0. プロローグ
私と彼女は空を見ている。
「……見える?」
「ううん、まだ、何も」
チラリと梯子の下に視線を移す。私を見上げる彼女の姿を、月明かりが淡く照らしている。今にも泣きだしそうな彼女の潤んだ瞳を見て、私は再び天へと顔を向けた。
沈黙の空が広がる。黒い絵の具を溶かしたような暗闇に、ぽっかりと浮かんだ白い丸。遠い昔の作家はその光景に愛の言葉を見出したが、私はあんなものに情緒も風情も感じることはできない。
「ね、ねえ……もう降りてきてよ。やっぱり空に浮かぶ船なんて……そんなのあるわけ」
「いいの」
不安と焦りが混じった震える声は、か弱くて、儚げで、それでいて優しくて。
でも私はそれを遮って、目を凝らすふりをして空を見続けた。
放課後、何の脈絡もなく彼女は口にした。
星が見えないくらい明るく輝く満月の夜空、その時だけ漂うように浮かぶ船が姿を見せる。それは大きな島とも、ピンク色のマンボウとも言われ、また天使の翼を持つ人のようだとも言われている、と。
だから今夜、私たちのマンションの屋上で一緒に確かめてみよう、と。
そんな荒唐無稽で突拍子もない噂話。それがただの作り話であるということは、彼女の泳ぐ目と上ずった声が何より物語っていた。嘘をつくのが下手な彼女の、それを自覚してなお必死に嘘を隠そうとする姿がとてもおかしくて、私は頷いてあげた。
そんなわけで、私と彼女は空を見ている。……2時間も。
私は彼女に聞こえないように小さく、ため息交じりのうめき声をあげた。
何も描いていない、真っ白な紙を見ていたほうがまだ心動かされるかもしれない。そう思わずにいられないくらい、私はこの空に何の価値も見出すことができない。
それでも見上げ続ける理由は、空飛ぶ船とやらに興味があったからじゃない。彼女を困らせようとか、私の意地がそうさせているわけでもない。ただ、彼女の小さな勇気を、彼女と過ごす残り少ない時間を、わずかにでも長引かせたいと思ったからだ。
ここで終わりにしたら、そのまま夜が明けたら、私と彼女は、もうこうして一緒に空を見ることもできなくなってしまうのだ。
胸を押さえつけるように、右手で服をきつく握りしめる。
焦りを感じていたのは、きっと私の方だ。明日の夜にはここに彼女はいないのに、私は何も言うことができずにいる、別れすらも喉の奥で燻り、音にすらならない悲鳴が灼けるような痛みとなって口内を襲う。素直な言葉が紡げない心が苦しくて、痛い。
その時だった。彼女が私を後ろから抱きしめたのは。
いつの間に上ってきたのか、温かくて柔らかくて、文字通り私の身体を包み込むような彼女の温もり、お互いの服越しに感じ合う心音、それがこの一瞬の静寂を満たすすべてだった。
まるで水たまりに張った薄氷のように、触れただけで崩れてしまいそうな―――そして決して割ってしまわないように恐る恐る手を伸ばす子どものように、彼女は囁いた。
「ごめん……もう、いいよ」
ああ、いつだってきっかけは彼女だった。
臆病で、気弱で、騙すより騙される方が似合っている彼女。
でも私に勇気を、自信を、優しさを教えてくれた大切な人。
貴方がいなかったら、私は……
「……ありが、とう」
言葉と一緒に涙が出てきた。こんなにも簡単な一言なのに、ずっと言えなかった言葉。
震える手で掴んだ彼女の腕はもっと震えていて、そのまま抱きしめ合って、泣いた。
「1か月」
「……え?」
私と彼女は仰向けになって空を見ていた。
ひんやりとしたコンクリートと火照った彼女の掌の感触が心地いい。
「私を無視していた期間、よ」
「! あ、あの、それは、ね……!?」
強張る彼女の手を、私は無理やり掴んだ。
「…………ごめ、ん」
さっきと同じ言葉なのに、二度目はもっと弱々しい。明らかに焦っているのが汗ばむ手から伝わる。
だから私は隠すことなく笑った。笑ってやった。
「ふふ、怒ってないわ。アンタが馬鹿みたいに優しいからだって、そんなのとっくに分かってたから」
「うん……」
きっと彼女は知っている。怒っていないわけがない、と。
きっと彼女は気づいてる。私が分かっていた、と。分かっていてなお傷ついていた、と。
でも言い出せなかった。言ってしまうのが怖かった。そして私はそれが分かっていたから……それ以上は何も言わなかった。
彼女は明日、ダイモニオンの討伐のために、ミヌスへと旅立つ。人類の希望をその小さな身体に携えて、この世界よりずっとずっと上の領域へ飛び立っていくのだ。
「明日、だね」
「うん」
「もう、会えないのかな」
「……うん」
「馬鹿。簡単に認めるなって」
「あ……メ、メール送るから……!」
「届くわけないよ。階層一つ違うだけで厳しい検閲が入るってのに」
「じゃ、じゃあ手紙! 手紙書くから!」
「……いいよ、アンタの仕事がどれだけ大役か、みんな分かってるって。アンタは自分の役割を、きちんと果たしてきなよ」
「でも……!」
また泣き出しそうになる彼女を、今度は私が抱きしめる。優しくはないかもしれないけれど、精一杯の気持ちを乗せて、気持ちを彼女に伝える。
「大丈夫、大丈夫だから。だからアンタも……ね」
「うん…………うん…………!」
そのまま、彼女は私の胸の中で笑った。泣きはらした目には涙がにじんでいたけれど、それを塗りつぶす輝きが表情に表れていた。
「あ、それじゃあ……これ渡しておく……ね」
そう言って、彼女はポケットから取り出したものを私の手に掴ませた。
それはお守りだった。どこか古めかしい、だからこそ懐かしいような感触。
そこに書かれていたのは……
“安産祈願”
……お礼を言おうとして、やっぱりやめた。いろいろと突っ込みたい気持ちが沸々湧いてきて。
「やっぱり馬鹿だ」
すべてはその一言に集約された。ため息もそれはそれは大きく吐いた。
「それしかなくて……やっぱり駄目、だよ、ね……?」
「ううん、もらっておく。大事にするよ」
「本当!? 絶対絶対持っててね!」
彼女の嬉しそうな顔を見て、私も一緒に笑った。
空は相変わらず黒と白だけだけど、二人で見る分には悪くないなと、そう感じていた。
次の日、私はそれをニュースで知ることになる。
ミヌスへ向かった第35分隊、20人を載せたスペースシャトルが発射後爆散、乗員全員の生存が絶望的である、と。
その乗員リストに彼女の名前が含まれている、と。