と建物は渡り廊下のようになってつながれていた。道路に面している鉄柵と建物の間には、学校らしく、小さな池とか、教材の為の食物を植えていたが、警察署に変わってからは、全部埋め立てて平らにならして芝生にかわっていた。
高岡が通っていた頃は生徒数が五十人ほど、団塊の世代と呼ばれる生徒が居たころの最盛期は150人ほどと聞いていた。高岡が高学年になるにつれて、生徒数が減ってきて、高岡が卒業してから二年後に市町村統合という名目で廃校になった。もともと校区が小さく、近くの商店街の子供達は別の校区の小学校に通っていた。
転校生の祥子は小柄な女の子で、ほっぺたが少し膨れていて、小さい黒子が唇の右横にちょこんとのっていた。高岡の初めての印象は、リス。転向してきた祥子に初めて会った時、高岡の前で、身体をくるくる回して、ブルーのプリーツスカートを翻した、その時に白いパンツが見えたのが、印象に残っていた。
運動神経がよく、運動会で(校庭は狭かったので、近くの公園の中の公営競技上を借り切っていた)百メートル走で少し脹らみかけた乳房を揺らして、一等賞を取った。ますますリスのようだなあ、と思ったのを覚えていた。同級生も同じような事を感じたのか、女生徒の間ではあだ名はリス、同姓(中村)が一人居たので、男生徒は名前のまま祥子と呼んでいた。この年頃は男女とも少し距離を置くようなことがあったが、高岡は祥子との距離をあまり感じなくてよく話をした。
高岡と祥子の仲をやっかむ連中が居て、時々、校舎の壁に相合傘の下に幸弘、祥子と書いた他愛ないいたずら書きを見ることがあった。それを見ても、それほど不快な気持ちになることは無かった。反対に、なんとなく気持ちがくすぐられるような気がした。
淡い初恋のようなものだったかもしれない。
祥子に再会したのは高岡が大学を卒業して、警察学校に通っている頃だった。。通勤電車は大都会のようなすし詰めのような状態ではなく、立っている乗客は、新聞を広げて読めるような余裕があった。高岡君じゃないの、と言って祥子は懐かしそうに近寄ってきた。相変わらずリスのような顔をしていた。
祥子は百六十くらいで、頭の大きさはあまり変化がなく、全体的に女性らしくふっくらとしていたが、乳房は昔のように、膨らみかけたままで、そこだけは成長が止まっているように見えた。「高岡君、そんなにじろじろ見ないでよ」と言われ、あわてて、水色のブラウスから僅かに覗いていた祥子の胸から目をそらしたのを覚えている。簡単に近況を報告して電話番号を交換して別れた。それから幾度か、デートを重ね、高岡が警察学校を終了したときに、結婚をした。
子供は、出来なかったが、家を買い、生活を少しづつ築き上げてきた。
それが、どうして・・・・・・。今まで、築き上げてきたものが、一瞬で壊れてしまったようなむなしい気持ちが沸き起こってくる。
六回の転勤を経て徒歩で三十分、バスで四駅のいまの署(元小学校の校舎)に通って、もうかれこれ三年ほどたつ。転勤のたびに通勤時間が変わったが、今は職住近接で、何となく、このまま定年を迎えるような気がしている。
土曜日の為か、受け付けには私服の女性が居なく制服の警官が坐っていた。交通課の警官が二名ほどに二階に居るだけで、いつもの喧騒は無かった。
刑事部屋から、外を見ると五,六人ほどの少年達の声が聞こえてきた。昔の学校の名残で、中庭の隅にバスケットボール用のかごが残っていて、週末には、少年達がパトカーの出入りする門から、入ってきて、バスケットをしていた。
週日はもちろん禁止だけど、週末は大目にみていた。
バスケットを装備しているところは、駐車場の端にあり、車を傷つけられることも無い。
「おじさん、駄目だよ、ひじと手首でシュート、ちょっと腰を落として」と、少年の甲高い声が聞こえてきた
確か、ケンという名前で、バスケの件は、彼が週末の使用を署長に直接掛け合いに来た。
おじさんと声をかけられた男は、皆、タンクトップとショーツをはいている中で、長袖のブルーのシャツを着て。ジーンズをはいていた。もっと目立ったのは、背が高く、男がボールをバスされると、少年たちはブロックをするけれど、男はそのままシュートに入れるような態勢に持っていけることだった。
男は、バスケは初めてやるようで、バスケットにボールが入ることは無かった。
高岡が窓を開けて見物している視線を感じたのか、男は、高岡の方を向いて少年達に声を掛けて、戦列を離れた。近くのむき出しになっている水のみ場まで行き、顔を粗い、水のみ場に泊めてある自転車のフレイムにくくりつけられていたバッグから、タオルを出して、顔を拭いた。
昨夜の豪雨が夏の暑さと臭いを拭い取ったようで、空気はパリッと乾いて、朝の気温は、汗ばむほどにはならなかった。
男は高岡が立っている窓のところまで近付くと、「なんだか、学校のようなところですね」と言った。島津さんですね、と一応確認をして、受付に居る警官に頼んで、駐車場につながる裏門を開けてもらって男を招きいれた。
島津は。隠れている腕の手首の辺りから、もじゃもじゃとした毛が覗いていた。下は細めの幾分ちぐはぐな黒のジーンズで大きな尻が目立つ。履きふるした白のスニーカーは有名メーカーの目立つロゴが入っていた。スニーカーのベロが少しずれている。間近で見る島津は百七十五ほどある高岡でも顔を見上げなければならなかった。
島津の長袖のブルーのシャツは幾分暑苦しく感じた。
高岡は首の後ろの辺りを指で掻いた。
「暑くないですか」
「長袖だけど、特殊加工なんで、、、自転車が趣味ですから」身体に似合わない小声で答えた。
署の中は、今日から、クーラーを切っているために、外のほうが涼しいかもしれない。
「普段は取調室で、お話を聞くのですが、あそこは暑いし、それに土曜日だから」と、高岡は言って、六人ほどの所帯の刑事部屋の中の片隅に置いてある応接セットに島津を案内した。黒の安物の人工皮革で覆われている四人掛けのソファーに高岡は座り、島津をアームチェーに座らせた。島津は足を窮屈に折った。高岡は、テーブルを引っ張って少し空間を作った。島津はそれでも窮屈なのか椅子を少し後ろに引いた。土曜日の朝の誰もいない事務所の乾いた空気にギイーという摩擦音が響いた。
「佐伯という刑事が同席しますので」と言って、世間話に移った。
高岡が仕事のことを聞くと、
「コンピューター関係で半分はフリーターみたいなもんですよ」と島津は自嘲気味に言ったきり話は進まなかった。
「島津さんは体格がいいですが、スポーツをやっておられるのですか」
「自転車が好きで、よく乗っています」
あまり、無駄口を叩くのは、好きではないようだった。
沈黙が訪れた。
「あ。済みません、今、御茶を入れますから」佐伯の声が高岡の背中越しに戸口から聞こえてきた。時計を見ると十時きっかりだった。机の上にバッグを、置くような音がして、部屋の片隅の給湯室に向かった。
「コーヒーがありますけど」と給湯室から声がした。コーヒー好きの高岡が買い置きしているものだった。
「私はコーヒーで」と、高岡に男は言った。
「じゃあ。コーヒー」と、高岡は少し首を曲げて給湯室に向かっていった。
コーヒーを持ってきた佐伯は黒系統の薄手のジャケット、青いブラウスと下は白のパンツ姿だった。香水を沢山ふりかけてきたようで、きつい匂いがあたりに漂った
いつもは、白のブラウスで、上下とも黒系統のスーツを制服のようにして着用して、ほのかに匂うほどの香水をつけてくるので、高岡には何となく全体にちぐはぐな感じがする。
コーヒーを置くと、トレイを近くの机の上において高岡の横に坐った。
「こちら、佐伯刑事です」
香水とコーヒーの香りが辺りを包んだ。
「どうか、宜しくお願いします」
佐伯は頭を軽く下げた。職業的なものか、目が少し尖っている以外は、佐伯には理知的な雰囲気がある。色白で、額が広く顎が少し尖りぎみだった。
「すみません、ちょっと煙草を吸っていいですか」島津はポケットをもそもそと探った。
あちこちに禁煙のマークのシールが張ってある。普段は玄関先に出て、吸う事になっていた。
「佐伯君、どうかね、私はかまわないけど」
頭をこっくりさせて、かまわないと同意して、急いで普段は迷い猫の餌箱になっている小皿を給湯室から持ってきた。島津が出してきたのは、ジターンというフランスの両切りの黒タバコだった。
「へえ、ジターン吸うのですか」
高岡も学生時代に島津と全く同じジターンを吸っていたことがある。始めは、なんとなく格好をつけるような感じだったが、黒煙草を吸いつけると普通のタバコは吸えなかった。問題は匂いがきつかった。家人と同僚から指摘され今は普通の煙草を吸っている。
佐伯刑事の香水の香りは跡形もなく消えて、葉巻の匂いを抽出させたような匂いが漂った。いつの間に開けたのか島津の横の窓が開いていた。首を少し曲げてそちらに煙をふきだすように島津はジターンを吸った。
「それじゃあ、佐伯君も来たので、始めましょうか」と、高岡は言った。
佐伯は録音機のマイクにスイッチを入れた。島津の顔に一瞬、緊張が走った。
マイクに向かって、高岡は、日時、場所、自分の名前と佐伯の名前、島津の名前を言った。録音機は、声を出したときだけ、稼動するようになっていた。
高岡は、ファイルの中から写真を出して島津の前に置いた。
「島津さん、この女性なんですが」と言って、写真をファイルから取り出して島津に見せた。額が広く、顔の下半分に、顔の造作が集まっていた。さびしい顔をしている。原色のグリーンのセーターが女の顔とは少しちぐはぐな印象を与えた。睫は付け睫なのか目をパッチリさせる効果はなく、目の上を覆ってしまう感じで額の下顔半分に目、口、鼻等がかたまっていた。耳を髪の毛に下に隠れるようにしていたがかなり大きな耳のようで隠しようがなかった。
島津はその女性の家を、木陰から見張っていた。
たまたま巡回中の警官が見咎め、職務質問をした。
ストーカーの類かとも思ったが失踪女性の家に頻繁に電話をしたとか、というような形跡はなかった。島津の犯罪履歴はなく失踪後も家に様子を見に行っているので失踪に関連しているをは思われなかった。それに、職務質問をした警官に島津は女性に何かあったのか聞いていた。
「島津さん、今日、来てもらったのは、なぜか、お分かりになりますか」
「この女性が失踪した、というのを聞いています」
「島津さん、この女性とはお知り合いか何かだったのですか」
「全く知らない女性です」
「それがどうして」
島津と佐伯は返事を待った。
島津は、出された写真をずっと見ていた。
―人違いとでも、弁明するつもりなのだろうか。聞き込みで女性が失踪する一週間前に、島津が、女性の近辺に居たことがわかっている。近所の喫茶店で聞くと島津の写真を見せなくても、背の高い毛深い男というと、すぐに喫茶店の店主は。その人だったら夜よく来てられました。この近くに最近引越しされてきた人なのか、と思っていましたが、と答えた。その店主がダンボに似た女性が連休の最終日にランチを食べに来ていた、と証言をしていた。それからの足取りが消えているー
島津は顔を上げて高岡に言った。
「刑事さん、この女性ダンボに似ていると思いません」
―確かに、似ている。女性が働いている会社でもダンボと呼ばれている。それがどうしたのだろうー
「島津さん、この人がダンボかどうか確認する為に家を見張っていたのじゃないでしょう」皮肉交じりの冗談のように島津は言った。
佐伯はいつの間にか島津の横のアームチェアの椅子を後ろに引き、島津の斜め後ろに坐っていた。
「まさか・・・」と、島津は冗談に取らず、高岡に言った。
「勿論冗談ですよ。若い女性が失踪した。その女性の家を毎日通っていた、となれば誰でもおかしいと思うでしょう」
島津はようやく、重い口を開く気になったようで説明をしだした。
島津の話は単純だった。島津がたまたま乗った電車の向かい側にこの女性が坐っていた。少し頼りなさそうな様子が気になり、女性が降りた駅で島津は降りた。
「頼りなさそうな様子だったので、何かあれば、手を貸してあげるような、という事ですか」
「まあ、そうですね」
「あとをつけて行っただけで、何もしなかった、と言うことですね」
島津は頭を縦に振った。
「電車の中の様子をもう少し説明していただけませんか。他の乗客も、彼女の頼りなさそうな様子を見ていたのですか」
「気付いたのは私だけだと思います」
「頼りなさそうというのは、崩れ落ちそうになったり、顔色が悪かったり、というような感じですか」
島津は二本目のジターンを取り出した。肌の浅黒いスポーツマンタイプの島津が煙草を吸っているのは幾分違和感があった。
「顔が寂しそうだったんだなあ・・・うまく言えないけど、彼女の周りには全く何もないという感じです」
「他の乗客の誰も気付かない、というのはおかしいですね」
島津は口を開きかけて何か説明をしようとしたが、「たしかに」と言っただけだった。
「でもね、島津さん、それから何度も彼女の家の近くに行って家を見張っていたのでしょう」
夕方に毎日二十分ほどかけて島津は女の家に自転車で通った。
島津は、女が在宅しているのを見届けると、そのまま帰った、と言った。
女が帰宅していないときは、島津は駅前の喫茶店で時間をつぶした。
一週間ほど通ったあと女は突然居なくなった。
それから、失踪届けが出され家を見張っていた島津を警官は尋問した。
それが今、島津が高岡と佐伯に対面している理由だった。問題は島津は女が失踪したのを知らなかったことだった。
佐伯が口を切った。
「島津さん、その女性に惹かれたというようなことですか」
「惹かれたのかなあ、、、」と、独り言のように言った。
「惹かれて後をつけていって様子を窺がう、というのはストーカーがよくやることですよ」
「うん・・・・それじゃあ、惹かれたというような気持ちじゃないです。私は女性にはうんざりしていますので」
女性の佐伯刑事に面と向かって言ったので高岡は少し驚いた。
島津自身自分の言葉に驚いたようで、あわてて、
「別に刑事さんがどう、という事はないですから」と、付け加えた。
「私の女房のことですから、気にしないで下さい」
「奥さんのこと、というのは」佐伯の目が光ったように見えた。
「今、離婚訴訟の最中なんです。ちょっと長引きそうで・・・・・」
「と、いう事は、女性には長い間接していない、という事ですか」
島津には質問の趣旨がわかったらしく、
「だからと言って、女性をどうこうするという事はないですよ。ともかくもう女性はこりごりなんで・・・私らには大学生の息子がいるんですよ」
高岡も佐伯も、驚いた。短髪で童顔な島津に大学生の息子がいるというのは意外だった。島津はどう見ても三十半ばくらいにしか見えなかった。
高岡は調書の隅に記入してある生年月日の項を改めてみた。
確かに四十の前半で、大学生の息子が居てもおかしくない年齢だった。若く見えるのは、太い眉の下から見える目だった。そこだけ年を取るのを忘れたかのように少年のような、丸い大きな少し頼りなさそうな黒目を湛えていた。
―この男もてるんだろうなあーと、改めて、高岡は島津を見た。
「この離婚話が出てきてから、息子は下宿するというのでさっさと出て行きました」
「夜は、誰も居ないし何もすることがないので、それでこの女性の家を覗きに行ったという事ですね」佐伯の口がは少し尖った。
「確かにそう言われれば、そうですけど」当惑して島津の顔が赤くなったのか赤黒く島津の顔が変わった。
「でも、私はその女の人が失踪したのを知らなかった」と島津は弁解するように付け加えた。
「島津さん、もし、私がその人の立場だったら、知らない人間が夜な夜な敷地内に入ってきて部屋の中をのぞかれている、気味が悪くなって引越しをするかどこかに身を隠すかもしれませんよ」佐伯の舌峰は次第に鋭くなってきた。
「でも、その前に警察に行くか知り合いに相談するか、しないですか。ともかくそういう人じゃないです。私が初めて見たときも全く周囲に構う様子はなかったですから」
「島津さん、この女性がそういう人じゃ無いってどうしてわかるのですか。さっきは頼りない様子だといってたんじゃないですか。それで庇護したいと思って自分の駅を乗り過ごして、一駅先の駅まで行ったんじゃないですか。頼りない様子と周囲にかまわない、というのは少し矛盾していると思いません」
「頼りないけど、周囲にかまわないという人はいると思いますけど・・・」
「島津さん自身が、庇護してやりたいというような気持ちにさせられたのでしょう。ほかに乗り合わせた人で島津さんのように彼女の後をつけて何かあれば庇護したいと思うような人が居たとは思われませんけど・・・・それとも島津さんだけに何かアピールするようなものがあったのでしょうか」
佐伯は島津の後ろに立って、尋問をしていた。
島津は黙っていたが、島津の表情が動いたのが向かいに坐っていた高岡には見えた。
「巡邏中の警官は島津さんが見張っていたと言っていますが、誰も来ないのを見計らって忍び込むつもりだったんじゃないですか」
「ちょっと待ってくださいよ。どうして私が泥棒のような真似をしなければならないのですか」少し、島津の声は少し興奮しているのか震えた。。
「ストーカーをした後女性を誘拐した。それから証拠品が残っていないか見に行った。二,三日誰かが来ないかを警戒して中に入らなかったが警官に職務質問された日か次の日ぐらいに中に入って証拠隠滅を図るというような計画じゃなかったのですか」
「でも、そんなことをするようだったら誘拐した日から姿を隠すでしょう。それに私は警官にははっきりと住所と名前と電話番号をいっていますから。第一もし私が誘拐するようだったら、近所の喫茶店なんかに出入りをして目立つようなことはしませんよ」
島津は首を少し横に向けて佐伯の言葉をさえぎるようにして、答えた。
「それが手でしょう。加害者は現場に戻ると言われているし島津さんのように目立つ人だと自分から疑いを持たれないように思ったんじゃないですか」
島津は大きくため息をついて頭を抱えた。
「わかりました。私が何故彼女に興味を持ったのか説明します。但し録音機は使わないで下さい」
「島津さん、今日来てもらったのはその事を聞くのが目的なので、録音はさせてもらいます」佐伯は譲る気配は無かった。
島津は黙った。
五分ほど沈黙が続いた。沈黙を破ったのは高岡だった。
「録音を取られたくないのは、何か理由があるんですか」
「物笑いの種になりたくない為です」
「わかりました。島津さん。切りますけど今更いう事は無いですけど、はっきりとした事を言ってください」高岡は録音機のスイッチを切った。
「先ず、私のいう事を笑わずに聞いてください」と、前置きを言って島津は話を始めた。
「私は写真を見れば人の生死がわかるような能力を持っているのです。このことか
ら話をしなければ何故私があの女性をつけたのか、分かっていただけないと思いますので。もし差し支えなければ何か写真を見せていただけますか」
高岡の横に坐った佐伯は、直ぐに部屋から出て行き、写真を持ってきた。
「島津さん、この写真は一般の人には本当は見せられないのですが・・・・」
暴力団関係の写真のようで、A4ぐらいに引き伸ばされた写真にはいかつい顔をした男が写っていた。装甲車のようなベンツが止まっていてそこに乗り込む幹部らしい男を見送っているような男達がベンツの後ろに十人ほど写っていた。
「この十人の暴力団員」と、佐伯は指差した。
島津に、説明する必要がないようで島津は直ぐに十人ほどの団員に目を移していた。
島津は三人ほど指差してこの人たちは亡くなっています、と言った。佐伯はプラスティックの透明の用紙を上にかぶせた。その半透明の用紙には、写真の人物が象られていてその上に名前が記されていた。佐伯は素早く名前を書き込んで少し離れたコンピューターのところに行って名前を打ち込んだ。
「確かに、この間の抗争のときに、亡くなった構成員です」
「他に写真があればもっと納得してもらえると思いますよ」
次に佐伯が持ってきたのは宴会をしている六十ぐらいの男女が十人ほどが写っている写真でどこかの観光地にあるような日本旅館の一室だった。
島津は、少し、驚いたように「二人だけしか生存していない」と、言った。
「この人たち、帰りにバスの事故にあって・・・確かにそうです、この二人しか生存者が居ないのです」名前を確かめること無く佐伯は言った。
「どうして、写真を見ればわかるのですか」と高岡は単純な質問をした。
「写真を見ると、生きている人には黒い膜が掛かっているように見えるのです。黒い膜がかかっていない人は死んでしまっているのです」
高岡は喪中に出す黒枠の葉書を思い浮かべた。島津の能力は反対に、黒いものがかかっていない場合は、死んでいる、ということだなあ、と思った。
「わかった信じましょう。でもそれとこの女性の失踪と何か、関係があるのですか」
「私、この女性と電車の中で乗り合わせたときにコンピューター関係の本を読んでいたのですが、写真だけしか見えない膜がこの女性に見えたのです。それも金色に光っているのです。黒い膜の上にきらきらとしたような金色が見えたのです。びっくりして女性をみると、何か思い出に浸っているような感じで、私がまともに見たのに気が付かなかったようです。私は始めは自分の目に異常が起きたのか、と思ったぐらいです。電車が走っている途中で陸橋のようなところに差し掛かりトンネルのような状態になるのですが、そこを走っているときに、電車の明かりが一瞬停電のようになって消えて暗くなって、はっきりと自分の目が悪いのではないとわかりました。金色の光が、全身に纏わり付くような感じで、暗がりの中で光りました。彼女が停車駅で降りるときに一瞬消えたのですが、それから、またきらきらというような感じで金色の光が見えました。なんとなくわかったのは現実の世界に戻ったときにその金色の光が消えてしまうことです。この女性は何処から来たのか、というのが私の疑問でそれで毎晩見に行ったのです」
高岡も佐伯もいう言葉が無かった。写真を見せて島津の能力を見ていなければ、本当に下手なそれこそ物笑いになるような言い訳かもしれない。
写真を見せた後の島津の説明は良くわかった。
「島津さん、なんとなくわかるような気がしますが、何時ごろくらいからそういう能力を自覚始めましたか」
「もう五年以上前ぐらいになりますが、電車で事故にあって、昏睡状態になったときにへんな夢を見た所為かも知れません。わかったのは、四年前くらいに女房の同級生の記念写真見せられたときぐらいから不思議な能力を自覚し出しました」
「あの、たとえば誘拐された人が公開捜査で新聞に写真が載ったりしますよね。それで、その写真を見れば生死がわかることもあるのですか」佐伯の言葉遣いが幾分丁寧になってきている。
「勿論、わかります」
「それで、警察に知らせていただくようなことはありませんか」
「すみません、コーヒーまだ残っていたらいただけますか」島津は気を落ち着かせようとしているようだった。
「残っていないですけど、今すぐつくりますから。高岡さんもコーヒーですね、私も頂きますから」佐伯は立って、コーヒーメーカーのところに行った。
「一度だけですけど何か参考になるかと思って、警察に電話をしたことがあります。その誘拐された女性は公開捜査のため新聞に写真が載っていて黒い膜が見えて生きているのがわかっていたためです。そのときに警察の人が、電話で聞いても、わからないから、と言って、私は少し説明したのですが、笑われて、こちらが真剣に説明すればするほど今度は、加害者扱いにされて、初めは私を説得し出したのですが、勿論私はなんとも出来ません。それから、急に態度が変わって・・・・思い出すだけでもいやな経験をしました。それに、警察発表では、殺害されたのが、誘拐から五日たってから、実際には私が写真を見た限り、一ヶ月以上は経っていましたから」島津は、コーヒーメーカーのところに居る佐伯に聞かせるためか、声が大きく聞こえた。
「それで、改めて、お聞きしますが、島津さんがこのダンボに似た女性をこの写真で見る限り、生きていますか」
「この写真では、金色はみえませんが、黒い膜が見えますから、生きているのは間違いないです」
「あのまさか、何処にいるか場所がわかるというようなことは無いですか」トレイに運んできたコーヒーセットを置きながら、佐伯は聞いた。からかわれていると思ったのか島津はむっとした。
佐伯も様子がわかったらしく「すみません、そんなつもりじゃないですから」と、謝った。
「いや、島津さん、良くわかりました。ただ何か、この女性に関して気づいたことは無いですか」と。高岡はとりなすように言った。
「私も、こんなことは初めてなので、わかりませんが、なんとなく、別世界から来た人じゃないか、と感じました。異星人とか、別の世界、パラレルワールドとかです」
「他に気づいたことは何かありませんか」と、高岡は念を押すように尋ねた。
「ついでに、物笑いの種にでも、もう一つ御話しておきますよ」島津は少しためらった後、皮肉でもいうかのように、話を続けた。
「彼女が居なくなった前の日に、白い猫が、窓のところに、坐っていたのです。居間の中の窓のところに備えられた棚のようなとこに坐っていました。彼女と猫が話しているように見えました」
「あの、猫とですか」
「信じてもらえないなら、いいですけど、私が隠れていた場所からはそういう風に見えたという事です」
「あのう、声が聞こえないのなら話しているのはわかりにくいと思いますけど」
佐伯の質問は素直に聞こえた。
「猫が身振りとか手振りをしたので、話をしているのではないか、と思っただけですから、実際に話をしていたかどうか本当にわかりません。それで、この女性が猫に怒り出したのです。私が隠れていたところからでも、ものすごく怒っているのが見えました。声が
聞こえてきたくらいですから」
「なんと、言ってました」
「フックユーだったかファックユーだったかそんな事を叫んでいました、猫は臥せってしまって、動きませんでした。それから、彼女泣いているように見えて、猫は伏せの姿勢から恐る恐るこの女性のところに近付いていきました。謝っているように見えたし女性を慰めているようにも見えました。それから、女性は携帯で誰かと話をしていました。次の日から、彼女は消えたのです」
「じゃあ、私はこれで、失礼します」島津は残りのコーヒーを飲むと立ち上がった。
高岡も佐伯も、ぼんやりしていた。島津の超能力は、わかったし、それに続く話もわかった、猫の話し以外は・・・・。
「私は、彼女はどこか別の世界から、こちらに来たのではないか、と思っています。あの白い猫も同じ世界に住んでいると思っています。話をする猫なんてこの世界にはいませんからね」
あっけにとられている二人に向かって、島津は独り言のように話をした。
われに返った高岡は、「すみません、お忙しいところ、一つお願いがあるのですが、この女性の写真を持って帰ってくれませんか、それで、もし異変があれば知らせていただけたら助かります」
「いいですよ。刑事さん、ある程度信用して頂ければ私はいう事は無いですから。それと、刑事さん、この女性案外自分の世界に戻っているかもしれませんよ」
「ちょっと、佐伯君、私、島津さんを送るから」と言って、高岡は島津と同じように立ち上がった。
「すみません。島津さんのことは、本当に信用します。ちょっと、お願いがあるのですが」と言って、玄関を出てから、高岡は財布入れから、色の褪せた縁が丸くなってしまっている写真を取り出した。少し若く見える高岡と女性が写っていた。女性は目が理知的な感じだったが、少し頬が膨れていて、なんとなく垂れ下がっているように見える。上唇の少し上の右横の黒い黒子が少し目立った。
「この写真が何か」と、島津は聞いた。
「この女性が生きているのかどうか見ていただけませんか」
「生きていますよ。奥さんのように見えるけれど奥さんが行方不明になっているのですか」
「いや、そうじゃ無いですけどちょっと確認だけです」それ以上は聞けないような雰囲気で、高岡は話を打ち切るように「どうも有り難うございました」と言って軽く頭を下げて島津を見送った。
島津は自転車に乗りかけて、何かを思い出したかのように、あのすみません刑事さん、と呼びかけて戻ってきた。高岡が玄関口でタバコを吸おうとしているところで、火のついていないタバコを口に咥えたままだった。
「刑事さん、鞍馬天狗って御存知ですか」意外な名前を島津は口にした。
「勿論」と、答えると、口に咥えたタバコが揺れた。
「仕事仲間に見せてもらった鞍馬天狗の写真に幕が出てきて、映画年鑑では六十五歳ですでに亡くなっているのです。ちょっとこれだけは気になっていて」と、言って自転車に乗った。タバコに火をつけるのを忘れて高岡はそのまま島津を見送った。
高岡の女房
皮肉なものだった、若い女性の失踪届けが出された日に、高岡の目の前に若い女性が現れた。それも、高岡の女房と称して・・・・・。
その日・・・・
二日ほど無断欠勤をしていて、連絡が付かない、と言って、失踪届けを提出しに来たのは会社の同僚で前畑沙世と名乗った。大柄な女で、ほぼ高岡と、同じくらいの背格好だったが太っている、まぶたが重い感じと細い目の為話をしていると、時々眠っているのでは、ないか、と思うような事があった。
女の住居に行く前に遠くに住んでいる女の母親に佐伯が電話をした。
どこかに、旅行でもしているのでは、ないか、というのんびりした返事が返ってきて、無断欠勤しているのですが、と言っても、会社に迷惑をかけてしまって・・・・という返事で、切迫した様子は感じられなかった。捜索願いが、会社から出ているので、今から、住居に行くけれど、居所を知っているようであれば、教えてほしいと頼んだが、解らない、と言って電話を切られた、と佐伯は、高岡に報告をした。
万一のことを考えて、高岡と佐伯は前畑の案内で、署の覆面パトカーで、女の住居に向かった。前畑は、会社の総務から、住所を聞いてきたようで、前畑も始めての場所のようだった。
車の中で、簡単に、前畑は仕事の話をした。
社名は英雄インターナショナルで、主に中古機械の売買を営み、売り手買い手は各国にまたがり、工場のライン一式或いは、工場そのものを、売買したりする。三十名ほどの会社で、語学が最優先のため、帰国子女とか、バイリンガルの連中を雇っていて失踪した女性も。その母親も今は日本にいるが、スコットランドにずっと住んでいた、私は、シアトルに住んでいたが、こちらに職を得て、住みだした、と前畑は説明をした。
前畑は女のことをダンボと呼んだ。ダンボは、会計の担当で、入社してから三年程、前畑も、前後して入社した、と言った。
会計担当の女性が無断欠勤ですか、と、佐伯は、前畑に聞いた。
ダンボの課に、課長で北川というのが居り、一応今朝書類を調べたようですが、別に事件があるというような感じではないです、と前畑は答えた。
前畑さん、失踪に関しては何か、心当たりは、ありますか、高岡の質問。
ほぼ、私とダンボは同期なので、時々社内で話をしたりするけれど、個人的には、それほどの付き合いはないので、わかりません、前畑は素っ気無く言った。
芝生に囲まれた家の前に車を横付けできずに、少し離れた、駐車場の前に、車を置いた。車のドアを開けると、草いきれでむっとする。車から降りて、家を見ると、前畑の口からため息が漏れて、ああ、やっぱり、と言葉が続いた。高岡と佐伯の怪訝な顔に答えるように、この家は社長の持ち家なんですよ。あくまで、噂だったんですけど、社長が一年ほど前に離婚したときに、家の手入れを兼ねてダンボに住んでほしいと、頼んだようなんです。今は、社長は会社の近くにマンションを買って住んでいます。噂は本当だったんだ、と、言った。
外観は古い印象を与えた。白いモルタルで塗られていたが時々ささくれ立った板がのぞいて、中には少し、反っているような壁板が見えた。三角形の屋根は黒い屋根瓦が使用されていた。正面から見ると玄関口の横に、窓が並び、窓にはカーテンがかかっていなかった。こじんまりとした概観は、家が草原に横たわって寝ているような印象を与えた。
外に面している窓から、中をのぞくと、白い皮の応接セットが見えた。
佐伯は、玄関口で、マットの下を覗いたり、植木を動かして何かを探しているようだった。窓から覗いている高岡と前畑に鍵を見つけましたから、と言って、呼んだ。
佐伯はカバンの中から、ゴム手袋と、スリッパを出して、高岡と前畑に渡した。
玄関の横に、正面から見える応接間、玄関の裏は台所、応接間の裏は廊下を挟んで二寝
室縦に並んでいた。トイレは応接間と寝室にはさまれるようにして、廊下の端にあった。
中はすべて板敷きのパーケットになっている。
各部屋を見る限り、争った形跡とか、何かがあったような乱れた様子はなかった。ソファーの前のテーブルの上には果物かごがあり、リンゴが五個ほど萎びて入っていた。
薄型のテレビが、壁にかけてあった。応接間の窓の横に本棚があり、雑多な本が並んでいる。大半は洋書で、前畑は、どっしりと腰をおろし、その中の一冊を手にとって読み出した。その様子を見ると、ダンボの事を心配してというよりは、義務感があり調査願いを出しにきたようにしか思われない。高岡は、本棚の中に、住所録か、何か無いかを探していた。本棚の中の一角はDVDが占拠していた。日本のDVDは復刻版の鞍馬天狗のDVD以外は皆無だった。
あと住所録があるとすれば、電話の傍だが、肝心の電話が見つからない。前畑は、相変わらず本から目を離さなかったが、電話の事を聞くと、いつもは携帯ですけど、此処に電話を掛けてみます、と言って自分の携帯を出してきて、本を膝に置いたまま電話を掛けた。電話の音が寝室からかすかに聞こえてきた。寝室の押入れの中に電話があったが、使っていないのか、埃がかぶっていた。住所録がないかと改めて、小さな懐中電灯で電話の辺りを照らした。だらしなく大口を開けた女の顔が懐中電灯に照らされた。
胴体部分の空気がねけたダッチワイフの頭部が、ぺしゃんこになった自分の胴体を見ているような格好で、光に浮かんだ。寝室には若い女性が好むような大きな縫いぐるみは見当たらなかった。
ダンボという女はこんなダッチワイフを抱いて、寝ているのだろうか。
外側からの見かけは貧相だったが、家の中は対照的に、豪華なものだった。
前畑を近くの駅まで送って、高岡と佐伯はそのまま署に帰った。佐伯の作成した報告書を読み終えて、、外を見ると、暗くなっていた。
それから、その日の夜・・・・・
女房が帰ってくる日で、枯らしてしまった観葉植物の替わりの二鉢を買って、家に急いだ。ダンボと呼ばれる女性の住んでいたところと比べると、外観だけは太刀打ち出来るが、囲いの門から五歩ほど歩くと、玄関口に着く。
台所から明かりが洩れていた。玄関からプーンと、豚の角煮の匂いが鼻を刺激した。久し
ぶりの家庭料理だ。女房の祥子は、連休に架かったとはいえ、彼女の父の法事、小学校と中学校の同窓会、旧交を温めるためと言って、一ヶ月ほど留守にしていた。
留守中には近くの大衆食堂によく行っていたが、味付けが同じ為か、近頃は、何を食べても、同じ味がした。時々は、同僚と飲みに行くような、束の間の自由を味わったが、やはり家庭で、落ち着いて飯を食うのが、合っている。勝手なもので、女房が、家に居る時には、仕事と言って、同僚と飲み歩くことがある。それも、女房が家庭に居るからで。女房が居ないときに、飲み歩いても、なんとなく物足りない、思いがしていた。
台所に知らない女が立っていた。
女は、下着が見えそうな黒のコットンのミニをはき、高岡の方を振り向いたときは黒の半そでのシャツ、3つほど上からはずしたボタンの隙間から、胸の谷間が覗いた。
鍋の中には高岡の好物のジャガイモと豚の角煮がぶつぶつと音を立てて入っていて、柄の長い大きな料理用スプーンで、女は時々料理をかき混ぜていた。
初めは、高岡か、祥子の姪が来ているのか、と思ったが、そういう姪に心当たりがなかった。祥子の黒子と同じところに振り向いた女の上唇の右横に小さな黒子があった。
女は口に人差し指を当て、テーブルの上に置いてあるA4の紙を指差した。
その上にボールペンがのっていた。A4の紙には、おかえりなさい、と入っていて、文章が続いていた。
私、今しゃべれないの。声帯の手術もしていて二日間ぐらいしゃべれるな、といわれているの。
いきなり見も知らない女から、そんな事を打ち明けられても、高岡にはどうしようもない。改めて女の素性を聞かなければ、と思いボールペンを取って、書きかけた。女が書い
た字は、祥子の筆跡にそっくりだった。
私、ここに住んでいる高岡といいますが。どなたですか。
女は、嬉しそうな顔を見せて、ボールペンを取って、高岡の文章に続けた。
私、私を誰だと思います?
女は大きなクエスチョンマークを書いた。
こんな、謎々の様な事をしていても仕方が無いと思い、高岡は、その文章の横にクエスチ
ョンマークを書いた。
私は高岡祥子です。あなたの女房、と書いて、女房のうえにX印を書き、妻です。と書き換えた。
妻といっても、私の妻は50近くで、少しふっくらとして、かなり違います。
女は、唇の下に合わせた手を持ってきて、少し考えるような様子をした。それから、高岡を見ると、ボールペンを走らせた。
手術大成功!!!
下に続いた感嘆符を強調する為か、ボールペンで、二度ほどなぞり、太字にしていた。
どう、私きれい ??????
クエスチョンマークは最後の段落まで続いた。
きれいとはおもうけど・・・・手術って?
整形手術よ。
「立っていてもなんだから、坐ってください」と、高岡は女に言った。
知らない女に、自分の家の台所のテーブルの椅子に坐ってもらうよう、勧めるというような感じだった。
相手の女は、耳が聞こえるのだから、自分も筆記する必要がないという事に気づいた。
女は、鍋の様子を見るためか、高岡の斜め横に坐った。
「整形手術したって、私は聞いていません」
女は、言ったら反対されるのわかっていたから、と書いた。
「でも、一応相談があってしかるべきじゃないですか。だいいち、お金のこともあるし」
お金の心配は大丈夫、私の貯金でまかなかったら。
「貯金って。スーパーのレジのアルバイトの分」
うん、そう。
「どれくらい、かかった」
300万円ほど。フェイスリフトの分高かったから。
「そんなに貯めていたのか、300万円あったら、家のローン三年分くらい払えたんじゃないか」
そう言われると思っていたから、黙って手術受けたの。それに、あなた、いつでも自分の好きなことに使ったらいい、といってくれていたし。
「でも整形手術に使うなんて」
女は立ち上がって、鍋の中をかき回して、椅子に座った。
あと、二週間待ってよ。あなた私が整形手術したこと後悔しないと思うから。
「二週間待つというのはどういうこと」
少し、女は書くのをためらったが、思い切ったように、書きなぐった。
あそこも手術したの、きっとあなたも喜ぶと思うけど、まだ使えないの。
「解らない。どういう事」
セックスのことよ。
高岡の声だけが台所に響いた。
「祥子といっても、本当にあんたは祥子なの」
ねえ、それだから、私あなたの好物の煮込みを作って待っていたの。
「そんなこと誰でも隣近所で聞けばわかる事だから、証拠にならないよ」
高岡刑事、勤続二十五年。この間賞状もらってきて、お前のおかげだと、言ってくれたじゃないの。
「そんなの、警察に、私の知り合いだと言って、私の同僚に聞けば解る、と思うけど」
あ、そうだ。セックスの最中に私より大きな声で、祥子、オレ、イク、と言ってくれるじゃない。
「まあ。俺は少し早漏気味だからなあ」
あっ、御免、間違えた。セックスの最中ではじゃなくて、セックスの最後に。
「まあ、いい、俺はまだ本署に行かなければならないから」
じゃあ、ご飯食べて、行ってらっしゃい。
「今夜は帰れないかもしれない」
あなた、怒っているの。
「うまく言えないけど、見も知らない人と同じベッドで寝れないのが本音だなあ」
私はあなたの女房の祥子です。
「喉が直って話が出来るようになったら、話そう。きりがないから」
確かに、彼女が書いた字は祥子の字だったが、同じ位置にある黒子を除いて、あまりにも、違う。紙との会話をした後、高岡は急ぎ、飯を食べおえた。台所の調理用具は古く、急須のふたは少し欠けていた。女房だけが新しくなってしまった、と。思った。
祥子は、食事の用意をすると、居間に行って、テレビを見出した。
いつもは、台所のテーブルに座り、一緒に食事をするのだが、高岡が怒っているので、一緒にいるのが気まずい思いがあるのだろうと、思っていたが、どうやら喉の加減か、あまり食事が出来ないようだった。長年の習慣で、高岡が怒っても、気にしないようになっていた。
どういう事なのか・・・若い女の失踪届けを受け付けた日に 若い女が、女房だといって、高岡の家の台所に立っていた。
その日の夜は、署に行って、備え付けてあるテレビを見て過ごした。署の中は、時々、制服の警官の出入りがあるだけで、静かなものだった。俺は一体祥子に何をしたのだろうか、テレビの画面は、プロ野球の結果と、順位等の放送をしていたが、画面を見ても、気持ちが、入っていかなかった。あいつ、俺が冷たくしたので、今頃泣いているかもしれない、と思ったが、自信は無かった。若返っていかにも楽しそうに、料理をしていた祥子が目の前にちらついた。前に、あまり、容姿のことで、祥子をからかいすぎた為なのか、でも、祥子はそんなに気にするようには見えなかった。一度は、ブルドックと言ってしまったことがある。だけど、あいつは面白そうに、笑っていたのに・・・・。祥子への腹立ちより、高岡は、祥子の気持ちを量りかねている。
「男は、年を取れば取るほどファンが増えてくるけど、女は反対、年を取れば、どんどんファンが離れてくる」と、祥子が、言っていたのを思い出した。
その時に、ファンというのはどういう意味か、と聞いた。周りに居る異性のことよ、と祥子は答えた。
「高岡さん、私にもファンが居たのよ」冗談を言うときの祥子の癖か、時々高岡を姓のままで、呼ぶことがあった。
「でも、俺が、あんたの永久の異性のファンだから、それでいいじゃないか。永久のファ
ンなんて、そうは居ないから」
その時にそう言った事を思い出した。
「祥子の永久異性ファン、此処に一人発見」と、言って、笑いながら祥子は抱きついてきた。
俺たちの夫婦仲は決して悪くは無かった。祥子は整形手術をして、ファンを増やそうとしているのだろうか。永久ファン一人じゃ、飽き足らなくなってきたのか。
その夜は、深夜、祥子が寝た頃を見計らって、大きなダブルベッドの片隅に、借りてきた
猫のように寝た。
祥子は昨日から、声が出せるといって、話し始めたが、声が時々裏返って、低い声のときは、確かに、整形前の祥子の声に聞こえた。何かを思い出したように、コンピューターの前に座って、、ボイストレーニングをし出した。声を出せても、まだしばらく、話をするのは時間がかかるように思えた。
今日、島津に写真を見せたのも、あまりの変わりように、それが本人であるか、どうか、確かめる為だった。
ダンボの家で
島津の尋問を終えた翌日鑑識課の人間が家宅捜査に入った、
高岡には、少し遅いように思えたが、肝心の肉親の母親が、鷹揚に構えている為に、緊迫感がなく、それでも、時間が経過している為に、部長が改めて、鑑識に指示を出した為だった。
鑑識の人間は、手に蛍光ランプを持ち部屋の隅ずみを入念に照らした。
血の痕跡を調べているようだった。高岡は一緒に見ていたが、澤田(課長)の迷惑そうな一瞥で、ベランダに出て煙草を吸いだした。澤田も課員に仕事を任すようにしてベランダに出てきた。
「高岡さん、家のほうはどうなの」
「家のほうって、どういう意味」
「若い奥さんをもらったって」澤田の苦虫を噛み潰したような顔から、わずかに笑顔がもれた。
「天野さんから、若い女の人が出入りしている、と電話があったよ。奥さんの顔を見ない
ので、別の女と再婚したんじゃないか、といっていた」
天野というのは、高岡の昔の上司だった。定年になって、高岡の近所に住んでいたが、あまり気の合う人間ではなかったので、行き来はなかった。
「あの人も暇なんだなあ」高岡は呟いた。
高岡と澤田は同期だった。澤田も刑事として高岡と一緒に同じ課で働いていたが、途中で転課になった。転課になって、しばらくして課長職に就いた。
昔のような気軽さはなくなったが、時々はくだけてきた。
苦虫を噛み潰したような顔をしているのは昔からで、本心はなかなか窺がえなかった。
「天野さんが見たのは俺の女房だよ」
辺りに誰も居ないのを確かめて、高岡は答えた。それから高岡は一部始終を話した。
「へえ、あのブルドッグみたいだった奥さんが」
澤田は思わず口を滑らした。三百万円ほどかかったというと、澤田は少し考え込んだ。
「そんなもんで、出来るんだったら、女房に話をしてみてもいいなあ」と、澤田は意外なことを言った。高岡は澤田が自分と同様それほど、余裕があるとは思っていない。むしろ、澤田には子供が一人居るために高岡の方が余裕があるかもしれない。ただ、来年大学卒業で、少しは楽になると聞いていた。澤田の女房も、事務職で、働いている。フルタイムで働いているので、捻出できるような額かもしれないが、澤田が、整形を肯定的に見ているのは意外だった。
「一度、遊びに行くよ」と、澤田は言った。今回は高岡が、苦虫を噛み潰すような顔をする番だった。
課員の一人が澤田に報告に来た。
「指紋はここに住んでいる人の分だけで、他には古いのがありますが、かなり、古いので、前に住んでいた人の分ではないかと思います。事件の形跡はないです」
「電話は調べたか」
「調べました。ほこりを被って殆ど使われていない状態でした」
「電話の横に等身大のビニール製の人形のようなものが空気を抜いた状態でありますが」
「等身大の人形」と、課員に聞き返した。
「ダッチワイフだよ」と、高岡が付け加えた。
「なんで、そんなもんがあるんだろう。若い女が縫いぐるみの代わりに抱いて寝ていたの
だろうか」高岡に聞くような調子だった。
「俺に聴かれてもわからないよ、ここの住人に聞くしかないだろう」
澤田は、興味を持ったらしく押入れの中のダッチワイフを見にいった。
手袋をはめた手で少し動かして、バギナの部分を見た。少し毛がこびりついていた。
「こういうところをちゃんと見ないからなあ」と、澤田は、横に立って一緒にみていた高岡に呟いた。課員を呼んで、毛を採取するように、と言った。
澤田は、毛を取り少し見て、これは人間の毛じゃないなあ、と呟いた。細い白い毛で、毛根は無く、自然に身体から離れていったように見えた。
猫の毛だなあ。と、澤田は言った。
「猫の足跡がかなりあるんですが、猫をここで飼っていたのを見られました」
別の鑑識課員が高岡に聞いた
「いや知らない。猫は見かけなかった。猫を飼っているんだったら、餌箱とか猫用のトイレがあると思うけど」
家の中は。猫が忍び込めるような隙間のないしっかりとしたつくりで、高岡が来たときにもそういう気配は皆無だった。女は猫も一緒に連れ去ったのだろうか、それでも猫に関するものを猫用のトイレを含めて、すべて持っていくのも、疑問だった。
鑑識の人間が去った後、高岡はダンボの家に居残った。家の中にあるものに、少々触っても、いい状態になっていた。それに、遅く帰る言い訳がつくれる、と思った。整形前の祥子も時々、何時帰ってくるのか、出掛ける前に聞いたが、整形後の祥子に、少々甲高い声で、聞かれるのを鬱陶しく思うようになってきた。わからない、と答えて出てくるが、五時頃に携帯によく電話を掛けてくる。職業柄、自由のきく時間があり、全く自由のきかない時間も同じ程度にある。今、取り込んでいるので、と言うと、直ぐに電話を切った。
電話のことで、祥子にあまり掛けないようにと言っても、以前の私も、同じようにかけている、と言った。と、いう事は、高岡自身の気持ちが、今の整形後の祥子と離れてきているのかもしれない。前には、当たり前のように受けていた電話をわずらわしく思ってきている。
西日が当たる白いソファーに座り込んでいると、少し眠気がさしてきた。
眠気を覚まそうとして、何か無いか、と見たが洋書の類しかなく、それこそ、もっと眠気
が増してきそうだった。鞍馬天狗の復刻版があったのを思い出して、全十巻の最終巻のDVDを見出した。小さい頃に、あれだけ興奮してみたことが嘘のようで、うとうとと身体を揺らしながら見た。うとうとしながらも、小さい頃何処で見たのだろうか、と考えている。家の近くの公園で、夏の夜、白い大きな画布のようなものを張って、そこで上映会をしたときに見た、という事を思い出した。あのときの興奮はなんだったんだろう、と思うほど、見ているDVDは退屈なものだった。目が少し醒めてきたのが、最後のほうで、鞍馬天狗は杉作少年を助ける為に、竹薮の中を馬で駆けてくる場面だった。手足を縛られて芋虫のようになって、井戸に逆さに吊るされた杉作少年の頭が少しづつ水に浸かってくる。杉作少年はもがくようにして、頭を上げるが、それも続かず、また頭をつける。鞍馬
天狗はまだ馬で駆けている。絶体絶命。馬から下りた鞍馬天狗は短銃をぶっ放し、敵をどんどん切り倒していく。杉作、大丈夫か、という声が響いて、杉作少年はけなげに、井戸の中から、だいじょうぶです、と、答える。鞍馬天狗は忙しい。少し杉作少年を引き上げると、直ぐに悪人が切りかかり、鞍馬天狗が切り倒す。また元の作業に戻ると、悪人が後ろから切りかかってくる。切り倒す。その合間に、杉作少年を励ます言葉も忘れていない。この辺の場面は、はっきり覚えている。
鞍馬天狗は、最後に悪代官と対決して、壮絶なちゃんばらのすえに切り倒す。小さい頃にすごいチャンバラ、と思っていたのが、なんとなく、こんなので死ぬのかしら、と思うような切り合いだった。憎々しい悪代官の顔は大写しに写るが、今見れば、大げさな身振りの為、喜劇を見るような感じだった。
鞍馬天狗がようやく杉作の身体を引き上げ、馬に二人で乗って、完で終わる、と思っていたのに、このとき、後ろにいきなり現れた男に鞍馬天狗は突き落とされる。鞍馬天狗は井戸に真っ逆さまに落ち、井戸から泡が出てきて、続く、と字幕が出てきて、映画は終わった。終わりは小さい頃の脳裏にはっきり焼き付けられていた。
小さいときのこの終わりのシーンの不安な気持ちは今でも覚えている。一緒に見ていた兄に、鞍馬天狗は大丈夫か、と聞いたくらいだった。
―お前ね、主役が死ぬはずないだろうーと、冷たく言い放った兄の顔を今でも覚えている。この映画のあと、鞍馬天狗の続編は作られなかった。
いつの間にか、横に白い猫が坐っていた。まだ夢を見ているのか、と思った。
白い猫は三毛猫を脱色したような猫だった。猫は、高岡を見ると、にっと笑った。猫の口
はいつも、吊りあがっているので、笑っているように見えるのかもしれない。にっと笑ったというのは、錯覚のように思えた。それから、猫は寝室の方に向かっていき、寝室の扉の隙間から、猫はスッと入って行った、猫のあとを追うように高岡は寝室に入っていった。猫は消えていた。押入れの扉が開いている。あのダッチワイフを寝所にしているのかもしれない。あれくらいの大きな頭であれば、頭の中に入ることも出来る。
少し薄暗くなってきたが、寝室の電気のスイッチを探すことができず、携帯の懐中電灯を持って押入れの中を照らした。ダッチワイフの目は、大きく開いていて、今更ながら、何も見ていない目は気味悪く見える。口の中に電灯を照らしてみたが、空洞だった。それに胴体はぺしゃんこになっていた。高岡は、動物の毛がバギナについているという澤田の言
葉を思い出し、押入れの中に入りバギナを照らしてみた。何も無いし、胴体がぺしゃんこになっている、という事は、猫は完全に消えてしまっている。
ただ何か、このダッチワイフに仕掛けがあるような気がする。
ダッチワイフを使用するときは、勿論膨らまして、使用するはずだが、どうして膨らますのだろうか、何か空気入れのような用具があるのか、と見たが、周りには何も無かった。懐中電灯でバギナの部分を照らし出して、良く見ると、バギナの上の部分に小さいボタンが見つかった。それを押すと、ダッチワイフの頭がころりと上を向き、仰向けになった。仰向けになったダッチワイフの口から、空気が吸い込まれていていくようで、スースーとかすかな音がして、胴体が膨れてきて。足の部分と手の部分も膨れてくる。横にある、電話機の通話機が外れて、音を立てた。高岡は足の間に挟まれて茫然としていた。押入れを突き破りそうな大きさで。足と手の部分がくびれていた。
バギナのところに手を入れてみると、中がすうすうとして、僅かに手が吸い込まれるような気がした。頭を下げて、バギナの部分を覗き込んだ、猫だと出入りが出来そうなバギナの穴の大きさだった。高岡の頭では入らないだろうと思ったが、中を見たいと思って頭を試しにねじ込んでみた。その瞬間、高岡は、頭をねじ切られるような感覚を味わった。喉が締め付けられて、声が出なく、息が出来なくなった。気を失う直前、高岡はこれは産道だ、と思った。
尋問二
高岡が息を吹き返したのは、取調べ室の中だった。
高岡は白塗りの安物の椅子に腰をかけていた。背の高い男が仁王立ちになり高岡のぼんやりした顔を見ていた。
「おい、高岡、いい加減に吐いたらどうなんだ。お前があの女の家に行ったのは、間違いないんだ。指紋がべったべったで証拠だらけだぜ」
男に見覚えがあったが、思い出せなかった。
「おい、高岡吸うか」と、男は言って、ジターンの箱を出した。
黒い机の上の灰皿はきれいに掃除がしてあった。高岡は訳が解らない振りをした。
「お前が、若いころ吸っていた洋もくのジターンだよ。お前のことは全部調べてあげているから」
「それじゃあ、せっかくだから頂きますよ」
高岡がジターンを咥えると、男はライターをカチッと鳴らした。かなり高価なライターの
ようで、開け閉めの金属音はやわらかい音がした。
仁王立ちになった男の後ろに制服の警官が三人立っていた。
「俺の知りたいのは、お前が何で女を誘拐したことだよ」
「誘拐だなんて、私は何も知りませんよ」
高岡はジターンの白い煙を吐き出してきれいに掃除がしてある灰皿に灰を落とした。
「お前がダンボの家に何回も下調べに行って誘拐したと言うことだ」
「ダンボって、象ですか」
「象の女を誰が誘拐する。ダンボというのは女の仇名だ」
「この女だ」と、言って男は写真を見せた。
高岡は、確かに女を見たことがあった。しかしどこで見たのか思い出せなかった。
「すみません。こんな女知らないです」
「お前よく見ろよ。そんな素っ気無い態度で見たら却って疑わしく思われるぜ」
「わかりました」と、言って高岡は写真を引き寄せて熱心に見る振りをした。確かにどこかで見たことがある。
「動物園で見たのかなあ」
「だから。ダンボという仇名なの」
男は苛立っていた。
「なあ、高岡、俺はあんたが女を殺していないのを知っている。今、白状すれば単なる誘拐罪、いい弁護士でもつけば、二,三年で出てこれる」
「そんなの、生きているというのは、誰もわからないのでは」
「俺は知っている」
「刑事さん、ダンボさんが生きているのを知っていると言われていますが、何でですか。それなら、どこに居るかもわかるんじゃないですか」
高岡は先ほどから疑問に思っていることを口にした。
「あのね、俺は写真を見ればわかるの」
「へえ、面白いですね」
「面白くもなんともない。俺の特殊能力なんだよ」
高岡は首をかしげた。
男は、面倒くさそうに話しをしだしたが、裏腹に自分の能力を誇示するような感じが見え
た。
「高岡、あんたは写真を見たときに何を感じる。一般的には思い出だけだろう、俺はそれ以上のものが見えてくるの」
「何が見えてくるんですか」
「生きている人間は、薄い黒のマントのようなものが、掛かっていて、死んだ人間はそれが消えているの」
「あのう、天使の頭の上の丸い輪みたいなもんですか」
「まあ、強いて言えば、そうだけど、死んだ人間の写真には、マントが掛かっていない。
この女が生きているのは、だから、俺にはまるわかりなの」
「ついでに、居所の住所も写真で見えませんか」
からかうような調子で、高岡は言った。男の自尊心を傷つけたようで、男は拳銃を出して、高岡の額に当てた。後ろの警官三人が、刑事を押さえに掛かった。制服の警官が待機して居る意味が高岡によくわかった。
「馬鹿だなあ、オレがどうして本気になって殺人をするの」
男は同僚の警官になだめるように言って拳銃をくるくる回して、西部劇のような感じで、腰に吊ったホルスターに収めようとした。
「危ないから、やめてください」と、警官の一人が叫んだ。
「あぶない・・・・俺は拳銃の扱いをよく知っているから」と言って、男は拳銃をホルスターに放り込んだ。その途端、銃が火を噴いた。男は、自身の足を打ち抜いたようだった。ウワーと男の悲鳴が続いた。駈け寄った一人の警官は、動転して男のホルスターの銃
を引き抜いた。引き抜いた瞬間に、二発目の弾丸が発射された。ワーという声がして、駈け寄った警官は腹を押さえて、倒れた。刑事は、足を引きずるようにして起き上がって、高岡の額に拳銃を再び突きつけた。
「高岡、すべてお前の所為だ」
男は容赦なく拳銃の引き金を引いた。高岡の額に穴が開いた。
高岡は温かい血が額の穴から、耳に滴り落ちるのを感じていた。手のひらで血をぬぐってから半身を起こすと、警官二人と刑事は驚いたような顔をした。それから、警官二人は、風船が割れて消えてしまったようにパチッとはじける音がして消えた。腹を打ち抜いた警官はすでに消えていた。
残った刑事は、消えた三人の警官が居た空間を眺めていた。
「なんだ、これ、歪んでいる」と言って、刑事の男は二人の警官と同様にパチッとはじけて突然消えた。
高岡が目を覚ました時、みしらぬ女が横に寝ていた。驚いて、急いで、ベッドから離れた。ベッドには花柄の派手なベッドカバーがかかっていた。
自分の家で、見知らぬ女は女房の祥子であると気付くのに少し時間がかかった。
いつのまに、家に戻ったのかまったく記憶がなかった。
ホテル・コンコルドにて
「あなた、電話ですよ」と、不機嫌な声が居間から聞こえてきた。
「女の人からよ」と、祥子は電話をベッドに邪険に置いた。
整形から戻った祥子にはまだ触れていないので、それも不機嫌な原因かもしれない。
普段つけない香水をつけているのか、寝室に匂いが広がった。その匂いが、今日は、整形後の祥子の初出勤、というのを思い起こした。
佐伯かな、と一瞬思った。電話を取ると女は直ぐに用件を切り出した。
「今日、夜七時五十分、狭山町のホテルコンコルドに一人出来てください。ただし、誰も、連れてこないように」
女は押し殺したような低い声を出したが、背後の地声は隠しようがなく、どこかで、聞いた声だった、が、思い出せなかった。
「ともかく一人で、佐伯刑事は絶対につれてこないように」と、念を押して、話を続けた。
「ロビーの一番奥のソファーに座って下さい。そこのクッションの後ろに携帯の形をした盗聴器があるので、イアーフォンをつけて、八時に男二人が来るので。その男達の話をそれで聞いてもらって、あとは男が帰ったら、五〇一号室に上がってきて、もしレセプションで聞かれたら、五〇一号の田中に用事があると言ってください。以上宜しく」
「あのどなたですか」は、ツーという音とともに虚しく響いた。
署にかかってくるこういう電話は、やはり、事件の関連性を考えて、一応、実行していくが、個人宅にかかってくる電話は、いまひとつ、気乗りはしない。ただ、佐伯刑事の名前が出てくる、という事は、高岡が、佐伯と一緒に組んでいるという事を知っている人間のように思えるし、それに、思い出せないが、声に聞き覚えがある。何よりも、整形後の祥子に、遅くなる言い訳が出来る。
その祥子は透けたネグリジェをまだ着ていた。体の線は細くなり、太腿についていた肉のたるみも無くなっていた。顔の頬が垂れてブルドッグのようになっていたのが、頬そのものが細くなり、整形前の顔の面影はなかった、少し遠くからみたら線の様になった細目が、パッチリと開けられていた。ねえ、あそこはもう大丈夫だから試してみないと言って、電話をまだ握っている高岡の横に潜り込んできた。高岡は、あわてて起き上がった。
「ちょっと大事件で、すぐ行かなければ」と、言って高岡は服をすばやく着た。
家を出るときに、今夜は張り込みだから遅くなる、と言ったが、祥子の返事はなかった。
七時五十分きっかりにホテルコンコルドに入った。
高岡はホテルコンコルドの勝手をよく知っていた。他署からの応援で出張の刑事がよく利用するためで、朝、時々高岡も刑事を迎えに行ったことがあった。予算の関係か、エレベーターの横の部屋を取られエレベーターが作動するたびにモーターの音と扉の開く音が部屋の中に響き、寝不足の顔で、出てくる刑事が多かった。
ロビーとは名ばかりで、四つのテーブルがありその周りに人工皮革のアームチェアーとソファーが置いてあった。アームチェアーの一つは、切れ目が出来ているのか、同色より少し薄い黒色のテープが貼り付けられていた。夜は出来るだけ灯を落とし、かなりの欠陥部分を隠していた。言われた通りに、高岡は一番奥のソファーに腰を下ろした。
ソファーに置かれているクッションの裏を探ると、録音機が出てきた。イヤーホーンを装着すると、よいしょ、という声が聞こえてきた。背中を向けて、隣のソファーに座った男の掛け声で、イヤーフォーンから聞こえてくるのか、生の声なのかわからない。
八時きっかりに、顔が長く首も異様に長い男が入ってきた。男は背を向けて座っている男にソファーに腰を下ろしながら挨拶をした。ソファーに座っている男が居なければ、高岡に話しかけているかのような至近距離だった。
「今日は茶色のよそゆきですか」と、頭を指差した。
先に座って待っていた男の様子は見えないが苦笑いの声が聞こえてきた。
「あれは、通気性が悪いから、変えたよ。北川君、それにしても君の首は目立つなあ」と、男は少し笑った。
「こんなとこで、サングラスかけてる社長も目立ちますよ」社長と呼ばれた男はサングラスをはずして、北川に顔を見せたようだった。
「右目の周りが黒いですよ」と北川は驚いたように、言って「喧嘩でもしたのですか」と、聞いた。
「喧嘩だったら、少しは格好がつくが、今日、眼科に言ったら、毛細血管がうまく機能していないと言われた。塗り薬を貰ってきた。別にシリアスなことではないから」
「ねえ、社長いいでしょう此処は。幾ら私らが目立っても、客がほとんど居ないんだから」
男達は、咳払いをして、横に坐っている高岡を、暗に立ち退かせようとしたが、高岡の反応が無いとわかると、席をレセプションの前のソファーに移した。レセプションは、呼び出しがないと出てこないようで、席は空っぽになっていた。
高岡は直接話が聞けると思っていたが、生の声で聴くのは無理だった。イヤホーンから男達の話し声が漏れてくる。各テーブルに盗聴器が仕掛けられているようだった。
書類のガサゴソと、いう音が高岡のイヤフォーンから聞こえてきた。
「穀物と豆類の方はアメリカの専業業者のほうと話をつけました。米は少し難しいけど、古米をかなり混ぜると格好はつきます」
「契約違反だな」
「言わなかったら、わかりません」
「古米を除いた数字を出してくれた方がいい。それで肝心の金の方はどうなっている」
「北の方が、何とか都合つけるから、言うてきましたけど、どういう風に都合つけるのか、算段があまりないようです。中国を何とか騙して、と思っているようです。この話持っていったらもう夢見心地でした。イランの方は、今すぐにでも出すと言ってきましたが、現物は絶対に必要で、前払いは、駄目。まあ夢みたいな話ですから」
「という事は、北は金は何とか都合つけて。前払いはオーケーという事だな」
「前払いの件ははっきりとは言いませんでしたが、持っていきようではオーケーでしょう」
「私としては、現物を手に入れて、各国で競り落とさせるのが一番いいと思う。後は食料買い付けの資金の問題と肝心のロジスティックか」
二人は黙り込んだ。
「ローラが鰹節のお陰でぺらぺら喋ってくれたので、色々わかったが、ダンボに、俺たちに打ち明けたのも言ったんだろうなあ、問題は、ダンボがどういう風に出てくるかだなあ、それに、未だに、どうして警察が出てくるのか分からない」社長という男の声が聞こえてきた。
「前畑に、ダンボの無断欠勤は社長も承知しているから、と言ったんですがね。急に友達面をして、私を無視して、警察に届けに行ったんですよ」
「俺が、留守にしていたのもあるが、もう少し、何とか出来たんじゃないか。そんなに、前畑とダンボは仲がいいのか」
「分からないです。一度は前畑はダンボのことは嫌いだ、と言ったことがありますし・・・」
「それじゃあ、、会社では犬猿の仲で通っている俺たちと同じじゃないか」
「いやそうでもないですよ。よくダンボ、社長の部屋に行って話をしていたでしょう。社長のペットのようね仕事をする暇があるのか、なんて言っていましたよ。女の嫉妬ですよ。まあ。前畑とダンボはほぼ同期だから競争心があるというのは、分からないことはないですけどね」
「それだったら、今回の警察の届けは、余計分からない」
「私の考えですけどね、前畑は届けも出さずに無断欠勤をしているのを盾にとって、警察沙汰にでもして、ダンボに嫌がらせをしようと思っているのじゃないか、と思いますよ」
「前畑が誘拐でもしたんじゃないか・・・」
社長のジョークに北川は笑った。その声は、イヤホーン無しでも、高岡の耳に届くような声だった。
「ちょっと待てよ、北川、前畑はダンボが居なくなったのは一枚かんでいるのじゃないか」
「まさか、社長、考えられないですよ、前畑が・・・・あの女、二十四時間、食事の事を考えているような感じじゃないですか。まあ、仕事の方は熱心は熱心ですけどね。この間も連休前に、最後まで、居たくらいだから」
「そうだなあ・・・」と、言ったが、何か納得できないように聞こえた。
「前畑は、どれくらいになるんだ」
「三十くらいですよ」
「会社に入ってからだよ」
「あ。済みません。私が、五年勤続の後ですから、もうかれこれ、三年ほどです」
「身元は、しっかり調査しているんだろうなあ」
「勿論、本籍等の確認は全部問い合わせています。社長、前畑がどうのこうのなんて、幾らなんでも考えすぎですよ」
「まあ、二十四時間体制であそこを見張るしかないでしょう」
「見張るといっても、あそこには時々刑事が来るから、なかなか難しい。ダンボも切羽詰ってるからそのうちにコンタクトはしてくると思うから、まあ、待つしか仕方が無いだろ
う」
「だけど、社長、食料のほうは、契約締結の期限が切られていますよ。物によっては、今月いっぱいというものまであって、今回を逃せば、来年の契約になりますよ」
「抜かり無しだよ、北川。一応、ダンボには、食料の場合は、期限を切られるから、と言ってある。まあ、いいほうに考えて、ダンボは向こうに行って、ロジスティクの相談でもしている、と思うしかないだろう」
男達が立ち去った後、高岡はホテルの五〇一号室に行く前に、いくらか彼らの話を整理したいと思った。彼らは間違いなく、英雄インターナショナルの社長と会計課長の北川である。佐伯の言った特徴と合致している。
佐伯は、別の同僚と英雄インターナショナルに行って、社長と北川に面会しているので、佐伯を連れてこないようにと言った電話の女の意味も解る。
彼らは先ず食料品の都合をつけて、北とイランのほうに売りつけるようであった。北は北朝鮮の意味であろう。イランも北も食糧難だからという意味はよくわかるような気がした。しかし、各国で、オークションを開いて、落とさせるというのが、解らない。別に珍しいものではない。穀物類とか、豆類の一般の食料品をどうしてオークションに出すのだろうか。ローラの鰹節云々というのは、猫のことのように思う。それと、ダンボはどういう関係があるのだろうか。
高岡の携帯がなった。「五〇一号室で待っていますから」という女の声がして切れた。確かに聞いたことのある声だったが、思い出せなかった。レセプションに断ろうと思って、奥を見ると男が漫画を読んでいた。音楽でも聴いているのか、イヤホーンも装着している。
何も言わずにレセプションを通り過ぎた。確かに密会には絶好の場所かもしれない。エレベーターはゴトゴトと音を立てて時々つっかえて五階に上っていった。
五〇一号室にいた女はダンボの失踪届けを出しに来た前畑沙世だった。
「高岡刑事、ご苦労様です」と、挨拶をした。
初めて会った時より少しきびきびした物言いだった。
「私、本名はキャサリン見市といって、CIAのヘッドクオーターで働いているアンダーカバーです。私のことはキャサリンと呼んでください」と言って、CIAのエージェントのIDを見せた。
紺のポロシャツは、胸元の切れ込みが深く、セクシーで行動的な雰囲気を漂わせ、高岡が始めて会った時の前畑の印象を払拭させた。秋風が少し冷えてきたようで、手には黒の軽いセーターを持っていた。少し太っているためか、紺の地味なパンツの上部を肉がかぶさっている様に見えた。
「地下の駐車場に車を止めていますから、車に乗ってから、色々お話しますので、思いのほか連中の話、時間がかかったので、時間が余りありません」
地下の駐車場に行く前に、キャサリン(前畑)は、受け付けの所に寄った。
「ジェリー、有難う、今回も録音はばっちり。私、今から、高岡刑事と、行くから」と言うと、受付のところで漫画を読んでいた男が顔を上げ、「じゃあ、俺は、受付を起こして、物を片付けて帰るよ。気をつけてな、グッドラック」と言った。
駐車場の階段を下りていく途中で、ジェリーって、誰なんですか、と高岡は聞いた
「私の同僚で、主にテクニカルな事を手伝ってもらっています。今回の盗聴器を仕掛けてもらいました」と簡単に答えた。
駐車場にはスズキの軽がおいてあった。十台ほどのスペースの駐車場の一番隅の死角になるところに車を置いていた。後は空だった。
「この間は、どうも・・・・吃驚されたでしょう」と、キャサリンは言った。
びっくりするもなにも、全く訳がわからなくなってしまった高岡は、言葉を失っていた。
何の糸口もないダンボの失踪に英雄インターナショナルが関わりを持っていることまでは、理解できたが。それから、穀物類の買い付け、鰹節のローラ。今ここに現れたのは、前畑沙世、またの名前をキャサリーンというアンダーカバー。
前畑は、ホテルの駐車場から出て行くときに細心の注意を払った。運転をしている間も、あとを付けられていないかバックミラーを時々覗いた。
今夜、盗聴した男達が、英雄インターナショナルの社長と会計の北川、というのはご理解いただけたと、思います、と話し始めた。
「実は、英雄インターナショナルの社長はジェームズという国際手配をされている英国人なのです。これがジェームズの写真です」と、言って、車の助手席のポケットから、写真を出した。
「通称名はセイントジェームズです」と、付け加えた。
おっとりとした面長の顔の金髪の英国人の顔が写っていた。パスポートの写真を引き伸ば
したような写真だった。ポケットには赤のハンカチが無造作に突っ込まれていたが、それも絵になるような、ハンサムな男だった。あの英雄の社長がどうしてジェームズなのか、全く理解できなかった。
「整形ですよ」とキャサリンは簡単に言った。祥子は整形で、見違えるような均整の取れた身体と綺麗な顔になってしまったが、ジェームズは酷く醜くなってしまっている。
「金髪まで変えてしまったのですか」
「あれは副作用で、毛が抜けてしまったのです。ジェームズには都合のいい風に作用しています」
「実は、私は日系の二世で、CIAに入ってから、特命で、日本に潜入していると思われるジェームズを探すように言われたのです。 タイから日本に飛んだというのが、最後の足取りだったのです。セイントジェームズは、人身売買、殺人、テロ、銀行強盗等人間が考えられる、ありとあるゆる犯罪を実行してきた男です。表向きは、金持ちの慈善家、上流階級の人間として暮らしてきました。通称名セイントジェームズはそういうところから来ています。私もCIAの同僚も捜索はそれほど難しいとは思っていなかったのです。金髪のハンサムな英国人なんて、日本で潜入しても直ぐにわかると思っていたからです。ところが、それまで二年近く探し回っていても全く手がかりがつかめませんでした。英雄インターナショナルに入ったのはジェームズの昔の持ち会社の一つが中古機械を扱って
いたことと、ジェームズが潜入したと思われる頃からその会社が活動していたからです。そのジェームズの持ち会社の手口は簡単で、東南アジアと中近東のテロリストと組んで、製鉄所とか、発電所の機械を爆破させて、使えなくなった機械の買取とか、或いは修復不可能であれば、安い中古機械一式を売りつけるというようなやり方です。勿論かなり
の利益がテロリストにも入ります。鑑識の澤田さん、勿論、ご存知ですね。ダンボの前に住んでいた人の指紋があると言われていたでしょう。それで、少し手を回してその古い人の指紋の写真を貰ったのです。それから先ほどのジェリーが指紋を調べてそれが紛れもなくジェームズの指紋であるとわかったのです。ジェームズは英雄の社長になっていたのです」
「ジェームズが、日本に来た頃に、ある有名な整形外科医と看護士数人がが殺された事件があり、私達CIAは、もしかしたら、と、思ったのですが、殺し方が、残忍な為、警察は怨恨の方面しか捜査しなかったのです」高岡は、確かにその迷宮入りの事件は知っていた。
「親戚、知人、或いは手術を受けて、大失敗してしまった人で、恨みに思っている人とかですが・・・・ジェームズの賢明なところは、そういう風に警察の目を別の方面に向かわせることができることです。私の事を話していたでしょう。北川は簡単に騙せるけど、ジェームズは勘が良いでしょう」
「では、ジェームズの逮捕は時間の問題なのですか」
「整形外科医の殺人事件は、ジェリーがメインで、調べたのですが、何も出てきませんでした。勿論、ジェームズは彼に関するすべてのファイルを破棄、目撃者を殺していますから、ジェームズが影で操った事件の証拠を握っても直ぐに高飛びされ、その間に証拠隠滅、証人は殺されてしまいます」
話は続いた。
「それで、ジェームズが何を企んでいるのか、様子を見るために、少し泳がしておこう、と、CIAから指令を受けました。ダンボの失踪はそれに関連しています」
「失踪届けを出されたときは、ダンボさんとあまり親しい間柄ではない、と言われていましたけど・・・」
「もう少しとぼけた方がよい、と思っただけです。あの頃は、まだジェームズが英雄インターナショナルの社長というのは分かっていませんでした。その前までは、CIAのほうから、そろそろ撤退というような話が出てきた頃です。決定的な証拠を掴むことが
出来なかったからです。ただ、私は、社長の動きを見ている限り、重要な案件、つまり、何処で機械が壊れて何処で買うかというような事ですが、前もって分かっているという感触を持っていました。撤退の前に、ジェリーと相談して、盗聴を仕掛けました。盗聴なんて、日本でするのは勿論危険がありすぎて、CIAは、許可しませんから、私とジェ
リーの独断です」
それはそうだ、他国の警察機構が無断で、日本の会社に盗聴器など仕掛けたりしたら、大変な問題になる、と、高岡は思った。
「盗聴を仕掛けたその日に、ものすごい収穫があったのです。先ず、ダンボとの会話を盗聴出来ました。社長とダンボは食料調達の件を話していました。バーター貿易で、その食料と、何かを交換するというようなものです。ダンボが帰ったあとの北川との話しで、どうして食料を調達をしていくかと、相談していました。それから、セイントジェームズの手口と全く一緒のテロリストを使った発電所爆破の事を社長は北川と話し出したのです。英雄インターナショナルの社長、高田博之の身元調査も、勿論以前にしていて、戸籍の不
審な点は無かったので、そのままにしていたのですが、どうも身寄りの無いホームレスの戸籍を買って、そのホームレスを殺したのではないか、と、いうのが、今の私達の見解です。勿論証拠はありませんけど・・・・。あとは社長の古い指紋を調べて、彼がセイントジェームズであるのがわかったわけです」
そのときの盗聴テープを持ってきましたから、聞いてもらえますか、と言って、前畑は車の中のボードのスイッチを押そうとしたが、高岡には、そのテープを聴くのには抵抗がある。
「すみません。ダンボさんから、直接話を聞かせてもらったほうが」と言った。前畑は直ぐに納得したようで、分かりました、と言って手を引っ込めた。
「ダンボさんが、どういう事で隠れているのか、キャサリンさんはわかっているわけですね」
「大体は、掴めているのですけど、、、、今日、はっきりしたことがわかると思いますよ」高岡はそういえば、どこに行くのか、キャサリンに聞いていなかった。その質問をする前に、「ところで、島津という男を尋問されたでしょう、なんか関連見つかりました」と、キャサリンが、聞いてきた。
高岡は、島津の不思議な能力を説明した。キャサリンは、島津の事を直ぐに信用したようだった。
「そういう人だったら、これから、捜査の手伝いをしていただけるかも解りませんね」と、言った。島津が目撃したダンボが失踪日の前に携帯で最後に電話をしたのは、ほぼ間違いなく前畑のように思えたがその事は言わなかった。
キャサリンが高岡を連れて行ったのは、ダンボの家だった。車はライトを消したまま、林の中にゆっくり入っていった。ダンボの家のかなり前で、車を止めた。キャサリンは、降りる前にカチッという音をさせて銃の安全装置をはずした。高岡もキャサリンのように安全装置を外した。キャサリンの動作は素早かった。キャサリンの携帯が振動したのか、グーという音が鳴った。携帯を取って、手短に解りました。と言うと、安全装置を戻して、ダンボの家に歩き出した。高岡も、安全装置を戻して、後に続いた。
居間にダンボが待っていた。写真の通り、大きな耳と重たそうなつけ睫をしていた。
小さなプラスティク製の黄色の玩具が、テーブルの上においてあった。これは人が来れば感知する器械なので、今はセットアップしていますから、大丈夫です、とダンボは説明をした。キャサリンと高岡が団ぽの住居に近付いた時に、機器が感知したので、キャサリンの携帯にダンボが確認の為にかけたようだった。
「色々ご心配をおかけして。どうも、申し訳ありません」と、ダンボは高岡に頭を下げた。
「ご無事で何よりでした」と、高岡は言った。キャサリンは、部屋の隅々を入念に調べていた。
「キャサリン、大丈夫、これは異物も感知するので、盗聴器も何も仕掛けられていないから」
玩具がチリーンと、と音を立てた。
「あ、ローラが来たようよ」押入れを開ける音がした。
高岡が鞍馬天狗のDVDを見たときに会った白い猫が現れた。ローラという名前からして、雌猫ではあると思っていたけど、喉仏が、話すたびに動くので、雌猫か、雄猫かわかりにくかった。その猫は高岡を見ると、ニッと笑った。あの時も、この白猫は高岡に笑いかけたのが分かった。
「ローラです。雌猫で、この喉仏は話しやすくする為に入れているだけで、実際は喉仏ではありません」猫の声はかなり高かったが、透き通るような声で聞きやすかった。高岡は、驚くことに疲れて、慣れてしまったのか、猫に軽く頭を下げた。
じゃあ。全員集合だから、ダンボ、説明をしてくれる。とキャサリンはダンボを促した。
「特に高岡さんには、わかりやすく説明してください。高岡さんもご質問があれば、いつでもお聞きください」高岡と、キャサリン(前畑)は窓を背にしてソファーに坐り、ダンボは向かい側のアームチェアーに坐った。 ローラは、部屋の中をうろうろして何かを探
していた。
ダンボはどういう風に説明すればいいのか少し考えているようだった。コホッと小さな咳をして、話し出した。
「高岡さんも、うすうす気がついたかもわかりませんが、私は別の次元の世界から来ました。別の世界といっても、同じ人間の世界で、別に怪物や魔物がすんでいるわけではありません。私達の世界と、こちらの世界の違いを少し説明した方が良いかわかりません。
私達の世界は、科学的な面でこちらの世界より、格段に進んでいます。これも少し科学に関係があるのですが、細胞の老化を遅らせる技術が進んで、理論的には三百歳ほど生きる
ことが出来ます。ただ、殆どの人は二百歳生きれば充分と思っていて、平均寿命は今は二百歳と少し越したぐらいだと思います。それとこちらと違うと思うのは、教育を受ける年数が、私達の世界では、すごく短く、四年だけなのです。。こちらで、コンピューターのインストールをするような要領で、脳の容量を調べて、プログラムを直接脳に注入するようなやり方なので、知識を得る為に長い年月をかけて教育を受ける必要がないのです。 少し前までは、開頭手術をして、プログラムを注入していたのですが、今は脳の神経を直接刺激をするようなやり方です。私は、機械の方を専門に選んで、かなりのプログラムが脳の中に組み入れられています。この機器も今日秋葉原に行って、パーツを使って組み立てたものです」と、ダンボは言って、玩具のような器機を取り上げた。黄色のプラスティックの機器は、元は子供がままごとに使う小さなアナログの電話機だった。
「これを感熱器をもったレーダに仕立てて、異物を感知すれば、音が出るようにしました。異物でも、危険の無い異物であれば、①の番号を回せば音が出ないようになります②の番号を回せば、感知できる範囲を広げることが出来ます」
「今、何メートルの範囲にしているの」と、キャサリーンは聞いた。
「三百メートルです」
「五百メートルぐらいにしたほうがいい、いいと思わない」
「小さな動物が引っかかるけど」と言って、ダンボは②の番号を二回、回した。
直ぐに電話音のリーンリーンという音がした。
「あ。今感知したのは狸」
「あの、そんなことまで解るのですか」
「御免なさい、冗談です、小動物には間違いないですけど」と、言って笑った。
「これは、熱を感知して、警報を鳴らすので、人間と小動物の区別は、はっきり解るようになっています」
ローラは窓際で、退屈そうに座っていた。
「私達の世界は、こちらの時間と全く同じ時間を刻んでいます。空間も同じ空間を共有しています。こちらの方の駅前の辺りは、私達の世界では、工場街になっています」
ローラは、静かに台所の方に向かった。
「私達の世界は、本当にこちらと変わりはありません。普通に会社勤めとしている人も居
れば、工場で汗を流して、働いたり、奥さん、旦那さんがいて、子供がいて、ごく普通の生活をしています。こちらと少し違うと思うのは、私達の世界には、武器を使った戦争が無いのです。勿論、自分だけの利益を図ろうとするような悪人もいますし、他の人のことを考えて生活をするような善人もいます。ただ、大量破壊兵器を使うような戦争は一切無いのです。それと、もう一つ違うのは、食料が配給制になっているのです。百五十年ほど前に起った核戦争の為、私達の食料は、核汚染の為に枯渇しかけているのです。これは、私達の世界に明日来てもらったときに、詳しくお話します。それに私達の世界を見てもらえれば、いろいろなことを理解してもらえると思います。百聞は一見にしかず、と言いますから」
高岡は明日、そのような世界に行くことは全く聞いていなく、何の用意もしていない。、
「高岡さんに、私と社長のことをもう少し補足説明するから、キャサリン、何か作ってよ。お腹すいちゃって力が出ないよ」と、ダンボはキャサリンに甘えるように言った。
「おいらも」と、ローラも続けた。
「あんたには、最高級の上を行く最最高級を買ってきてあげたから」と、言って、ダンボは、プラスティックの買い物袋から、北洋水産、最高級鰹節と大きく書かれた鰹節の袋を渡した。
ローラは、前足で、鰹節を台所の方に蹴って、「キャサリンさん、お願いします」と大きな弾んだ声を出した。アームチェアーに座っていたダンボは高岡の座っている四人がけのソファーに移動をして、高岡の横に座った。
「もう何回もキャサリンには、話をしているので、、、、」と話を続けた。
英雄インターナショナルでは従業員教育と称して、現場を一度は見せるというのがあり、ダンボは彼の後について行った。東南アジアの国の発電所が、テロリストに爆破されて、使い物にならなくなったので、どこかに二束三文で売りたいから見て欲しいというようなものだった。図面を見せられて説明を聞いている社長の横で、ダンボは修理する箇所と、図面に記されている寸法を素早く計算して、そこに居合わせた技術者に伝えた。
誰もが、驚いた。
ダンボは少し自尊心がくすぐられるような感じだったが、最終的には、商談はおじゃんになった。修理をした後は、前よりもっとうまく効率よく稼動するようになり、売る必要がなくなったためだった。わざわざ、商売をつぶすために、ダンボを連れてきたようなものだった。就職先を間違えた、とダンボは思った。
社長は腹が煮えくり返っているかもしれないが、そんな様子は全く見せなかった。それからダンボに少しづつ興味を持っていったようだった。何にしても、修理の箇所を難なく指摘してしまう人間を、開発化においておく事は、得策ではない、と思ったのか、しばらくして、会計課に、籍を置くようになった。
時々、社長はダンボを社長室に呼んだ。話をするときは英語で話をした。
会計課のキリンから噂を聞いていたのか、計算をするのが、桁違いに早いというダンボの特殊能力を話題にした。うちにも特殊能力を持つ猫がいると、社長は漏らした。猫と一緒にされるのは、と思ったが、ダンボは、もしかしたら、会話をするような猫ですか、それも英語と日本語を使う、とか、と、笑い話のように社長に言った。そうなんだ、と社長は大真面目に答えた。飼い猫と言っても、時々現れて、突然消えてしまう。ダンボには、心当たりがあったが、それ以上言及するのを避けた。社長も笑って、その場をすました。
ありあわせのものですけど、と言って、キャサリンが運んできたのは、ラーメンだった。時間が掛かった割には簡単なものだった。ラーメンの中にはもやしと卵が入っていたが、これはタッチャン印のインスタント味噌ラーメンだなあ、と直ぐに高岡にはわかった。高岡の夜食で、よく食べているものだった。居間のテーブルに置かれた、ローラの皿には、鰹節だけがのっていた。人と同じようにソファーに座り、首を伸ばして、舌のうえに鰹節ののせて、少しづつ食べだした。食べるたびに笑顔がこぼれるようだったが、猫が笑っているのを見るのは少し不気味であった。
タッチャン印のラーメンは、高岡に、妻に連絡をするのを思い起こさせた。時計を見るともう十二時近い。妻のパートの仕事は昼からなので、妻が、ちょうどベッドに入るような時刻だった。携帯から電話をかけた。寝てしまったのか、電話はなり続けたままで、取ら
れる様子が無かった。今朝のことがあり、案外早く不貞寝をしてしまったのかもしれない、それとも、もう不貞に走っているのかもしれない。高岡には、もう妻の執着心が消えているのか、それほどの拘りを感じなかった
ラーメンをすすりながら、ダンボは話を続けた。
或る日社長室に呼ばれた。社長は寝不足なのか、少し目が赤かった。というよりは少し血走っているような感じだった。それと、カツラも装着がうまく出来ていないようで、額が、いつもより狭く見えた。社長は、話を始めた。前夜、社長が帰ると、妻と子供がいなかった。簡単な妻の書置きには、実家に帰る、と、あった。理由がまったく分からず、昨
日は寝ることができなかった、と言った。それで、誰もいない家にもう帰りたくないので、当分留守にしたい、と社長は言った。ただ、誰もいなくなれば、近所の悪餓鬼に何をされるかわからないので、ダンボに住んでくれないか、と言った。社長のベンツに乗って、その日の午後、社長の家に行った。車の中で、社長は住んでくれるようであれば、家賃は只、家の修繕とか、何か不便なことがあれば、竹下不動産というところに連絡すれば良いし、すべての費用は自分が持つという様な破格な条件を出した。但し、会社のものには、内緒にして欲しい、というのを忘れなかった。
一軒家を見たダンボは、びっくりして声も出なかった。
「高岡さん、この家と全く一緒の家が私の住んでいた近所にあったの」と、改めて、びっくりしたような声を出して、ダンボは説明を続けた。瓜二つの家が、この世界に存在していた。社長は、一軒家の様子を、呆然と眺めているダンボに、望外のことで、夢見心地であると、解釈したようだった。アパート暮らしをしていたダンボには、或る意味で、社長の申し出はありがたかった。一般の人たちと、比べると、給料は決して安くは無かったが、物価が高いためにやりくりに少し工夫をする必要があった。タダでこんなところに住めるなんて、と夢を見る思いだったが、自分が来た世界に全く同じ家があるのが不気味な思いだった。社長は中を案内しながら家具はこのまま置いていて欲しい、と言った。二人の子供の服とか玩具妻の持ち物はいつの間にか全部持ち出された、と、社長は言った。特殊能力の猫の件を聞くと、「そういえば長い間、見ていない」と言って、ダンボを押入れの場所に連れて行った。異様なダッチワイフが置いてあったが、社長は猫がここに隠れていたりするので、捨てることは出来ない、と少し言い訳をして、ダッチワイフのビニールの部分を少し叩いた、顔を除いてぺしゃんこになっているので、いないのは明白
だった。
ダンボがローラに会ったのは、引越しをして半年ほどたってからだった。うう、鰹節の魅力には勝てない、と言って、真夜中にローラは出てきた。冷蔵庫を開けて、物色しているときに見つかった。ウワッ、と叫んで、押入れの中に、戻りかけた。あれ、ダンボじゃないの、最初にローラがいつもの住人ではないのに気付き、ダンボの名前を呼んだ。やっぱりローラだ、と言って、ダンボは猫を抱きしめた。近所で、ダンボはローラらのことをよく知っていた。それに、自分の世界に戻ったときにも会っていた。ローラはおしゃべりな猫だけど、この世界に時々来ている事はダンボには言っていなかった。ダンボもロ
ーラに会っても、自分が行き来している世界のことは話をしたことが無かった。
ローラは、前の住人、社長の二人の男の子に苛められ、怖くて、長い間来れなかった、と言った。尋常ではない怖さだった、と言った。
ローラがはじめて来た時には、奥さんが裏のベランダにいて、子供二人は外で遊んでいた。ローラは窓の内側の棚から何気なく子供達を眺めていた。小さな狸が出てきて、子供二人は追い回しはじめた。十歳ぐらいの子供だったが、手に玩具の三十センチほどの槍を持っていた。子供達は敏捷に狸を挟み込んでいった。狸が立ち止まると、子供達は槍で、狸を思い切り突いた。狸の悲鳴が聞こえるようだった。血が出ても、子供達は、狸をつつくのをやめようとはしなかった。狸はもう動くことは無かった。ベランダから表に回った奥さんは子供達に注意すると思っていたが、黙って狸の足をつかむと、逆さになった狸を、少し窪みになった穴に放り込んだ。ローラは急いで隠れたが、子供達二人ははローラを目ざとく見つけ、追い回し始めた。ローラに幸いだったのは居間のソファーの下に潜り込むことが出来ることだった。子供達は巧妙だった。一人が槍で、ローラをつつき、もう一人は、もう一方の場所で待っていた。それからローラは別の場所のソファーの下に飛び込んだ。「おい、やめろよ」とローラは叫んだ。子供は、びっくりしたようだった。
追い回すのに飽きてきたのか、執拗さはなくなってきた。
主人(社長)が帰ってきたのは夜が更けてからで、子供達は言葉を話す猫のことを伝えた。勿論、母にも伝えたが、全く相手にしなかった。ローラは、うかつに出ることが出来ないために、ソファーの下で蹲ったままだった。言葉を話すようだったら、その猫に出てこい、と言えばいいじゃないか、と子供たち伝えた。子供達は、出て来い、出て来いと、ローラに声をかけた。主人は、ちょっと待ってと言って、台所に行って、鰹節を盛った皿
を持ってきた。それをローラの隠れているソファーの端に置いた。ローラと鰹節の初めての出会いだった。ローラは鰹節のにおいに勝てなかった。二,三口食べたときに、いきなり首根っこをつかまれた。息が止まるような握力だったが、かろうじて、「苦しい、息が詰まる、オイ、放せよ」と叫んだ。ローラをつかんだ子供の手が離れた。主人もびっくりした。それから、主人は子供を制して、ローラの鼻先に鰹節を突きつけた。
「うん、うまいなあ、おいら、こんなの初めてだよ」と言って、ローラは鰹節を堪能した。子供はあっけにとられて、もう乱暴をするようなことを忘れてしまっていた。
ローラは、それから、主人がいるときだけ、現れて、鰹節を食べるようになった。最後に
来たときに、主人が居なく、子供達に追い回されたため、来れなかった、と言った。
ローラはおなかが好物の鰹節で満たされたのか、自分のことが話題になっているのも知らずに丸くなって寝だした。キャサリンも、疲れを隠さなかった。明日、車で、続きを聞くようにするから、もう寝ない、と言って、ダンボに言った。ダンボは、ソファーの上にシーツをかけて、きゅうごしらえのベッドを高岡のために作った。高岡は、ダンボが高岡のベッドの準備をしている間に、不思議な能力を持つ島津のことを話した。
それは、あるかもしれないですね、私こちらの家に帰ってくると時に、なんとなく、私の世界に帰ってくるような気持ちになるときがありますから。
私に金色の幕が私に掛かっているなんて、素敵ですね・・・・・
-続きますー