3. 侵略者の来訪
“それ”が初めて発見されたのは、今から500年も前のことらしい。
しかし存在に気づいていながらも、その時には誰一人としてそれが人類を――この星を――未曾有の危機に追い込む前兆だったなんて予測していなかった。
それから300年後、遠い宇宙のはるか彼方、まるで漂うように飛行していた“それ”は、一切の予告なく一条の光をこの星へと放った。いくつかの争いはあったものの、全体として平穏に暮らしていた地上の人間にとって、それはまさに青天の霹靂と呼ぶに相応しい事態であったことは明白である。
その光は時の主要先進国と呼ばれたとある国を根こそぎ蒸発させた。その国と敵対関係にあった国家ですら、その甚大極まりない被害を前にただただ恐怖を抱くことしかできなかった。
世界の経済、貿易、政治を支えていた大国が消失したこと、何より外部からの未だかつてない明確な攻撃に、人類は怯え、完全に混乱しきっていた。
二度目の攻撃はさらに100年後のことになるのだが、当時を生きる者たちの心からは反撃や撃墜という選択肢が抜け落ち、いつ自分たちの命が失われるか分からない絶望に染まりきっていた。――――この時、誰が最初に名付けたとも知らない呼び名“ダイモニオン”の呼称が付けられる。悪魔を意味するその名は、瞬く間に世界に浸透していった。
かくして、その時は訪れる。
ただし最初の攻撃とは明らかに違っていた。一切の威力を持たず、まるで子どもが砂場にシャベルを差し込むようにゆっくりと地面に突き刺さった何か。
爆発もせず、何かを射出するわけでもない、静かにそびえ立つ剣のような黒い物体。しかも一つではなく、確認できただけでも13基が世界中の至るところで楔のように打ち込まれていたらしい。
人々はその謎の物体に警戒心を抱きながらも、被害がないと分かると以前と変わらぬ日常に逃げ惑うことを忘れ、一抹の安堵を覚えていた。
……世界の終わりはここから始まる。
物体が地上に突き刺さった翌日のことである。とある街の住人が一夜にして死に絶えたのだ。
その街の記録として残っている死亡者数は、2561人。さらに同様の事件は世界中で起きた。
人だけでなく、犬や猫、虫だって例外なくすべての命がたった数時間で失われる事態。誰もがダイモニオンの脅威を感じ取り、そして判明したある事実によってそれは最悪の結論を裏付けてしまう。
当時、事件のあったすべての街で過去に例を見ないほどの濃い霧が突如発生していたこと。その霧は、いずれも他ならない黒い物体を中心とした半径5km圏内を取り囲んでいたこと……その霧は事件後も消えることなく残り続け、徐々に範囲を広げつつあること。
無謀にも霧の中への侵入を試みた青年数人が、その数分後に全員物言わぬ骸となって発見されたことで、人類が脅かされている危機感をより強固なものとした。
黒い物体から放出される、立ち入れば確実な死が襲う霧が、しかも少なくとも13か所から少しずつ地上を浸食している。その先に何が待ち受けているのか、世界の情勢がどれほど荒んだものとなったかを想像するのは容易い。
そんな時に差しのべられた救済の手が、どれほどの人類の心を立ち直らせただろう。
ある学者チームを中心に、まさしく世界全体の技術者が結託して造り上げた超巨大なシェルター。
地上の逃げ場を失いつつある人類が唯一生き延びるための手段として、何代にも渡る膨大な時間を要して、地下に新たな世界を一つ作り上げることに成功したのだ。
元々はダイモニオンという具体的な対象がなかった頃、いつ訪れるか分からない外部からの侵略者を想定してそれらに対抗しうる戦闘機械を開発するために秘密裏に建造されていたものであり、霧が発生した時にはすでに建造開始から200年もの歳月が経っていたらしい。
世界の最先端の技術を駆使し、新たな技術ができればそれを何よりも先に運用し、それを繰り返し進められてきた技術的特異点、その結果は人類の文明を1000年も戻してしまったが、もはや街ではなく国と呼んでもいいほどの広大な空間を生み出した。
それを期に、人類は地上から地下へと生活を移すことになる。
かつて住んでいたその地を第0階層と呼び、主に地下の機能管理とダイモニオン討伐のための戦闘機械を開発する第1階層、住居や娯楽施設など基本的な生活を送るための第2階層、労働の場となる第3階層……と用途に応じて階層が分けられた世界が、今なお続く人類の安息の地なのだ。
再び天の光をその体に浴びる日を夢見て。
……とまあ、話を聞くだけなら壮大なのかチープなのかよく分からないことが、かつての人類の身に降りかかったのだ。
もちろん私自身が有する知識ではない。今、目の前にある本を斜めに読んでなんとなく分かることをそのまま整理しただけだ。
ここは街でもそこそこ大きな図書館だ。話があると天音に連れられてやってきたのだが、特に読みたい本もないので適当にパラパラとめくっていたのだ。
多くの人が利用しているだけあって蔵書数はとても多いし、何より涼しい。足を踏み入れた途端世界が変わったかのように快適な空気が私たちを包んでくれた。それだけでここに来た甲斐があるというものである。
当の天音はというと私の目の前にいて、さっきから楽しそうに一冊の本を読んでいた。いや、眺めていたといった方がいいのだろう。
正面から覗き込んだそれは、一つひとつに様々な風景が写った写真集だった。
色とりどりの花、重厚な雰囲気を漂わせる教会、深緑の広がる森の木々。中には、今は見ることの叶わない海の姿まで収められている。――――それらはすべて第0階層、地上で実際に見ることのできたものたちであった。
天音の目は輝いていたが、どこか寂しそうな感じがした。
まるでもう手に入らない何かを、失ってから気づいてしまったような、懐かしさと喪失感と諦観とが入り混じった色。……一瞬、泣いているようにも見えてしまった。
「……どうしたの?」
ぼーっと自分の顔を見つめる私を不思議に思ったのか、天音はそっと話しかけてきた。
急に話しかけられて、私は立ちどころに我に返る。
「ん……あ、あー……なんでもない、よ」
「? そう……ねえ、これ見て」
さっきと変わらぬ笑顔を見せ、天音は自分の持っていた写真集をくるりと回転させて私の方に向けた。
指をさすその写真は、グラデーションのかかった青に白が浮かぶだけの――――それなのに心が吸い込まれそうな、深い色を湛えた―――――空を写していた。
ホログラムが映す紛い物などではない、地上ではどこでだって見ることのできた、本物の空。
目の前にあるのはたった数センチ枠で囲われた小さなものなのに、無限の物語を想起させるようなそれは、どうやら私の心を意図せずして掴んだようだった。
「……やっぱり。本当は空、好きなんだよね」
そうつぶやく天音の表情が曇っていたことに、私は気づくことができなかった。
「そういえば天音、話って何……?」
一瞬軽はずみだとも思ったが、ふと顔を上げたときには、天音はいつもの微笑みに戻っていた。
「あの時も、あんな暑い日だったよね……」
しかし、ごく当たり前な質問を投げかける私には顔も向けず、窓の外を見つめたまま、彼女は突然話を始めた。
それは不自然とも思える会話の流れだったが、私は黙ってその話を聞いていた。そして私は、自分から先に天音の話を切り出してしまったことを後悔することになる。
天音のする話は今よりさらに8年前のこと。私と天音が初めて出会った時の思い出だった。