1. 爽やかな風に抱かれて
爆発事故より1か月前――――
黒に染まった世界で、さっきから誰かが私を呼んでいる。
男の子の声だ。とても聞き覚えのある声。なんだかとても必死な感じがする。
でも私はその声の主を探そうとはしなかった。する気にならなかった、という言い方が正しいかもしれない。
せっかくいい風が吹いてきたところだ、目を開けるなんてもったいない。考えることを放棄し、まるで身体が水に沈んでいくように、一瞬明瞭になった意識を再び睡魔が包んでいく。魅力的な微睡みに身をゆだねようとして――――
「おっきっろおおおおおっ!!」
――――前にいきなり揺さぶられた。頭の下には柔らかいマットがあったからよかった……わけもなく、上下する視界に眠気が一気に吐き気に変わる。
「……っにすんのよっ! この乱暴者!!」
ぐるぐるする頭を無理やりたたき起こして、私は精一杯の悪態をついた。
にらみつける私の顔を見て、目の前にいるそいつ、芦原 宗太は怒っているような嘆いているようなよくわからない表情をしていた。
「ふーん、ほー? 何を言い出すかと思えば乱暴者とな?」
私より背が低いくせに、宗太は一丁前に額に手をあててわざとらしく頭を横に振ってみせる。もう片方の手はこれ見よがしに腰に当てていた。数枚の紙をつかんだまま……
「!? それ……あっ」
その紙がなんなのか私は知っている。というより思い出した。私が宗太に頼んでいたそれを……
「あー……そっか。私が言ったんだっけ」
怒りの熱が途端に冷めていく。宗太はというと、さっきと同じジェスチャーで、さらに大きなため息を一つついてみせた。明らかに呆れている。
「やっと思い出した? ほら、お前が頼んでた今日の授業のやつだよ」
そう言って、宗太は紙を私に差し出した。ルーズリーフが5枚、等間隔に線が引かれたそれには、びっしりと手書きの文字が書き込まれている。
「……やっぱり、何度見ても宗太が書いたとは思えないわー」
「おまえな、普通、先に言うことがあるだろうよ」
表にも裏にも文字で埋め尽くされているルーズリーフは、にも関わらずとても読みやすかった。几帳面すぎると感じるくらい文字の大きさは揃えられていて、走り書きの類は一切ない。蛍光ペンの色は必要以上に使われていないし、時に図を交えていて、これほどの情報量でもどこを重点的に抑えればいいか的確に示されている。
理想的なノートの取り方そのものだった。少なくとも私の知る限り、男女問わずここまでできる人を見たことがない。
「いや、ほんといつも助かってるわよ。これで次のテストは無難に済みそうね」
「ったく。毎度のこと“急に今日はサボるー”とか言い出しやがって。普通に授業でてりゃ人並以上にできる癖に。……意味わかんねえよ」
宗太はそう言いながら、私の目の前にある積み上げられた跳び箱の上に座った。何台かあるうちのわざわざ一番段が高いものを選ぶところを見て、私は無理するなと言おうとしてやっぱりやめた。
「? 私言ったよね? 今日はいい天気だからって」
「だから、なんでここにいんのか意味わかんねえって言ってんだよ。だってここ……」
宗太が怪訝そうな顔をするのも無理もない。そう言って視線を上に移した先には蛍光灯が一本、あとは灰色に煤けた黒が点在する無機質な天井が広がる。あたりには砂のにおいが立ち込め、無造作に置かれた物言わぬそれらがあるだけの空間――――
「空、見えねえじゃん」
――――ここが体育用具室で、私はここから一歩も外に出ずにいたからだ。
「……空は、見えなくていいのよ。あんな作り物、自分がその下にいるってだけで気分悪いわ」
私は吐き捨てるように言った。
「私には……この風だけで十分なの」
ただ一つだけ、人も通れそうにないくらい小さく開いた窓を見てそう言葉を続ける。心地よい風が一瞬入ってきて、私の頬と髪を優しくなでた。
「言いたいことはわかるけどさ。この風だって空と同じで――――」
「あー、はいはいそうだねそうだね」
宗太の言葉を無理やり遮った。言おうとしていたことが私の心の矛盾を突いていることは、聞く前から分かっていたからだ。
聞きたくないという意思表示が伝わったらしく、宗太はそれっきり黙ってしまった。
「……なあ」
先に言葉を発したのは宗太だった。私は視線を窓に向けたまま、ぶっきらぼうに答える。
「……何よ」
「俺たちは、いったいいつまでここにいるんだろうな」
「さあ?」
「さあって……」
「誰が分かるってのよそんなの。この前ミヌスに行った第34分隊がダイモニオン数十体の掃討を完了したって昨日言ってたけどさ、それが全体の何%だっていうの? あいつらの本拠地だってまだ把握できてないのよ?」
「俺に言うなよ……でも、確実に前には進んでいるんだ。安心していいと思うぜ、討伐隊のおかげで俺たちは上に戻れる。本物の空を見る日もいつかやってくるんだ」
希望に目を輝かせながらそう話す宗太の姿を、私は何も言わず黙って聞いていた。
連日報道される、華々しいくらいのダイモニオンの討伐情報。でもあいつら倒された分だけ、こちらの戦死者だって確実に増えていく……その期待論だけでは語れない現実を、私は口にはしなかった。宗太の父親も、今ミヌスで人類の存亡をかけて戦っていることを知っていたからだ。
「それで……あいつは?」
宗太はキョロキョロと誰かを探すように見回し、急に話を変えてきた。
脈絡のなさに一瞬面食らったが、宗太の言うあいつが、すぐにあの子のことだと分かった。
「もしかして天音のこと? あの子なら今ジュース買いに行ってるわよ」
「あー、いつものパシリか」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、じゃんけんよじゃんけん」
「そういう割には自販機で見かけるのあいつだけなんだけどなー」
「弱いからね、あの子」
思い当たるふしがあるのか、宗太は呆れたように笑った。
「でも驚いたぜ。そんなあいつがまさかそうなるなんてな……」
「……はあ?」
天音に何か用があるの? と言う前に、宗太はそう口にした。
不思議なくらい、声のトーンがさっきと明らかに違う。
「あそこに行くの次のその時なんだってな」
「ちょっ、ちょっと待ってよ! いったい何の話をしてるの!?」
具体的な単語が一つもない宗太の話に、私はまったくついていけない。
怪訝そうな顔をする私を見て、しまったというような顔をして宗太は恐る恐る話を始める。
「あ、そうか。お前は知らないんだな……実は今日のホームルームで――――」
そんな宗太の言葉を遮るように、体育用具室の扉が突然勢いよく開けられた。