4. 不思議な出会い
爆発事故より、さらに8年前――――
当時の私は、はっきり言ってしまえば無知で単純な子どもだった。
世界の仕組みなんて知りもせず、空はすべてを包み込む優しいものと信じて疑わなかったし、何かにつけマンションの屋上に行っては空を見上げるようなロマンチストな少女。決してそんな可愛げのある感じではなかったが、それが、かつての私だった。
たとえば跳び箱がうまく跳べなかったとか、せっかく作った粘土のペン立てを壊されてしまったとか。
嫌なことや不安なことがあれば、すぐに階段を駆け上がって扉を開けて、梯子を登る。そこがマンションで最も高いところで、私という小さな世界の頂上だったから、半ば習慣のように足を運んでいた。
無限に広がる青が、手を伸ばせば届きそうな距離にある。そのことが私の心を落ち着かせてくれた。
そして、確かにあの時もそうだったと思う…………
風を感じていた。私の頬を撫でる優しい感触を。
360度、遮るものなどなにもない解放感。見上げればどこまでも広がる空で視界を埋め尽くし、身体を包む爽やかな気持ちで胸を満たしていた。
いや、満たそうと必死だった。
せっかくの休日の朝だというのに、胸の奥がザワザワしていて、何も入ってこないし何も出ていかない。ただ無造作にかき混ぜられていく感情が余計に私の心を不安定にさせた。
その原因はわかっていた。解決する方法も気づいていた。でも動くことも立ち上がることもできない私は、ただボーっと空を見上げることしかできなかった。
きっとこのままじゃ空を嫌いになる……そう思い始めても、ピクリとも動けなかった。
そんな時、梯子の下から声が聞こえた。というより周りに誰かが立てる場所がないため、消去法でそこからだと思ったのだが。
「あ、あのー……」
あんまりか細くて、風のそよぐ音と間違えそうになる誰かの声。
なぜかその声の主が知りたくて、梯子の下を見下ろすように身を乗り出してしまった。
あんなに動かなかった体が、そうするのが自然だというように反応したのだ。
その先には、少し茶色がかったふわふわのショートヘアが印象的な一人の少女。
小さくて、頼りなげで、それでいてどこか懐かしいと感じてしまった女の子が……
天音が、そこにいた。
呼んだのは天音の方なのに、姿を現した私を彼女は意外そうに見ていた。小さい体が余計に小さく見えたのは、きっと上から見下ろしているからだけではないだろう。
「……えーと、貴女は?」
「あ、あう……あの、その……」
天音はキョロキョロと顔を動かしたかと思うと、そのまま俯いてしまった。コンクリートの床に向かって何かを呟く声は、私にはまったく聞こえてこない。
話しかけてきたのはそっちだろうに……そう思うとなんだかイライラしてきて、私はたまらず梯子を下りて彼女の正面へと立った。驚いた天音が一歩後ずさりしようとしたが、その分まで距離を詰める。
「……用があるから呼んだんじゃないの?」
「う、うん……そう、だ、けど」
いまいち歯切れの悪い答え。何かを間違えて罰の悪い思いをしている子犬みたいに、天音の姿はどんどん小さくなって消えてしまいそうだった。
埒が明かないと思った私は、こちらから話を振ってみることにした。
「……あなた、もしかして転校生の霧乃……天音、さん?」
「! う、うん! そう、そうだよ!」
名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、それとも話す自信を持てたのか、天音の表情はさっきとは打って変わって晴れやかになった。心なしか言葉にも明るさが感じられる。
見れば天音の服は淡い水色の――――空色のワンピースを着ていた。少し身体を動かすだけで裾のフリルがクルクルと踊るように動いていて、彼女に似合う可愛らしい服装だな、と、素直に思ってしまった。
なんとなく私も笑顔になっていたと思う。久しぶりに微笑みを思い出したような気分だった。
でもそれは、本当にただの気分でしかなかった。
「でも……どうして、私の名前を?」
「それは、母さ……あー、引っ越してくるって……聞いてたから……」
「…………」
「……ん…………」
「…………?」
今度は天音の方が、怪訝そうに私の顔を見ていた。
無理もない。彼女と対照的に、私の語気が弱くなっていくのを私自身が感じている。
思い出してしまった。いや、忘れてはいなかったのだけれども、天音と出会ったことで少し和らいだ不安な気持ちが、積み重なったままで決して消え去ったわけではないということを自覚してしまったのだ。
朝の出来事が、目覚めてすぐに目の前に広がっていた光景が、一瞬フラッシュバックする。
「……ごめん、それじゃ」
天音と――――引っ越してくると聞いて、ずっと楽しみにしていた彼女と――――色々な話をしたいと思っていたのに。ふつふつと湧き上がってきた、今すぐにでも梯子を駆け上ってまた一人空を見ていたいという気持ちに流されるままに、梯子のある後ろを向こうとした瞬間……
天音が、急に私の手を掴んで、こう言った。
「駄目だよ。空に、逃げちゃ」
優しく語り掛けるような言葉。
でも手を掴む彼女の力からは、決して曲げない意志の強さを感じた。さっきまで俯いていた少女とは思えないほど、その眼はしっかりと私の顔を見据えている。
「う……うん」
その気迫に気圧されて、私は再び天音の方へと向き直った。途端に彼女の顔には柔らかい笑みが戻る。
調子が狂う気持ちだった。とてもそんな気分ではないはずなのに、天音が微笑むだけで嬉しく思ってしまうような、自分ですらどういう心境なのか判別しがたい心が確かに胸の奥にあった。
どうにも気まずくなって頭をポリポリと掻く、私のその何気ない仕草にすら、彼女は面白いという風に笑った。……いつの間にか、私の方が小さくなってしまいそうになっていた。
自分がどんな表情をしていたのか私にも分からない。
ただ天音は私の顔を見て何かを思いついたように、ポツリと一言つぶやいた。
「あの……この町、案内してほしいな……なんて」
「……うん?」
我ながら間の抜けた返事をしてしまった。
道案内。それはいずれしてあげたいと考えていたことではあったが、まさか天音の方から言い出すとは思っていなかった。ましてや初対面でそういうことを言えるほど、彼女がコミュニケーション能力に長けているとはとてもじゃないが感じ取れなかったのだ。
「ダメ、かな……?」
とはいえ突然の申し出ではあったものの、私はそれを受けることにした。
他にやりたいことがなかったからというのもある。もちろん、してあげたいことだったからというのも間違ってはいない。……でもそれ以上に、この現状から逃げ出せるなら――気持ちを紛らわせることができるなら――なんでもよかったのだ。
少し考えるふりをしてから、首を縦に振った。
「……うん、いいよ。とりあえず学校まででいいかな」
「うん! ありがとう! やったー!」
天音は大げさなくらい飛び上がって、私の返答を喜んだ。ワンピースがめくり上がらないか心配になったが、彼女はあまり気にしていないらしい様子だった。
そしてすぐさま私の腕を掴み、マンションの下へと降りる階段に向かって引っ張っていった。その力はさっきのようなまっすぐな意志というより、楽しいことが待ちきれない子どものような力強さを感じた。
「そういえば、私の名前、まだ教えてなかったね。私は……」
「いいよ、私もちゃんと知ってるから。早く行こう!」
案内するのは私の方なのに、なぜか天音が先導して階段を下りていく。
恥ずかしがり屋なのか調子がいいのか、自信がないのか堂々としているのか、可憐だけど掴みどころのない少女というのが率直な第一印象だった。でも不思議なことに、いやな気分はまったくしなかった。
思えばその感情は、私が心を寄せていた空に対する、まさにそれと同じだったのかもしれない。
少しずつ太陽が高く昇っていく空。気温も徐々に上がりつつあった夏のあの日。
――――それが天音との出会いの日だった。