2. 造り物の天気
鉄の軋む音とともに、体育用具室の中に一気に光が流れ込んでくる。
日差しがアスファルトに照り返され、長いこと薄暗い空間にいた私と宗太にとっては、一瞬、まるで外の世界が白で埋め尽くされたかのように見えた。
そして、光を背にして佇む人影が一つ。
でも少なくとも私には、その正体が誰なのかは一目でわかった。……“佇んで”いなかったからだ。
というよりふらついていた。
身体を左右に、あるいは前後に揺らしながらこちらへと近づいてくる。ともすればそのまま崩れ落ちて倒れてしまうのではないかと思ってしまうくらい頼りない足取り……息とも声ともつかない弱々しい音は、それでも確かにそこから聞こえてきた。
「はっ……か、けふっ……買っ……て、きた……よ」
彼女は私の隣まで来て一本のペットボトルを渡し、そのままマットの上にへたり込んだ。
私と宗太は一旦きょとんとした顔でお互いを見たあと、もう一度彼女の方を見た。
目を閉じたまま上を向き、息を大きく吸ったり吐いたりしている。その顔からは汗が滴り落ち、濡れた前髪は額にぺたりと貼りついていて、まるで過酷な運動をしてきた後のようだった。
「ありがとう天音、……でも何やってたの? こんなに遅くなるなんてこと今までなかったじゃない」
「ふー……だって、売り切れだったんだもん……」
二、三度深呼吸をして息が整ったのか、天音はゆっくりと落ち着いた声で答える。
「売り切れ?」
「アクアリウス……」
たった今天音から受け取った青いラベルの巻かれたそれは、いつも私が好んで飲んでいるものだ。
ひんやりとした中身が周りの空気を冷やし、水滴となって私の手を濡らしている。手の内側から伝わってくる感触が、この暑さの中でとても心地よかった。
「アンタまさか……! これを買うために……!?」
「なんだか今日、中々売ってなくて……駅の方まで、ちょっと……」
私と宗太の開いた口が塞がらなかったのは、この学校と駅とが歩いて15分どころじゃない距離だってことを――天音だって間違いなくそれを――知っていたからだ。
つまり天音は、1キロ以上も離れた自販機まで、炎天下の中、わざわざこのペットボトルを買うために奔走していたのだ。
「ば……」
「……ば?」
「……っかじゃないの!? 私何でもいいよって言ったのに! 売り切れだったら適当なものでよかったのに、なんでそんなとこまで……!」
怒ってはいなかった。それでも戸惑いから自然と私の語気は荒くなり、それを感じて天音は今にも泣きそうな顔になっていく。
まるで余計なことをしてしまったと罪悪感に苛まれる子どものように、天音は呟いた。
「飲んで……欲しかったから……暑い日には、アクアリウスがいいって……そう……」
「…………っ!」
何も言うことができなかった。天音が俯いてしまったからだけじゃない、他ならない私のためにしてくれたことが純粋に嬉しくて――――同時に、怖くなってしまったからだ。
本来、そこまで不器用な子ではないはずの彼女が、頑なにアクアリウスを探して私のところに持ってきたことが、何か重要な意思表示に思えてしまったのだ。
だから私は勢いよくペットボトルのふたを開けて、半分くらいを一気に飲んでやった。
そしてそのまま、残り半分になったそれを天音へと差し出した。
「……はい、天音も喉かわいたでしょ? 飲みなよ」
「え!? で、でもそれは……」
「いいの、私はもう大丈夫。……ありがとうね、私のために」
天音は暑さで赤くなった頬をさらに紅潮させて、震える手でペットボトルをつかんだ。
私のガサツな感じではない、ちびちびと一口一口を味わうような飲み方で――――ハムスターのようだと思った―――――天音はゆっくりとのどを鳴らす。
これでいい、私は何も知らないふりをした方が……そう思い聞かせ、天音の姿を微笑ましげに眺めた。
「はいはい、俺の用は済んだし、邪魔者は帰りますよっと」
わざとらしい口調で、宗太は跳び箱から降りてそのまま体育用具室の出入り口へと向かう。
「あ……ま、待って! さっきの話は……」
私の声が聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか、宗太は前を向いたまま、振り返らずに手をヒラヒラさせて外へと出て行ってしまった。
「……なによあいつ」
そう一人で呟く傍で、天音はペットボトルをかばんにしまい、立ち上がった。
「それじゃ、私たちも行こう」
「あ……う、うん」
天音に手を引かれるまま、私たちは体育用具室から外へ出た。
「あっつう……」
敷居を一歩跨いだ瞬間、熱気が一気に体にまとわりついてきた。
肌に直接当たる上からの熱はまるで刺すようで、ジリジリとアスファルトを焦がす臭いが鼻につく。
あんなに心地よいと思っていた風も生ぬるく感じ、とてもさっきまでいた場所と同じ世界とは思えない。
「……よくこんな時にジュースを買いに行けたわね」
「んうー……」
声に力が入らないのは天音も同じようだった。とはいえあんなに外を走り回った後、ほんの数分休んだだけの彼女のそれは、私よりもずっと弱々しく聞こえる。
“うだる”とは、きっとこのようなことを言うのだろう、そんなことを考えながら、私と天音は校門を抜け、大きな通りを歩いていく。
等間隔に植えられた街路樹の陰は熱を和らげるものの焼け石に水にしかならず、人通りもそこはかとなく少ないように感じる。だが街の活気を奪うほどの暑さも、それが自然によって生み出されたものならばきっと許容できただろう。
「ねえ、天音……今日の天気は“いつ”で“どこ”だっけ?」
「えと……確か、2026年の8月4日、場所は旧日本国の神戸っていうところだったと思う」
私は一つため息をついた。
暑いからだけではない。今、私と天音が交わした会話が馬鹿馬鹿しいことだと分かっていたからと、そしてそれがこの世界では当たり前のように行われるお天気談義だからだ。
この世界の天気は、全てかつて地上と呼ばれた第0階層の、過去1000年間で実際にあったものを再現しているに過ぎない。
今私たちの感じる日差しの強さも、じっとりとした湿気も、上を泳ぐ雲も、時々降る雨や雪も、空の青さもすべてが、かつてどこかで本物が存在した紛い物ということだ。
『天井』や『壁』に肉眼では見えない無数に開いている穴と、膨大な天気の記録を保管するコンピュータ、そしてそれを管理する第1階層の人間によって構築される人工物――それは風ですら例外ではない――を、今の人類は天気と呼んでいるのだ。
正直に言って、私はそれがおぞましいことだとしか感じなかった。そう思う人間は私が知らないだけで少なくない数がいると思う。でも、誰もがそんな造られた天気を受け入れるしかないのが現実だった。
なぜならかつての人類には、本物の空を捨てることでしか、自分たちが生き永らえる方法がなかったからだ。
だから現在進行形で、私たちは顔も知らない誰かが決めた暑さに押しつぶされそうになるのを、ただひたすらこらえながら歩いている。
でも今は隣に天音がいる。せめて彼女が傍にいるときには、私はそんな変えようのない仕組みのことは忘れようと決めていた。
こんな世界にだって価値のあるものはある、それを教えてくれた天音の横顔を見て、私は少しだけ気持ちが安らいだような気がして、それ以上話はしなかった。
両脇に並ぶ店はどこもかしこも涼しそうで、買い食いという選択肢はずっと頭にちらついている。
そんな誘惑を振り切り、私と天音は目的の場所に、暑さから逃げ込むように入った。