覚醒
それは唐突だった。
何の前触れもなく、どこからか私の記憶は浮かび上がってきた。
私は今、子ども部屋のようなところで赤色のソファに座っている。
最後にいた場所から瞬間移動をしたような感覚に襲われていた。
辺りを見渡す。
見覚えはある。この部屋は私がいつも、本を読んでもらっていた部屋だ。
だけどここは“私”の知らない場所のはずだ。それなのに、この家で生活していた記憶が曖昧だが存在するし、ここが自分の家だと当然のように思っている私がいた。
今の私の名前はエルナで、母の名前がウ-ナ、父の名前はベガ。
父と母がいない間に、私の面倒をみてくれたていたのはアンヌ。
私はこれが現実なのか悪い夢なのかわからなかった。現状に頭が全くついていけていない。
動揺し、不安だけが膨らんでいく。
どうすればいいのか分からずに泣き叫びたくなった。
私は不安を消そうとする衝動に任せて部屋から出て、無我夢中で家の外に飛び出した。
だけど外の景色は見覚えがまったくなく、私の心とは正反対に晴れ晴れとした太陽が辺りを照らし、一面には瑞々しい緑が広がっていた。
ここに立ち止まっても不安は全く収まらず、むしろ増していき実際泣き叫ぶ一歩手前だった。
私の心をかろうじて支えていたものは、元凶でもある思い出した記憶だった。高校生にもなって泣き叫ぶ事は出来ないと、頭のどこかで思っていたのだ。
私は拳を痛いほど握りこんでいたが、体の震えを止めることはできていなかった。
そんな私を慰めるかの様に、風が一陣頬にあたった。
つまらない矜持に突き動かされて、少しでも現状を把握しようと必死に頭を動かす。
そうするとさっきまでいた部屋にあった本棚が閃き、私は来た道を急いで駆け戻った。
部屋にたどり着いて、本棚にあった本を適当に引き抜き絨毯の上に広げる。
だけど書いてある文字は日本語ではなくて、ほんの少しだけ見覚えがあるが、わずかな単語が分かるだけだった。
涙が勝手に一粒落ちた。本に小さなシミを作る。
誰かに――今の母にすがり付いて、泣き叫びたい思いに駆られた。
この時私はすでに、この世界での記憶にあった母を母と思っていたのだ。
部屋の中なのになぜか風が吹いた気がした。
「エルナお嬢様?」
開け放したままの扉から知った声が聞こえた。
目線を向けると予想通り見覚えのある人だった。
この人は私に毎日のように本を読んでくれていたひとだ。
「アンヌ?」
知っている存在に少しだけ心が落ち着いて、私はよく考えずにその人の名前を口に出した。
自分が喋ったはずなのに、自分の声とは程遠い高い音が喉から漏れた。
私の声を聞いたアンヌは凄く驚いている。
今まで話した記憶がないので、私が突然言葉を話し出したように見えるのだろうと、どこか冷静な頭の隅でそう思った。
アンヌは戸惑いを隠せていない顔をしながら、私の側にやって来て目線が合うように膝をつけた。
「エルナお嬢様、どうなさったんですか?」
優しく気遣ってくれる声に、私は今まで耐えていたものが決壊した。
「アンヌ、本が……っ読めないの」
泣いていた理由を言わなければと、だけど嘘を考える余裕も無かった私はここまで言って、もう限界だった。
私はアンヌにすがり付いて、わんわんと子どものように泣いた。
アンヌは驚いて、けれども優しく抱きしめてくれた。
「まだ子供なんですから仕方ありません。これからアンヌがちゃんと教えますので、そんなに泣くことはありませんよ」
そう言いながらアンヌは私の背を優しく撫でてくれる。
私はその言葉に少しだけ安堵したが、泣くことはどうやっても止められそうになかった。
泣き止んだのはそれから随分経ってからだが、泣きつかれていた私はそのまま疲れて寝入ってしまった。
起きた時、目の前にはアンヌと両親がいた。
私は驚いて目を瞬かせた。
「エルナ?」
私の様子を目を見張って見ていた母が、私の名前を呼んだ。
「……お帰りなさい?お母さま」
私は前世の習慣を頼りにして、こちらの言葉でたどたどしく答えた。
言葉の意味は間違ってはいないはずだ。『お帰りなさい』と『お母さん』という単語は、今の私の記憶にある数少ない言葉……のはずなのに反応がない。
間違ってたかなと不安になっていると、母に凄い勢いで抱きしめられた。
びっくりした!
「ベガ、エルナが……!」
「あ、ああ!」
母が父の元へ私を抱き上げて近づく。
私は母に抱きしめられたことで、やっと胸が安心感で満たされたのを感じた。少しだけ心にも余裕が生まれてくる。
「お父さま、お帰りなさい」
父と目が合ったので父にも言ってみたら、母ごと抱きしめられた。
アンヌがそれをみて微笑んでいるのが、父のがっしりした腕の中からチラリと見えた。
「エルナ……でも、何故突然?」
誰かに対しての言葉ではないような父の呟きに、唯一答えられる可能性のあった私は、けれど何も答えられなかった。
「いいじゃない、そんなこと。エルナが喋ってくれたんですもの。難しい事は後にして夕食にしましょうよ。お腹すいているでしょう」
母がそう言って私の背を撫でた。
そういえば昼御飯も食べ損なっていた。というかアンヌが来た時も今も、ご飯の時間だから呼びに来てくれていたのだと漸く思い至った。
「では、私はこれで失礼します」
アンヌは通いの家政婦さんのようなので、もう帰ってしまう。
「ええ、ありがとうアンヌ」
母が見送りの言葉を掛けるが私はアンヌが居なくなる事に不安を覚えた。
焦燥感に駆られて、とっさに今分かる言葉でアンヌに話し掛けた。
「アンヌ、明日、来る?」
「はい。もちろん来ますよ。明日は字の読み方を、教えましょうね」
アンヌは私が喋っている事にもう慣れてしまったのか、暖かい微笑みを浮かべて答えた。
「うん」
私はそれに安堵して、アンヌを送り出した。
それから私はずっと母にべったりくっついていた。
夕食を食べる間も母親の側を離れなかった。両親はそんな私を心配そうに見ていたが、私が自分の意思で動いている事を喜んでいるようだった。
その夜はとてもじゃないが一人で眠れなかったので、父と母のベッドで眠った。ベッドが大きくて助かった。
私はずっと母の手を握っていた。そのおかげか、この夜は安心して眠る事が出来た。